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浅間山 10月9日 (小諸市飯綱山より)
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 このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2019年09月13日
北国街道小諸宿荒町 通り抜け・・・
1
越後から善光寺を通り江戸へ向かう北国街道は追分宿で中山道と合わさりますが、その一つ手前の宿場が小諸宿・・・
その中心だった本町を江戸に向うと道は右に直角に曲がりますがその少し手前から荒町となります。本町の突き当たりに光岳寺の総門があり、ここはもう荒町です。
この総門は江戸時代に、小諸城の武士たちの城への通用門だった足柄門を移築したものです。足柄門は大手門と次の三の門との間に入るようになっていました。今はそのあたりは、しなの鉄道の線路になっています。そのあたりは足柄町と呼ばれています。

大手門は城の入口と考えがちですで、家臣たちも大手門から登城と思われますし、時代劇でも、そういう場面があります。しかし、大手門は城主や特別な客のための正式な門、格式が高いのです。家臣たちは裏門の通用門から登城しました。
明治維新になって、城の建物は取り壊すか、払い下げられました。今は重要文化財になっている小諸城の大手門と三の門も、一度は民間に払い下げられています。


2
光岳寺曲がり角にある江戸後期建物の荒物雑貨店の結城屋(ゆうきや)です。

見事な格子戸が、昔の商家の趣を感じさせます。
屋根の上にある明かりとりの天窓や、長い庇(ひさし)に、機能を超えた美しさを漂わせています。この通りは、後世道路を広げましたが、その時に曳家をして下げたので江戸時代の長い庇が残ったそうです。
戦前は金庫、馬具、たばこ、荒物、履物、戦後は下駄・草履を中心などを商っていたそうですが、江戸時代はなんの店だったのでしょうか。今はこんな竹製品がたくさん並んでいます。した。・・・

3
荒町を行きます。

先週紹介した八朔相撲はこの荒町の祭りです。八朔相撲を見るために遠回りして通っていきました。健康のための散歩を兼ねています。

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荒町は小諸宿の寺町で浅間山側にお寺が並んでいます。光岳寺の隣には華林山宗心寺(写真・左)があります。昔は並んでいたのですが、今は道が開いて、道向かいですが・・・
そして、戦国時代の1544年に開山した禅寺 海応院(かいおういん)の参道(写真・右)・・・
入口だけで先を急ぎます。そのさき全宗寺、仏光寺と寺町は続きます。

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江戸時代中期から藩御用達の味噌醤油を醸造してきた酢久(すきゅう)商店・・・
現在も「山吹味噌」の商標で、味噌製造に携わっています。
街道に面した土蔵、薬医門、屋敷ともは、江戸時代の建物です。
「御味噌」と書かれた飾り看板には、凝った彫刻が施されています。
関東から仕入れた畳表、かつお節、茶、塩などを信州各地に供給した問屋でした。小諸藩の御用商人と藩に金を貸し、名字帯刀御免の武士並みの旧家で、小諸の名誉市民の元衆議院議員 小山邦太郎と、文化勲章受賞の洋画家 小山敬三は兄弟で、この家の出身です。
明治以降は、鉄道開通、純水館という製糸会社をおこし、小諸商業の中心の役割を果たしました。

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嶋田屋は下駄荒物の卸商で、信越線開通後、関東一円を市場として活躍しました。
建物は明治初期の小諸商家の屋敷構えを残し、主屋は低い二階に虫籠窓のある切妻の土蔵造りの建物です。

この建物は江戸末期小諸藩の御用商人で呉服商の高橋平四郎が明治初期に建てた屋敷です。明治維新後、小諸藩の士族の失業対策として御牧ヶ原開墾を小諸商人と士族が中心となって、300人が入植し、明治3年から25年まで、開墾を行います。

明治なると、小諸商人は城下町、宿場町からの脱皮を図ります。いち早く新しい時代の流れに乗って発展していき、東信濃一の商業都市になります。もっとも、大正時代くらいまでですが・・・

高橋は渋沢栄一と親交もあり、富岡製糸場の工女募集や繭の買い付けをしていましたが、小諸にも器械製糸場をと土地を売り、融資で資金を集め製糸工場「丸万製糸場」を六供地区に創業します。高橋は明治初期に小諸の製糸業を発展させますが、明治14年(1881年)のデフレで屋敷を手放し、ここは嶋田家の店となりました。

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旧桑原医院・・・
左側が大正モダンの医院で右住居ですが、江戸しだいの建物だそうですが、医院に合わせて表は洋風に改装しているそうです。

9右側山崎屋長兵衛商店は明治初期の建物だそうです。モダンな何時で、もう少し後のような気がするのですが当時としては斬新そのもので、小諸の当時の先進性を感じます。

明治時代は、化粧品、香水、かんざし、櫛、アクセサリーを売っていました。お嬢様から芸者まで、女性に大人気の店だったそうです。
ただ、明治のままでなく、大正から昭和初期には、店の入り口が洋風というスタイルが流行り、モダンな外観に改造されているのだそうです。

11脇道は赤坂・・・
赤坂は足軽の住んだ町・・・・

江戸時代は木戸があって、この先は城内でした。

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赤坂の入口にある「旧ミルクホール」・・・

明治から大正にかけて、政府は日本人の体質改善の向上を図り、それにこたえて主にミルクを飲むことを主とした飲食店が沢山出来たそうです。小諸でも、大正ロマンを感じさせるミルクホールが生まれたようです。

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このあたりで、荒町から与良町へ写ります。

荒町を振り返って一枚・・・

明治に、小諸は城下町、宿場町からの脱皮を図ったと書きましたが、そのためには、用途に応じて、古い建物をその時代にあったモダンなものにしていく動きもありました。明治なら文明開化、そして大正ロマン・・・
そんな歴史の返還をこの町の建物は残しているのかもしれません。

[ 投稿者:オコジョ at 19:32 | 北国街道 | コメント(0) ]

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