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浅間山 5月08日 小諸市耳取より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2019年06月11日
真田・傍陽の里と山城達(1) 洗馬城
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洗馬城本郭からの浅間連峰・烏帽子岳(標高2,066m)・・・

浅間連峰の2000mを越える山で一番西にある山・・・
ここはその麓の傍陽地区にある山城の上・・・

傍陽はかつて、真田一族が治めた真田の里にあります。


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真田一族の本拠地だった、上田からバスを乗り継ぎ傍陽小学校前で下車・・・
この辺りは萩という地区のようです。
目指す城は小学校の裏あたりにあるとか・・・

小学校はどこかなと・・・

この道は洗馬道という古い街道だったそうです。

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小学校は運動会・・・
この日はずっと子供たちの元気な歓声が傍陽の村に響いていました。

校舎の後ろの山が、洗馬城です。ここより、100m位高い所に本郭がありました。写真の一番高い所です。
洗馬城は戦いの時の山城、武士たちは普段は里で、時には農業をしながら暮らしていたようです。

小学校のあたりは、その城主の館があったあたりですが、今は小学生たちの城です。

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ここが城の入口・・・

だいたい山城の登り口には何もなくて、ここから登ればいいのかなという感じなのですが、ここははっきりとした案内があって助かります。

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最初はこんな松林の緩やかな尾根・・・

この城について触れた古い史料としては、室町時代から戦国時代にかけての諏訪神社上社の重要祭事の頭役を奉仕した信濃国内郷村の御頭足(御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録)を記した、「諏訪御符礼之古書(すわおふれのこしょ)」(「信濃史料」第9巻3頁)のなかの応仁2年(1468)4月の部分に、村上氏が千葉(せんば)城を攻めたとあります。

真田地方の豪族(国人)はる」「千葉城」は、記録に残っているのは曲尾氏(まがりおし)、横尾氏、洗馬氏、定田氏(真田氏)などで、千葉はなく洗馬氏の洗馬城と推定されています。

坂城の村上氏は、坂城から芝峠を越えて洗馬城を攻めて落城させ真田を支配していったようです。
坂城から芝峠までは一度歩いたことがありますが、最後は急ですが、距離的には短く、松代への松代道に出られます。その道からくると最初の山城がここ洗馬城です。

10堀切
堀切・・・
昔はもっと深かったのでしょうが・・・

戦国時代には、洗馬川沿いに菅平へと至る街道と地蔵峠と越えて松代へと至る街道の分岐点に位置する要所を近接する根小屋城と共に押さえる城であった。

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見あげると、ニセアカシア(ハリエンジュ 針槐)の花が・・・

北原白秋の「この道」に「♪この道はいつか来た道 ああ そうだよ アカシアの花が咲いてる。とあります。

この花は正確にはアカシアでなく、北アメリカの原産で、ハリエンジュと言います。明治11年にフランス経由で日本に来ました。そのとき誰かが、間違えてアカシアという名で、広がりました。、

ハリエンジュは高い木になります。そして生育が早く木の生えていない場所の砂防用、土手、崩壊地の緑化として植えられました。
ハリエンジュは、背が高く花も綺麗ということで、街路樹とか公園に植えられて広まりました。「札幌のアカシア並木」も、本当は「札幌のハリエンジュ並木」です。

この花はマメ科特徴の根に根粒がつくられ、葉は空気中の窒素を取り込み、その落葉で、土壌は窒素を多量に含んだ豊かなものします。その上、秋になると、小さなインゲンのような種を大量に撒き散らし、その多くが発芽します。そして1年で1m以上も伸長し、瞬く間に高い木となり光を遮ぎるために、根元は日が当たらず他の植物は生育できなくなります。つまり、ハリエンジュのこの世の春となって、従来の森林を破壊していきます。
今は増えすぎて、要注意外来植物に指定され駆除対象となっています。

この山に登って洗馬城を征服しようというのでしょうか、困ったことです。
閑話休題 話がずれていますね。

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土塁かなと思ったのですが、狭い尾根に土塁は必要ないですね。土橋かな・・・

土橋は土の橋、当り前ですね。山城の土橋は堀切を作る時に、一部分を残してできた橋・・・
もっとも、城が廃城になって、地元の人が土を盛って歩きやすくした場合もあります。
どちらかなと・・・
平らでないからもともとこのように作ったようです。

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こんなローブの有る斜面も・・・
ロープを使わなくても大丈夫でしたが・・・

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ここも堀切だったようですね。

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道脇には石積もありますし・・・
石積というよりも並べてある感じですが・・・

でも、険しくなってきて、核心が近いかと・・・
とはいえ、ただの山の中という感じです。山城は地味ですから・・・
  
あとで調べる撮影した場所が4郭・・・
この上が3郭ということのようです。

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2郭はこんな具合に横を絡んでいきます。
新緑の山道を行くという感じです。

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石垣をロープで登ると・・・

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本郭・・・・

東西約十m、南北約四十mとか・・・
大人数が詰められそうですね。

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本郭からの展望・・・
真田の里を見下ろします。
城の入口にあった案内板にはこうありました。

>眺望に優れ、傍陽川ぞいの松代道や洗馬道、遠くは祢津方面まで見渡すことができる。地蔵峠を越える松代道は北信濃への最短路で、洗馬道は菅平のへ抜ける古い街道筋である。
戦国期には、南峰に位置する根古屋城とともにこれらの道を抑えるための重要な役割を担った城と考えられる。 


城の麓はで上田方面からきた松代道は洗馬道と分かれます。松代道は地蔵峠を越え松代へ・・・
戦国時代は千曲川に阻まれて川沿いに、長野から上田には来られず、松代道が本道でした。この城は真田の里を守る大切な城だったようです。

麓からは小学生の歓声が大きく響いていました。

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西と北の縁に土塁が設けられたと思われる土居が残る。
入口にあった案内板にこうありました。この土の盛り上がりが土塁跡です。

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土塁跡から下を除くと斜面が見えないほど急です。(写真左)

そしてその先の尾根とは深さ13m幅30mの巨大な堀切となっています。

深さ13mを、こんなところを降りてみました。

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降りて下から見上げました。

見あげていますので、傾斜が無いように見えますが、本当に急でした。

道とは言えませんね。昔の武士はこんなところを攻めたのでしょうか。大変だったのだなと・・・

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堀切・・・

大きすぎて峠みたいでした。

左の尾根が本郭・・・
右の尾根にも小さな廓がるようですが、藪が凄くて・・・

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帰りは、城を絡むこんな道を・・・

藪でしたね。山城は枯草の方がいいのですが、新緑の山歩きの気分が楽しめました。

この城は海野氏であり、その後、村上が治め、武田により村上義清が越後に去ると、真田氏も真田の城になりなす。その真田氏も松代道の地蔵峠を越えて松代に移って、この城も歴史から消えていきます。

[ 投稿者:オコジョ at 07:53 | 上田市・小県郡 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
洗馬
木曽の洗馬かと思ったら、違うんですね。
ものすごく急勾配。
御写真でも分かりますよ。
私は絶対にご免こうむりたいです。
こんな所に、昔の武士たちはいたんですね。
本当に大変だったと思います。
投稿者: 万見仙千代 at 2019-06-11 20:55:14
万見仙千代さんへ
こんばんは
今見たら、あちこち変なところが失礼しました。
このところ取り込んでいましたので、気が付かなくて失礼しました。
洗馬と言えば木曽の入口ですね。
ここはマイナーな洗馬です。
山城は守るための城・・・
急で攻めにくくして、上から敵を攻めるためでした。簡単に攻められたら、命がない・・・
でも、この城は簡単に落ちてしまったようです。
投稿者: オコジョ at 2019-06-11 21:30:33

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