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浅間山 5月08日 小諸市耳取より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2019年04月16日
坂城町を少し  阪木宿と満泉寺
1
末っ子の帰る日・・・
といってもアプトの道と富岡製糸場を見た月の日ですが、帰るのは夕方ということで、温泉に行こうかと・・・
前日も温泉に入っているのですが・・・

白木蓮の咲く坂城町に来ました。
小諸の白木蓮は、私はまだ見ていません。

息子の行ったことのない坂城町の温泉にしました。
坂城町は上田と長野の間にある町です。


2
坂城駅構内から、長野方面・・・

見えている山は清和源氏の流れを組む村上氏の本拠地、葛尾城(右)と支城の姫城のあった山(左)です。

村上氏平安時代末に村上郷(旧上山田町、旧戸倉町)で勢力を伸ばし、南北朝時代後期に坂木(坂城)に移りました。そして、北信濃一帯に勢力伸ばし、統治した豪族です。

村上氏の中で特に有名なのが、武田信玄と戦った村上義清です。
息子に知っているかと聞いたら知らないと・・・
それが普通ですね。そのあとの話はまた後で・・・

3
しなの鉄道 坂城駅・・・

この駅前あたりに江戸時代に坂木藩の藩庁の陣屋があったそうです。
坂木には天和2年(1682)から20年阪木藩がありました。その後は天領となり、中野陣屋に統合され出張陣屋から廃止されます。建物はその後、焼失。
その後、阪木に陣屋が復活しますが、ここから約2キロ近く離れた中之条に中之条陣屋がおかれ幕末を迎えます。

坂城と坂木が入り混じっていますが、江戸時代までは坂木村でした。ですから、坂木藩、坂木宿でした。

明治19年(1886)に坂木村は坂城村に改称しています。そして坂城町となりました。
この土地には平安時代の延喜式の式内社の坂城神社があり、中世以降は坂城大宮と称していたといいます。
このことと、坂木より坂城の方が立派に感じると考えたのかもしれませんね。

5
坂城駅前に若山牧水と高濱虚子の碑があります。

こちらは牧水の歌碑・・・

   春あさき山のふもとの畑をうつ うらわかき友となにをかたりし 牧水
 

牧水は大学時代に園田小枝子と出会い激しい熱烈な恋に落ちます。その故意に苦悩し、彼女を生涯の伴侶として、文学者として身を立てようと決意をします。しかし、失恋、おまけに、主宰していた詩歌雑誌「創作」も、発行元との意見の食い違いによって廃刊し、生活のために新聞社に勤めますが僅か、2ヶ月足らずで退職。「最もひどい乱酔の続いた時代」と言われる日々だったそうです。そして明治45年(1911)に、顔を怪我した泥酔した姿で、小諸で出会った青年、山崎斌の坂城の家を訪れます。そして10日余り滞在したそうです。
その後、太田水穂の家で、水穂の親戚の太田喜志子と出会い恋に落ち結婚します。園田小枝子との恋の終焉の翌年のことです。
でもこう云う多感が歌人としての資質としての要素であるのかもしれません。

この歌はこの時の坂城滞在の時の歌のようです。

6
こちらは虚子の句碑・・・

   春雷や傘を借りたる野路の家   虚子 


この句は「小諸百句」の中の句です。小諸百句には「昭和十九年九月四日鎌倉より小諸の野岸といふところに移り住み昭和二十一年十月の今日まで尚ほ續きをれり。鎌倉の天地戀しきこともあれど小諸亦去り難き情もあり。二年間此地にて詠みたる句百を集めたり。」とあります。

2つの碑、どちらも小諸と関係がありました。

7
坂城駅のすぐ近くを北国街道が通っています。駅入口あたりで街道は直角に曲っています。上田宿は横町、戸倉宿側が立町・・・
ここは阪木宿です。坂木宿はこの大門町の先で、左にまた曲がって新町この先でも・・・
本当に良く曲がります。ここに来る前にも曲がってきています。ここは坂木藩の藩庁の陣屋があった関係で、防御の関係から、敵が攻めにくいように複雑に曲げたようです。

城下町の小諸や上田はもっと多く小諸は8回、上田は10回くらい曲がっています。道は曲げる川に橋は掛けない、住むもののことは考えなかったようです。道は無狭く車は大変かな・・・

宿場の中心の立町にある本陣、宮原家の表門・・・
江戸時代からの本陣の門です。坂木宿には2軒の本陣がありました。この道向かいにもう一軒の中澤本陣がありましたが、今は残っていません。

8
残念ながら、明治に火災で江戸時代の本陣の建物は失われ、昭和4年に春日医院として立てられた建築の木造三階建ての重厚な日本建築が「坂木宿ふるさと歴史館」になっています。です。ここでは村上氏の歴史、北国街道坂木宿に関する資料が展示されているのですが、この日は月曜日で休館・・・

目的としてきた坂城町出身の刀匠の人間国宝、故宮入行平の作品と業績と、坂城の工業技術の紹介する「鉄の展示館」も休館・・・
こういうこともありますね。

15
道は先で狭くなり日名沢川を橋で渡ると大門町になります。

9
ここは名主だったの坂田家です。歴史を感じさせる素敵な建物です。
出桁造りで、2階の窓の部分も背が低く、昔は旅籠だったかもしれませんね。
落ち着いた海鼠(なまこ)に鏝(こて)文字の「さかた」に独特の雰囲気があります。

10坂田家の屋根・・・
小屋根を載せていますので、ここも養蚕をしていたようです。

富岡製糸場で湯気を抜くために小屋根があると書きましたが、ここは「おこ(蚕)さま」のためです。全国的には知りませんが、こちらでは蚕のことを「おかいこさま」を短くして「おこさま」といいます。その言葉には、こどものように、かわいいという意味もありますが・・・
当時、自分の子はほっておいても育ちますが、蚕はそうは行きません。
蚕飼育は温度管理が必要で、その保温で火を焚いた煙出しの役割が小屋根でした。小屋根は、「気抜(きぬ)き」です。
温度調整は、下から紐で引張り開閉します。要するに煙突ですね。人は暖房を我慢して、でも蚕には必要でした。そして、それが人々の暮らしを支えた証しであるようです。

11
素敵な家が続きます。

奥は、江戸時代は旅籠だった山浦家・・・

13
右がる道・・・

北国街道はここを左に曲がって、善光寺、そして前田百万石のお殿様の国の金沢へと続きます。曲ったこの道は新町と名前を替えます。

我が家はもう少し真っすぐと・・・

16
右に、寺の入口があります。

右端に「村上氏城館跡」という案内が見えますね。

ここは満泉寺という寺ですが、村上氏の菩提寺です。
元は坂城の御所沢というところにあった応和3年(963)の創建の天台宗の修善寺という寺だったそうです。

ここは、戦国時代は寺ではなく、村上氏が坂城郷に移ったときに葛尾城とともに構築された、村上氏の160年代々の居館でした。

満泉寺は戦いにより焼失、その後、村上氏居館跡に再建されたものです。寺そのものは後世の物で、村上氏をとしのばせる物はないようです。

館の当時の規模ははっきりしませんが、満泉寺を中心とした館は内郭とその周囲を取りまく外郭から構成された、一辺170メートルの広大なものだといわれます。

17
参道は突き当たって左に直角に曲って、山門へ・・・
これも防御の桝形なのかも・・・

息子の知らない村上氏の話を少し・・・

村上氏は信州の東北部一帯を支配した戦国大名でした。
その最後の当主、義清は坂城を本拠地として、甲斐の武田とたたかいます。

戦いの相手の武田信玄の戦績は通算成績に直しますと71戦48勝2敗21分という驚異的な数字です。さすがに強敵、上杉謙信との戦いはすべて21分の中に入ります。
では2敗の相手・・・
誰あろう、村上義清です。川中島の戦い以前の話です。

天文17年、武田晴信(信玄)は信濃全土の平定を目指して5000人の兵力で、上田地方に侵攻、義清は半数にも満たない2000人の兵力で、迎え撃ちます。
両軍は、上田原で千曲川を挟んで戦います。
当初は、兵力で圧倒的優位に立つ武田軍が有利でしたが、義清は、敵が緒戦で勝利して油断したところを、先頭に立って軍を率い、武田本隊に激突します。
義清は、敵の首を取っても恩賞に関係無しとし、村上軍は敵兵の首を取らずに、ひたすら敵軍に向けて突撃させました。

武田勢は総崩れとなり、晴信は人生、初の大敗をきします。
武田軍は宿老の板垣信方、甘利虎泰をはじめ、1000名以上の死傷者を出し、信玄自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治することになります。

18
本堂・・・
再建されて綺麗になり過ぎました。
これも仕方ないことですが・・・

2回目は「砥石崩れ」といわれる砥石城の戦いです。
砥石城は上田・菅平インター付近にある三方を急な崖で、攻める箇所は砥石のような一面の崖という城でした。
武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名でした。
9月9日、武田軍の総攻撃に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退します。

19
9月11日、再度、城攻めが行なわれますが再び、武田軍は敗退します。そうして、武田が攻めあぐねている間に、村上義清は自らが2000人の本隊で武田の背後を突きます。
晴信は、撤退を決断しますが、ときすでに遅く、1000人近い死傷者を出し、信玄晴信自身も影武者を身代わりにして窮地を脱したといわれます。

20
梅の花と葛尾城・・・

この2回の闘いと、続く川中島の戦いで信玄の信濃侵略は大幅に遅れます。この遅れが無かったら、信玄が天下をとっていた可能性は大きかったかもしれません。そうなっていたら歴史は大きく変わっていたかもしれません。

しかし、ついに天文22年(1553)村上義清義清は信玄に追われて、葛尾城を放棄して上杉謙信を頼り、越後へ逃れました。
これが川中島の合戦につながります。
上杉謙信の目的のひとつが、村上義清の失地回復でした。しかし、義清は坂城の地を再び踏むことなく、世を去ります。

[ 投稿者:オコジョ at 08:04 | 千曲市・坂城 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
坂城と阪木と坂木
ややこしいですね。
それにしても、素敵な街並みです。
村上義清
佐久に来るまでは、まったく知らなかった武将です。
大河ドラマで初めて知って、こんな強い武将があの時代にいたんだ!とびっくり。
最後は越後に逃げ延びて、無念だったでしょうね。
投稿者: 万見仙千代 at 2019-04-19 21:57:11
万見仙千代さんへ
おはようございます。
アレ・・・
ごめんなさい阪木は坂木の変換ミスでした。
国道は千曲川沿いなので、昔の町並みが残りました。本当に古いものは少ないのですが、今も陽が暮らしているんだなという、生活感を感じさせる町並みです。
村上義清は魅力的ですね。
武田臥薪嘗胆釉に入ってこなかったら…
戦国は無情です。
投稿者: オコジョ at 2019-04-20 08:53:30

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