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浅間山 (2月18日 御代田町馬瀬口諸市より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2019年02月21日
久しぶりに虚子の道2 神社と古墳と虚子庵と
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途中で見つけた枯草の中の春の色・・・

我が家の福寿草も、昨日一輪が咲いてくれました。
花たちは春を忘れないようです。

昨日は妻の叔父の葬儀があり佐久市まで出かけましたが、手袋やマフラーも必要なく暖かな日でした。
今日も、朝から晴れていい天気ですが、寒さが戻っています。今日は陶芸の例会ですが、手袋を、ネックウォーマー、毛糸の帽子を被っていってきます。
でも、春の足音が大きくなってきているようです。


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帰り道の仏たち・・・

仏の姿の掘られている馬頭観音は寛政7年(1795)といいますから、江戸時代中期・・・
ここでは一番古いのかな・・・

その時代からここは人々が通う道だったようです。

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その先の別れ道にも大きな馬頭観音の文字碑・・
安永6年(1777)とありましたから、上の馬頭観音より古いですね。
馬頭観音の文字碑は愛馬の供養のためのものが多いとか・・・

ここは信濃路小諸宿たくさんの馬が活躍したようです。

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屋根の棟の上に交差し突出した千木(ちぎ)がある家・・・
神社建築によくある形ですね。この建物は「御嶽山信開講社社務所」だそうです。
御嶽山信仰の御嶽講の社務所です。
この奥には御嶽神社があります。

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神社といっても建造はなく、石碑がたくさん並んでいます。こうした場所を御嶽神社と呼んでいるのはこちらには多いですね。
御嶽山は江戸時代中期までは厳しい戒律による重潔斎を終えた道者といわれる修験者しか登って参拝することが出来ませんでした。
江戸時代中期に御嶽行者の覚明と普寛により一般庶民に解放され、江戸時代後期から明治初期にかけて御嶽講が急速に広がり、御嶽講がこうした神社を置くようになったようです。
御嶽神社もありますがそうしたものは古くからのもので、講によるものはこうした形だったようです。

奥に、霊神像がありますが、覚明像でしょうか・・・

御嶽信仰の座生(蔵王)権現の密教の明王のように恐ろしげな姿の、激しい忿怒相です。

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蚕影(こかげ)山大神の石碑もありました。

養蚕の神は大切なものでした。

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御嶽神社の脇の丘は与良古墳(小諸市指定史跡)です。

径16.8m、高さ2mの古墳時代後期の円墳なのですが、今は凄い笹の生い茂っていて、一寸古墳とは思えないのですが・・・

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古墳の上に登る石段がありその上には2つの石祠があります。
どんな神が祀られているかは判りませんが、古くからここに人々が暮らしていた証です。ここも、古くから人が生活したと・・・

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その先に大日堂がありますが、その前でお年寄りが腰かけて休んでいらっしゃいました。

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虚子の散歩道の起点の小諸高濱虚子記念館に隣接する虚子庵・・・

高濱虚子は戦火を逃れ、昭和19年9月から、この小諸に疎開しました。

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虚子庵は小諸の与良町にすんでいる小山家の離れでした。
ここは公開されていますので中に入ってみます。

この虚子庵は、現在公開されている唯一の虚子の旧宅だそうです。

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中に入るとガラス戸と障子に挟まれた狭い廊下・・・
障子の中は和室・・・
和室の反対側も同じような廊下になっています。

虚子は南国、四国、松山生まれで寒さは苦手だったそうです。そのため、虚子の俳句は2月の句が一番少ないそうです。しかし、疎開したところは厳寒の地の小諸で、このとおりの昔ながらの民家で寒さは大変厳しく大変だったようです。

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建物のはじから奥まで・・・

平屋の和室2間の小さな庵です。

虚子は、小諸で、それまで使ったことが無い季語の「炬燵」の句が登場します。暖をとる炬燵がいとおしかったようです。
炬燵に当たりながらやがて来る春を、いつかいつかと待っていたようです。

必ずしも 小諸の炬燵 悪しからず

大炬燵 当たれと請じ くれにけり

炬燵出ず もてなす心 ありながら


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小諸高濱虚子記念館です。
小諸高濱虚子記念館は虚子の小諸時代の作品・資料を展示しています。

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旧松屋の蔵を抜けていくと、もう一つ蔵があります。

小諸城の一番奥にあったという銭倉が小諸高濱虚子記念館にあります。

享保11年(1726)小諸藩の牧野二代目の藩主 牧野康周が建造したそうです。明治5年に与良町の松屋に払い下げられましたが、母屋と共に今は小諸市に寄贈されて、小諸市の指定文化財になっています。
明治維新の頃は、板一枚でも貴重でした。使えるものは、全て民間が買い取りました。この銭倉も、そうして、ここに移築されました。

間口三間、奥行二間、二階の小さい土蔵なのですが、千両箱は地下の穴の中、60箱は入るそうです。
昔は寝ずの番の番所が直ぐそばにあったそうです。

今の千両箱は絵ですが、絵はなくても良いような・・・

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北国街道小諸宿与良町に戻りました。

この建物は、150年前に建てられた小諸宿の塩野入家です。江戸時代は松屋という漆器屋で、戦後は家具問屋を行なっていた古い商家でした。
銭倉を買い取った家です。
今は、与良館という休息所になっていて、自由に休息できます。

虚子が小諸時代のことを書いた「小諸雑記」にはこうあります。

小諸に移って来てまもなく、立子と共にすぐ近くにある松屋という漆器店に入って店を見渡してみると。炬燵の上にのつける大きな膳、辨當箱、椀、箸、盆、その他いろいろな品物があって、東京や鎌倉の店などにくらべてさすがにまだ小諸は物が潤澤であるな、という感じがした。(中略)品物があるといふばかりではなかった。此頃の商人が薄情になり、無愛想になり、傲慢になりだんだん世相が面白くなくなって来る中に在って、此の店許りは一向さうゆう風がなかつた。特に愛想のいヽといふではないがどことなくゆったりとしてゐて客に悪感を起こさせないのである。(高濱虚子「小諸雑記」より)

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高濱虚子の大家さんだった小山家・・・

この建物は奥行が100メートルくらいある町屋です。

高濱虚子は、この家の離れに戦火を避け、昭和19年から、3年間にわたる小諸での疎開生活を送りました。

[ 投稿者:オコジョ at 08:01 | その他 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
虚子庵
読ませていただきました。
もう何年前になるでしょう。
オコジョさんから、車も止められるから来たら良いのではと仰っていただいたのに、まだ行っていません。
お隣の小諸なんだから、行けば良いのに、自分の実行力の無さにウンザリです。
良い所ですね。
周りも雰囲気のある所で、いつも本町ばかり歩いていないで、与良町も行ってみたいです。
投稿者: 万見仙千代 at 2019-02-22 21:32:21
万見仙千代さんへ
こんばんは・・・
行く場所はやはり偏りますね。
佐久の場合でも臼田多いですが、中込地区は少なくなります。
中込学校など、行きたいと思っているだけで・・・
人のことはいえません。
今日から小諸は、『北国街道小諸宿 の お人形さんめぐり』 が始まりました。良かったら遊びに来てください。
投稿者: オコジョ at 2019-02-23 20:25:08

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