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浅間山 (2月18日 御代田町馬瀬口諸市より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2019年01月11日
貞祥寺(佐久 前山)2  松原湖から来た三重塔と島崎藤村旧宅
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貞祥寺 三重塔・・・


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本堂と僧堂の間を抜けていくと、鬱蒼とした杉の林の高台に、つつましやかに、かつ荘厳な雰囲気で佇んでいます。

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この塔は、小海の松原湖湖畔の松原諏方神社の別当寺、神光寺が、神仏分離により廃寺になった明治3年に、貞祥寺が金112両2分で買い取り、移築しました。
本来は、壊されるところをこうして、今に残ったことは幸いでした。

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幕末の名宮大工の小林源蔵作で、繊細であたりに良く調和した、美しい塔で県宝に指定されています。最も元は松原湖の一つ長湖を見下ろす台地にあったのですが・・・
す。

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こちらは塔のふるさとの神光寺跡三重塔のあった場所と礎石(写真・右)・・・

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相輪(そうりん)・・・
相輪は塔の屋根から天にそびえる金属製の部分です。
上から順に 宝珠・竜車・水煙・九輪(宝輪)・受花(請花)・伏鉢・露盤・・・

一番上の宝珠は釈迦の骨を納める仏舎利だそうですが、実際は宝石などを治めるとか・・・・
ここの宝珠は炎を連想される様な独特な感じがあります。

水煙は雷や火災から塔を守るという意味があります。装飾物薬師寺の水煙は横笛を吹く飛天で有名ですが、ここはシンプルです。
水煙の九輪(くりん)は9つの輪で五智如来と四菩薩という偉大な仏たちを表します。九輪草(くりんそう)という花がありますが、高貴な花のようです。

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幕末の嘉永2年(1849)頃完成と言いますから、中世末の比較的新しい、三重塔です。
時代を反映しているのか一辺2.75m、高さ16m弱の可愛らしい塔です。

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内部は暗くて良く判りませんが、右は大日如来、右は釈迦如来か阿弥陀如来のかもしれませんが、私にはなんとなく約まし如来の雰囲気を感じます。

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脇間の窓にフクロウなどの花鳥彫刻が刻まれています。
彫刻は、雰囲気はあるのですが、技巧的には素朴な感じで親しみやすさを感じます。
江戸時代らしい彫刻ともいえそうです。

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「伴野氏墓参道」とありますので登ってみました。
墓地はありますが、良く判りませんでした。
すぐ上を中部横断道がみあげられました。ここを通っているのかと・・・

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凍る池・・・

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「回天の碑」と「回天の模型」・・・

太平洋戦争の悲愴な記憶として、昭和51年6月6日長野県回天会により建立されたそうです。この人間魚雷「回天」と特攻隊の片道切符・・・
私は戦後生まれで、平和な時代を生きてきました。そして、いつまでも平和な日本でありますように・・・

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島崎藤村  小諸旧宅
貞祥寺には島崎藤村が小諸義塾の教師時代に、6年暮らした旧宅が移築保存されています。「もと士族屋敷の跡、二棟続いた草茸屋根の平家」 と藤村の小諸時代の作品「雲」にある明治維新時期の下級小諸藩士の武家屋敷でした。
「北国街道に沿ふた本町の裏手にあつて、浅間山から流れて来る二筋の細流に囲続されるやうな位置にあつた。」と第一短編集「緑葉集」の序説にはあります。

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藤村は明治32年4月、小諸に赴任し、その月の下旬に冬子夫人と結婚して、小諸の馬場裏で新婚生活をはじめました。藤村28歳、夫人22歳の時でした。
旧居は駐車場になっていますが、敷地の入口に、昭和28年4月、有島生馬の筆になる「藤村舊栖地」の碑が建てられています。

藤村は明治38年東京市西大久保に転居します。
その後、彼の旧居は大正8年、佐久市前山の片貝川畔に移築されます。

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その後、小諸市に「藤村の旧宅は、小諸にあってこそ、その意義が深まるのではないか」と
昭和四十年代に旧宅の買い取り依頼を、理由は良く判りませんが当時の小諸市は断ります。
文化価値のわからない行政の決定に、折角の機会は失われました。
昭和49年、島崎藤村生誕100年を記念して解体復元され、佐久市教育
委員会の管理として、ここ貞祥寺境内に再移築されました。

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この家で、新婚生活がはじめられ、3人の子が生まれ育ちました。
「落梅集」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、詩から、小説へ移行が行なわれて、名作「破戒」が、書き始められています。

「冬の夜なぞはよく家の柱の凍り裂ける音を聞き乍ら」 「緑葉集」より
我家で、冬には良く、どこかで、それらしい音がします。
この小諸の厳しい寒さを、藤村は、どう感じたのでしょうか。

この家の、家賃は3円でした、赴任当時の月給は30〜40円ぐらいでした。
家の横の畑で、野菜を作っての質素な生活だったようです。
当初の給料は30〜40円で、最後は経営難から25円になっていたようです。
当村は、作家としての世に、認められてはじめていて、活動の拠点を東京周辺に移しますが、こうした、経済的な圧迫も一因にあったと思われます。
ちなみに、少し前に夏目漱石が明治28年に松山中学に赴任した初任給は80円といいますから、東京、仙台と教師生活の実績のあった藤村にとっては簿給だったようです。

この家は住居として使用された、本間家や、佐久市と、貞祥寺に、おかげで残ることが出来ました。
貞祥寺の落ち着いた雰囲気の中の建物は素敵ですが、本来、藤村が生活した、小諸の馬場裏に、あってこそ、真価が発揮されるように思います。でも無理かなと・・・

[ 投稿者:オコジョ at 09:59 | その他 | コメント(4) ]

この記事へのコメント
こんばんは
貞祥寺
あそこは素敵なお寺さんですね。
三重塔
松原諏方神社の別当寺、神光寺から移築されたんですか!
簡単に移築と言うけど(あちこちで、これはどこそこから移築された)、移築って大変ですよね。
藤村の旧宅、私も最初に聞いて興奮して見に行きました。
小諸が断った話も、中で火のお世話をしていたおばあちゃんに聞きました。
驚きました。
小諸は本当に惜しいことをしましたね。
回天の模型も、子供たちは今でも「あそこに回天があったねぇ」と言います。
ものすごく印象に残ったようです。
投稿者: 万見仙千代 at 2019-01-11 19:47:12
万見仙千代さんへ
おはようございます。
ここは落ち着いて雰囲気が良いですね。
中込から少し離れていて、歩いていくには少し距離があって遠のいていましたが、久しぶりに言って、やはりいいなと・・・
移築といっても、そのまま移動できるわけではなく分解してまた組み直すから大変ですよね。トラックもクレーンもない頃ですから大変だったでしょうね。
昔の小諸はすべての特急が止まり、小海線、そして高峰高原や白樺湖などへの観光の拠点で、藤村の旧宅などなくてもと思ったのでしょうね。文化座性の勝ちよりも目先のことしか考えなかったようです。
残念なことです。
回転は1/8の模型ですが、これに乗っていった若者の気持ちを思うと何ともやりきれない気持ちになります。
戦争は何ももたらさないのに・・・
投稿者: オコジョ at 2019-01-12 08:43:31
こんにちは
旧宅の保存にも様々ないきさつがあるのですね。
でも残って本当によかったですね。

人間魚雷、この言葉だけでも恐ろしいです。
昨今のニュースでも平和を脅かすような事柄も多いです。
新しい年が平和を維持できますようにと思います。
投稿者: アメジスト at 2019-01-13 15:05:34
アメジストさんへ
おはようございます。
この家は下級小諸藩士の武家屋敷だったそうですが、それが佐久に移されたというのは、移すことを考えると大変だったのではと・・・
新築の方が楽なのではと・・・
残っているのは奇跡的なのかもしれませんね。

自爆テロなど、みずからの命を武器にする。
人間的に許されることではないですね。
命はもっと重いです。
平和な年で今年がありますように・・・
投稿者: オコジョ at 2019-01-14 08:58:00

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