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浅間山 (2月18日 御代田町馬瀬口諸市より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2019年01月07日
武田と村上の激戦の地 砥石城あたり 6  上田の町へ
1
東條健代神社(とうじょうたけしろじんじゃ)の欅の古木・・・
何百年ここであたりを見守ってきたのでしょうか・・・

ほかにも古い欅の大木がありました。


2
東條健代神社・・・

日本三景の宮島の厳島神社と同じ「控柱(ひかえばしら)」と呼ぶ支えが柱の前後についているばれる補助が付いている「両部鳥居(りょうぶとりい)」ですね。

諏訪大社では伊勢神宮の形の神明鳥居という石の鳥居が多いのですが、木造の鳥居で諏訪大社本宮の一の鳥居に当たる波除鳥居がこの形です。
波除鳥居は本宮で一番格式が高いそうですが、今は駐車場からみんな参拝するので知っている人は少ないのですが・・・

信州では、新海三社神社、松原諏方神社などの諏訪大社系列の神社に多いようです。といっても諏訪神社でない神社でも使っていますが・・・
でもなんとなく、も諏訪系列の神社かなと・・・
信州は諏訪系の神社ばかりですから・・・

3
拝殿・・・

古くは諏訪大明神と呼ばれた神社の名前を嘉永元年(1848)に現在の東條健代神社に変更しています。この神社は、当時の金剛寺村と長島村の境界にあり、二つの村は元和9年(1623)までは東條村という一つの村とでこの神社2つの村の神社として旧村名を冠したそうです。
神社の名前にも地域の歴史が込められているようです。

5
本殿・・・

寛政8年(1796)の再建だそうです。江戸時代らしい彫刻に飾られた本殿でした。

祀られているのは、諏訪大社と同じ建御名方神とその妃神の. 八坂刀売神だそうです。

8
神社前から上信越道を潜って、旧長島村から上田駅を目指します。

金剛寺を離れて、もう砥石城とは無関係になってしまうのですが・・・
砥石城の散歩の余白ということで・・・

9
宮平遺跡がありました。
古墳時代から平安時代鉄を製錬した時に出る鉄滓(てっさい)という不純物がで背たそうです。この辺りで鉄を作っていたようです。
古くからそうした営みがあったようです。

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砥石城も遠くなりました。

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上田の町の中心近くの河原柳の馬頭観音の石仏と石碑群がありました。

「砥石 観世音菩薩」と刻まれた江戸時代の文化9年の地区の馬頭観音の石仏もあります。この道が砥石城への松代道だった名残りのようです。

15
馬頭観音の上の台地には道祖神と石仏たち・・・

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六地蔵かなと思いましたが、大きさ時代が違い数が7つ・・・
その中には 大日如来に観音様もいらっしゃるようです。
あちこちに祀られていたものもここに祀り直したようです。

20
金剛寺から流れてきた矢出沢川に再会・・・

ここはもう上田城城下です。
矢出沢川は上田城下を守る堀の役割を果たしていきます。

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本陽寺仁王門は元禄5年(1692)の建立です
上田の鍛冶町の本陽寺は元和八年(1,622)に小諸から上田藩主として移った仙石忠政が鬼門除けとして小諸から移してきた寺です。本陽寺は文緑四年(1,595)に小諸藩主・千石秀久の正室・本陽院殿により小諸に開基、寺の名は忠政の父親の秀久の正室・本陽院からつけられています。

22
隣接する本陽院の経営する幼稚園児たちが境内でのびのびと

遊んでいましたので、今回は門前で失礼しました。

ここは、境内にある鬼子母神堂では百年以上の歴史がある祭り「ざくろまつり」が毎年十月十四、十五日に開かれます。
「ざくろまつり」は、ざくろを二つ神像に奉納し、一つを交換して持ち帰るのだそうです。ざくろは一房に千果の実があるとして子宝のご利益があるそうです。
こうした「ざくろまつり」は日本でここだけらしいとのことです。

28荼枳尼天(だきにてん)
隣りの月窓寺の参道にあるお堂・・・

29 (1) 29 (2)
豊川吒枳尼尊天の吒枳尼は荼枳尼とも書き「だきに」と読みます。荼枳尼天と書かれることが多いので、ここでもそれに従います。
インドのヒンドゥー教の白狐に乗る天女の姿の神ですが、これは日本で稲荷信仰と習合した姿で、本来は裸身で空を舞い、人を食べる魔女だったそうですが・・・
稲荷神社では稲荷神の名のように稲の神として、『古事記』や『日本書紀』などに登場する穀物・食物の神宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかのめ)、御饌津神(みけつ)などを祭神としています。

ここのように寺に祀られている稲荷は、仏教の荼枳尼天を御神体としていることが多いようです。

23
月窓寺山門・・・

月窓寺の中国の建物を連想させる門です。
ここは曹洞宗の寺ですが、禅宗の寺には、よくこのような唐門をほ見かけます。

禅宗は中国で達磨が開いたからでしょうか。達磨はインド人だそうですが・・・

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月窓寺は真田氏のもととなった海野氏の傍流の常田隆永が永禄元年(1558)に、常田に建立と伝えられます。その後、第一次上田合戦で焼失し、この鍛冶町に再建したそうです。

一説には真田信繁(幸村)が中興開基したともいわれます。信繁が九度山へながされる前にこの寺へ馬具や遺品を納めたともいわれます。
信繁の法名は月窓伝心で、寺号も伝心山月窓寺から伝叟山月窓寺としたとか・・・

32
天照大神を主神とする伊勢宮(太神宮)・・・。
ここは横町で上田駅はもう少し・・・

このそばには伊勢神宮のお札を配る御師が泊まる御旅屋があり「おたやさん」と呼ばれる建物がありました。
「おたやさん」の建物は大正時代に上田自由大学という学校なり、農家の青年たちが学問を学びましたが、老朽化のため、惜しまれながら取り壊されました。

35
伊勢宮の境内にある四条公神社

この神社は清和天皇の時代の貞観年間(859〜876)に定められた、宮中における饗応饗膳の式作法の中の供食作法のひとつとして庖丁儀式があります。
この包丁作法ことを伝える清和四条流の社です。大正13年に上田城跡に創建され、後にここに移ったそうです。

毎年「包丁供養」と食材の魚を放流する「食材供養祭」を行っているそうです。

今回のシリーズはここまでです。

[ 投稿者:オコジョ at 07:58 | 上田市・小県郡 | コメント(0) ]

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