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浅間山 5月08日 小諸市耳取より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2019年01月06日
武田と村上の激戦の地 砥石城あたり 5  金剛寺峠道から金剛寺のむらへ
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金剛寺峠から枯れすすきの道・・・


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こんな落葉を敷き詰めた峠道でした。

戦国時代までは上田と坂城の千曲川沿いは岩鼻という岩壁と千曲川の縁に阻まれ、道はなく、千曲川右岸の城山などの山を回り込んで室賀峠を越える山道しかありませんでした。
砥石城を支配していた村上軍は坂城から、距離の長い室賀峠ではなく、千曲川対岸の標高1,100mの芝峠という峠を越えて松代街道を金剛寺峠から砥石城に入ったそうです。

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だんだん道は広くなりますがやはり落葉の素敵な陽だまりの道でした。
ずっと続いていてもいいような・・・

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しかし・・・
そして車の道へ・・・

道脇に立て札があります。

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峠の湯跡
金剛寺峠の麓(字峠葦の谷)に湧き出る鉱泉(鉱物質を多く含むぬるめい温泉)のあとです。
鉱泉の脈は真田の千古の湯、湯田の入り(金剛寺区内)、大久保鉱泉、それに秋和鉱泉をつなぐほゞ直線上にあります。
明治25年12月、渡辺長重氏が峠を行き交う人々の休息のため沸かし湯を開いたとの記録が残っています。2階建での休み処的な建物があり、客を接待したといわれています。当時の松代道の往来のにぎわいが想像されます。
後に湯が閉鎖されると建物は解体され、区内のある場所に移築されたそうです。鉱泉は昭和時代に入ってもこれをくみ出して、家庭の風呂まで運んで使われていました。 


上の説明書きにあるように、ここはかつては多くの人が使ったようです。

信越本線は明治21年(1888)には上田を通る長野・軽井沢間が延伸開業していますが、松代への河東鉄道の開通は大正11年(1922)であり、当時運賃は高かったそうですので、人々はこの峠を使って、松代や上州へ向かったようです。

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馬頭観音・・・

こちらは間違いなく馬頭観音・・・

旅人の心の支えだったのでしょうね。

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福沢出丸
村上氏の重臣福沢氏が拠った砦と考えられています。
天文年間(1541年以降)村上氏は武田、諏訪氏と連合して金剛寺一帯を支配する海野氏を滅ぼし、この地に進出し福沢砦の築造にかかったといわれています。
金剛寺を越えて松代へ通じる街道沿いで、鳥では矢出沢川べりの崖上極めて峻嶮な場所で水の手もあり、東上の本城方面への最短距離にあります。
福沢出丸の有った場所は、この下の矢出沢川を渡り、急な崖を登りつめたあたりにあったといわれています。 


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山伏塚・・・

山伏塚以外の、何の説明もないのですが、一般的には山伏塚は行人塚・入定塚・念仏塚などと呼ばれる行者・修験者の生きたまま、地面の穴の中に入り、往生(入定〔にゅうじょう〕)したことを伝える塚の場合が多いのですが・・・
ここにも、そうした山伏が眠っているのでしょうか・・・

入定とは、真言密教の究極的な修行のひとつだそうです。まず、生前に善行を積み重ね徳のある高僧が、自ら捨て、人々の悩みを救い、即身仏となる方法だそうです。

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ここも鉱泉かなと・・・

「熊出没注意」の注意書きが、あらわれるようだと里は直ぐということですね。

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「右 松代道」の道しるべ・・・

金剛寺集落に入ります。

私は「左 山道」の方に行ってみます。

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登って来た砥石城跡・・・

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土塁跡
城代屋敷の防衛手段として築かれた砦と考えられています。
戦国時代、村上氏は、小県方面への進出のための重要な城として砥石城を西の山には柏山城を築きました。金剛寺集落には城代屋敷を備え、この周りを防御するために土を盛って外敵の侵入を防ぐもので、ここは城代屋敷の北側に造られたものと考えられています。 


今回は、案内板の丸写しばかりですね。
金剛寺集落については、砥石城から知らない道を通ってみようと、なにも知らずにやってきています。そして、ネットで調べても、ほとんどわかりません。案内板さまさまです。

金剛寺という集落の名前はかつて金剛寺というお寺があったのかなと・・・
真言宗で唱える一番短いお経の「御宝号」は「南無大師 遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」ですので、真言宗のお寺だったのだろうと・・・

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この畑は昔は城代屋敷があったようです。伊勢山は真田家の砥石城の城下町ですが、詳しいことはほとんど判りませんが、こちらは村上氏のここは城下町だったようです。

背後の山は砥石城の物見の城の米山城・・・
金剛寺の周辺の周りの山々には米山城・砥石城・白山城・花見城・中の城・西山城と山城ばかりだったようです。上の福沢出丸や城代屋敷を含めて、ここ戦国の世には重要な場所だったようです。  

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金剛寺集落の一番奥まったところにある洞源寺・・・

この寺は後醍醐天皇の元弘2年(1332)に、海野氏第22代海野幸則により開基された臨済宗の寺だったそうです。当時の山名は養命山でしたが、寺名は判らなくなっています。
その後、海野氏を滅亡させ、ここに侵略した村上義清が、海野氏ゆかりのこの寺を廃寺にしてしまったそうです。

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その後、 慶長5年(1600)の、金剛寺村の田中藤左衛門氏により小堂が建立され、陽泰寺の末寺の曹洞宗祥雲山洞源寺となったそうです。
洞源寺は海野幸則の法名洞源院からとられています。

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ここには貞治2年(1363)と永和5年(1379)の南北朝時代の銘の入った石塔と石塔の台石があるそうですが、通りすがりで知る由もなく・・・

この寺の古い歴史を語っているようです。

この裏山は白山城という山城だそうですが、ほとんど痕跡はないそうです。
砥石城・米山城・柏山城を除くと規模は小さく、本当に小さな砦だったようです。

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仏様も古そうですが、この寺は今は無住のようです。

訪れる人もあまりないようで、なんとなく寂しげでした。

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なんと昔の面影を感じながら歩いていきます。

義清水
古来、この井戸は村上の井戸とよばれ戦時、砥石・米山に立てこもった武士達に、水を賄ったと伝承されてきました。
後に戦将村上義清の名を受け「義清水」と名付けました。
このような共同井戸は、かって地区内に九カ所あったといわれ、井戸仲間によって維持されてきました。しかし、上水道の普及によってその使命を終え、次第に姿を消していきました。現在、この「義清水」のみが、その形を止め、昔日の面影を残しています。 

[ 投稿者:オコジョ at 09:41 | 上田市・小県郡 | コメント(0) ]

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