掲示板お問い合わせランダムジャンプ

浅間山 (2月18日 御代田町馬瀬口諸市より)
P1580388 
このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


営利目的や記事に関係のないコメント、英文のコメントは、予告なく独断で削除させていただきます。

2018年12月31日
武田と村上の激戦の地 砥石城あたり 4  砥石城跡から金剛寺峠
みなさま、今年一年 有難うございました
よい年を お迎えください  
来年もよろしくお願い申し上げます
 



1
桝形城跡からの菅平 四阿山・・・

桝形城は標高830メートルの砥石城の一番高い所にある廓です。
桝形の名は曲輪の西側の入口が折れ曲がり桝形だったからとか・・・
山頂部を削り、平らにして本郭を形成しているようです。

 
2
桝形城跡の北側・・・

狭まって細くなり堀切がありその先に小さな曲輪があります。

3
この堀切もなかなか堅固です。

曲輪は物見台でしょうか・・・
冒頭の写真はこの上からの撮影、見晴しが良いところです。

4
また烏帽子岳・・・

5
桝形城、北の曲輪の上・・・
砥石城の最北の曲輪といってもいいようです。

6

菅平の山・・・
左が根子岳、右が四阿山・・・

根子岳山麓は菅平のスキー場・・・
子供の小さい頃は何ども、ここに一緒にスキーに行きました。ずっと昔の話・・・
もうスキーをやめて四半世紀が過ぎました。

7
ほぼ中央の丘が真田本城・・・

別名、松尾城といいますが、上田城に移るまで登って真田氏の本拠地といわれる城です。天文年間(1532〜53年)に真田幸隆により築城されたと言われてきましたが、発掘調査を行ったところ、鎌倉時代の縄張りの遺構が見つかり、真田氏以前からの山城ではなかったかと・・・

右の松の影に隠れていますが、真田本城から北東2.5kmの山の上に松尾古城があります。古城という名前ですが、時代的には真田本城とどちらが古いか確定していないようです。

真田幸隆の登場する史料には、幸隆の居城が松尾城だったと書かれていています。この松尾城が、真田本城ではなく、松尾古城の可能性もあるようです。判らないとし云うのも夢があっていいのかもしれません。

もっとも、真田の殿様は真田の里の真田氏館(現、御屋敷公園)で暮らしていて、戦いの時の城だったようです。

8
そんな、他愛のない夢想の昼食・・・

もっとも夢のないカップ麺と缶コーヒーですが・・・

9
こちらは松代へ続く傍陽の村・・・

10 (1) 10 (2)
戻ることの嫌いなオコジョはさらに北の金剛寺峠に向います。
坂城の村上軍の時代の大手の道です。

でも急な下りです。この日一番の難所でロープにしがみついて下りました。

写真が下手で急に見えませんが・・・

11
下り終わってホッと上を見あげます。
鉄壁の城壁といえるかも・・・
昔の武士は凄かったなと・・・

12
城らしさは消えて、松林の里山の道となります。

山城らしさは消え失せます。山好きには気持ちの良い道です。

13 (1) 13 (2)
その道に何か人工物が・・・

遠くから見た時は、もしかしたら、誰か倒れているのではと・・・
チェーンソーと薬剤、ザック・・・
松の伐採ですね。その先の小さなピーク(峰)の上で、お昼後は金タイムの二人の方がいらっしゃいました。

ご苦労様です。

松茸山
「入山禁止 不法入山は二十万円請求します」の貼り紙・・・

ここは松茸山・・・
今年の松茸は豊作でした。ここも沢山とれたかな・・・

15(2) 15 (1)
見あげると枯れた松の木・・・

「松くい虫」被害ですね。

「松くい虫」というと、そういう虫がいるのかと思われそうですが、「松くい虫」という虫はいないのです。松が枯れるのは「マツ材線虫病」という病気なのです。
この病気は待つの
マツノマダラカミキリというカミキリムシはマツ類の樹皮や葉を食べますが、その時に寄生していたマツノザイセンチュウという1mmぐらいの線虫がその傷跡からマツの木の中に入ります。マツノザイセンチュウは松の中で爆発的に増殖し、松は葉が赤褐色となり枯れます。その松にマツノマダラカミキリが産卵します。幼虫は枯れた松の木を食べて成長し、翌年に成虫となり、松枯れが広がっていきます。

その為に枯れた松を伐採して、右の写真のように薬剤を散布して広がらないようにビニールで覆います。

マツノザイセンチュウは北アメリカ原産です。北アメリカの松はマツノザイセンチュウへの抵抗力が強く、弱った松が少し枯れるだけで松が減ることは無いそうです。しかし日本のアカマツやクロマツはマツノザイセンチュウの抵抗力がないといって良く、大きな被害となっています。現在はマツノザイセンチュウの抵抗力の強い松の種から枯れにくい松を育てて植えたりしているそうですが、樹が育つのは時間がかかり大変なようです。森を守るのは大変なことです。

16
金剛寺峠・・・

ここは2回目です。この日と同じように桝形城から下りてきました。

道しるべには、右は「金剛寺」奥には「松代」とあります。
この道は昔の松代街道です。この先で伊勢山から陽泰寺からのもう一つ松代街道(上州街道)と一緒になって松代に向います。その途中で砥石城の登城口の一つの畑山に下る道もわかれています。

この松代街道は上田宿から戸石城の南西の金剛寺集落から金剛寺峠を越え傍陽に出て新地蔵峠を越え、松代に抜ける34キロの街道でした。
伊勢山地区は鳥居峠を越えて上州へ向かう上州街道や、菅平から須坂への道など、東信濃と北信濃、上州を結ぶ重要な街道が集まっていて、軍事的に重要な位置にあり、そうした街道を見守る為にも砥石城は必要だったのかもしれません。

18
こちらが松代への道・・・

この道を松代まで行ったことはありませんが、畑山と千古の滝へと下ったことがあります。
どちらもすぐ麓に降りてしまいますが・・・(-_-;)


17
今回は歩いたことのない金剛寺への道を歩きます。

この道です。

松代街道は上田からの峠を越え、傍陽川沿いに、旧地蔵峠を赤柴部落から
松代をえて飯綱山山麓の牟礼を結ぶ道でした。
もっとも松代街道が正式な名前だったかというと、なんともいえないものがあります。
日本の細かい道の名は、五街道など主要なものを除き、正式な名前が無く、
地元でもいろいろに呼んだようです。
上田や真田の人は松代道と呼び、松代の人は真田に行くため真田道、善光寺に
行く道だから善光寺道・・・
もっとも善光寺に向かう道は北国街道を含めてみんな善光寺道でした。
19
下り出して振り返った峠・・・

21 (1) 21 (2)
脇を見ると『峠の地蔵尊』がいらっしゃいました。
旅人が安全を祈願したのでしょうね。

頭が無いのは廃仏毀釈の犠牲でしょうか・・・

ただ気になるのは、この石仏の容姿です。もちろん顔は判りませんが、この像の衣装は地蔵菩薩の袈裟ではなく、天衣(てんね)という両肩から細長い布が垂れているですが、その裳裾の形は広がった独特のものです。そして、手の形の印は人差し指と薬指を伸ばして中指を折る馬口印(ばこういん)です。この形は良く、路傍で見かける馬頭観音の石仏そのものです。

でも人々はお地蔵様として信仰しているようです。


[ 投稿者:オコジョ at 08:01 | 上田市・小県郡 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
歴史
城の縄張り どんな知恵でどんな人が どんな方法で 作り上げたのでしょうか 考えてみるのが 面白く楽しいです。すべて人力でしょう すごいですよね。
不思議なお堂 山陰の投げ込み堂は 作り上げるのに何百年もかかったのではと 言っていましたので 城も城も一度作ったものは 使いまわすというか 再利用してつかわれたことでしょう。投げ込み堂は 息子が行ってきています 話に聞くだけで おじけづく場所です。
今年もお世話になりました どうぞよいお年を。
投稿者: 小紋 at 2018-12-31 10:39:44
小紋さんへ
こんばんは
今年もあとわずか・・・
いかがお過ごしでしょうか・・・
時代によってその中でその時代らしいことがあるような・・・
平成はどんな時代だったのか・・・
これまではいきなり年号側割る、といったも昭和と平成へということしか知らないのですが・・・
新しい年号が希望に道と田未来でありますように・・・

城の縄張り ・・・
時代を生き抜くための、必死の思いがあるようです
。投げ込み堂行ってみたいですね。
そこに人々の思いがこもっているような・・・・
来る年が素敵な年になりますように・・・
来年も楽しみに訪問させていただきます。
、 
投稿者: オコジョ at 2018-12-31 20:33:51

この記事の固定URL
http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000566964.html

記事へのコメント
 
簡単演算認証: 1 x 3 + 5 =
計算の答えを半角英数字で入力して下さい。
名前: [必須]
URL/Email:
タイトル:
コメント:
※記事・コメントなどの削除要請はこちら