掲示板お問い合わせランダムジャンプ

浅間山 (11月10日 浅間山 小諸市町より)
P1510959 
このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度もおなしを繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


営利目的や記事に関係のないコメント、英文のコメントは、予告なく独断で削除させていただきます。

2018年11月05日
日本三景 松島の旅5  五大堂 日本三景展望台 

7
松島城から松島湾の眺望

天守閣から松島湾の島々を眺めました。

松島に城なんてあるのかなと・・・


2
松島の海岸から路地の間にこんな建物が見えました。
日本三景展望台という看板も見えます。

なんとなく貧相な感じもありますが、三層の天守の形にはなっているようです。

3
どうみても江戸時代のお城ではないですね。

ここは昭和初期に建てられた松島観光ホテルの展望台だったのですが、ホテルは廃業により『日本三景展望台 松島城』という有料展望台として残ったそうです。

5 (1) 5 (2)
入場料(大人300円)・・・
松島は有名観光地、どこも、ここも入場料がかかります。でも中味は展望だけのようです。300円で昇る価値があるかどうか・・・
あまり来る人もいないマイナーな所のようです。

でもせっかく登って来たので、寄ってみます。
中に入るとスリッパがありますが、「急ですからスリッパを使わないほうが安全ですよ」と教えていただきました。

確かに急でしたが、松本城はもっと急だったなと・・・
二階は部屋はなし・・・

最上階は小さな部屋の周りから、素敵な眺めがありました。
今回は、翌日は雨で松島を俯瞰する見晴らしの良いところは行きませんでしたので良かったなと・・・

6
うしろは山で・・・

「茅葺の家は民家かな」などと・・・

9
五大堂と松島湾に浮かぶ島々・・・

大小の遊覧船が行き交い、みんな松島を楽しんでいるようでした。

私たちはみんな揃って明日、遊覧船に乗ります。

10
海岸におりて五大堂に向います。

五大堂は、この日と、翌日2回訪れました・

11
五大堂入口・・・

この写真は一日目・・・

今回は義父が五大堂に行きたいということから始まりましたが、大丈夫かなと・・・
最初から石段、車いすでは無理だなと・・・

13 (1) 13 (2)
五大堂は海岸に寄り添うように沖へと3つ並んだ小さな島の一番奥にあります。
島へと渡る3つの朱塗りの橋があります・

最初の橋(写真 左)は問題ないです。2番目はこの幅があれば義父でも大丈夫です。

15
五大堂の透(すかし)橋・・・。

橋板の間に大きな隙間があって、下を見ると海面の波が透かして見えるので透橋といいます。

五大堂はこの橋の先、すぐなのですが・・・

女性巣が写真を撮っていますが、五大堂は瑞巌寺を護る五大明王を祀る堂で、島全体が聖域で江戸時代は女人禁制だったそうです。

16
五大堂の手前の島には八幡社の祠がありますので、ここで武士に渡れるようにお参りしてゆくことにします。

18 (1) 18 (2)
橋の下は海・・・

狭いけれど深そうです。両岸は岩で、金槌の私は落ちたら助からないですね。

当初は松の丸太橋だったそうですが、それでは不便ということで、板を使用して作られたといわれています。でも、それなら隙間にしなくても・・・

聖地の李五大堂への参詣には、身も心も乱れのないように足もと(脚下)をよく見つめ(照顧)して気を引き締めさせるためにこうしたのだとか・・・

今は2枚の縦板があり、格子状になっていますが、本来はこの板はなく、はしご状だったそうです。怖いでしょうね。江戸後期の紀行文に、恐ろしくて渡なかった人がいると書かれているとか・・・

横板の間隔も5寸(約15cm)程有り、くらいですので、仮に足感゛はまり込んでも、海二落ちることはありませんが・・・

19
国重要文化財 五大堂(ごだいどう)

大同二年(807)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、松島の海の美しさに魅せられ、多聞天(毘沙門)を祀って小さなお堂の毘沙門堂を建立したと言われます。その後、慈覚大師円仁が瑞巌寺の前身の延福寺を創建した時に五大明王を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになりました。ここまでは言い伝えで、坂上田村麻呂慈覚大師円仁については確証がありませんが、古いお堂であることは間違いありません。

現在の堂は、慶長九年(1604)に伊達政宗の再建した東北地方最古の桃山建築だそうです。
それまでは独立したお堂だったそうですが、この再建から瑞巌寺のお堂となったそうです。

20 (1) 20 (2)
木鼻の獏(左)、蟇股の巳(右)・・・
周囲には干支の動物たちが蟇股の中に納まっていました。

蛇は嫌われることが多いですが、日本では古くから原始信仰として、豊穣神として、雨や雷を呼ぶ天候神、また鱗が光を浴びて光ることや目が鏡を連想することから太陽信仰の神とされてきたそうです。

こちらの中山道八幡宿の八幡神社にはそのものずばり蛇を描いた、巳(蛇)の石碑があります。

信州では明治に養蚕が盛んになり、養蚕農家は、神社に蚕神を祀り、桑の枝や繭に持つ蚕神の像を奉納しました。
繭の中の蛹はネズミの好物で、養蚕家はネズミの被害に悩みました。ネズミの天敵といえばいわず知れた猫ですね。猫を飼うだけでなく、ネズミの天敵の猫は蚕の起源神、保食命などの神として祀られました。かくして、干支に加われなかった猫は神に昇格しました。
「蚕病、鼠除けのお札」して「猫絵」「猫石」などを神社で配ったようです。
八幡神社境内の巳(蛇)の像も、ネズミの天敵に蛇としての蛇神で養蚕の神のとなりました。
話がそれていますね。

山形の山寺・立石寺にも五大堂があります。立石寺の五大堂は山の上で山寺随一の展望台で素敵な所でした。五大堂は密教の真言宗と天台宗の寺に多くあります。鎌倉にもあるとか・・・

お堂の中の厨子の中に慈覚大師円仁作と伝えられる平安時代中期の国重要文化財 五大明王が本尊として祀られています。中央に大聖不動明王を祀り、その周囲に東方降三世明王、西方大威徳明王、南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王の配置だそうです。しかし、この明王たちは秘仏で、33年に一度しか開帳されないそうです。
次回の開帳は2039年、私は生きていないと思います。

21
ここは、日本三景松島の島の一つ、そして松島の素敵な展望が見られます。

22
 「松島や ああ松島や 松島や」という句は、松尾芭蕉があまりの絶景にまともな句を詠めずにこうなったと・・・

でも、この句の作者は芭蕉ではありません。作者はわかっています。仙台藩の儒学者・桜田欽齊が文政4年に発行した「松島図誌」に、江戸時代後期の相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊作として「松嶋やさてまつしまや松嶋や」という句が紹介されています。この句の「さて」が「ああ」に変って芭蕉の句と・・・

狂歌は、短歌とおなじ五・七・五・七・七で社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、季語などの制限がないかなり自由な歌だそうです。短歌の川柳版に近いかもしれません。

この句は、五・七・五ノ俳句の構成ですが、下の句があるのかもしれませんね。

芭蕉は「奥の細道」には、松島の句はありませんが、次の句を詠んでいます。

   島々や千々に砕きて夏の海

この句の載っている「蕉翁全伝附録」には、「松島は好風扶桑第一の景とかや。古今の人の風情、この島にのみおもひよせて、心を尽し、たくみをめぐらす。をよそ海のよも三里計にて、さまざまの島々、奇曲天工の妙を刻なせるがごとく、おのおの松生茂りて、うるはしさ花やかさ、いはむかたなし。」という前書あるそうです。

25
透橋をわが子とともに渡って帰ります。

この橋「縁結び橋」という別名があるそうです。

松島には、聖地としてもうひとつ雄島があり、ここは渡月橋というやはり赤い橋があり、こちらの別名は「縁切り橋」だそうです。
昔、雄島で修業した僧や巡礼が、俗世間との縁を切るからとか・・・
現代は男女の「悪縁」を断ち切る橋と「合縁」を結ぶ橋の両方が必要なようです。

26
光る波間の向こうの五大堂・・・

[ 投稿者:オコジョ at 07:40 | 旅 (地域外) | コメント(0) ]

この記事へのコメント

この記事の固定URL
http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000561554.html

記事へのコメント
 
簡単演算認証: 5 x 7 + 5 =
計算の答えを半角英数字で入力して下さい。
名前: [必須]
URL/Email:
タイトル:
コメント:
※記事・コメントなどの削除要請はこちら