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浅間山 (11月10日 浅間山 小諸市町より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度もおなしを繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2018年11月04日
日本三景 松島の旅4  瑞巌寺 
1
瑞巌寺の参道をたどってきて、受付から中に入るとこんな崖が目に入ります。
この崖の裏側は円通院・・・
ずっと続いているのかなと・・・

同じこんな方向に気にせずに、ひたすら本堂に向う人がほとんど・・・
オコジョは信心が足りないのに違いないようです。

それが何より証拠には、この銅像のお方は、申し訳ありませんが、存じ揚げません。


2
ここは法身窟という洞屈・・・

言い伝えでは、1300年の鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧の京都の嵐山の天龍寺開山の夢窓国師がここを訪れた際、隋の天台大師智顗の教えを講義する声が聞こえてきたそうです。そんな聖地です。
もっともこの洞窟はもっとずっとあとに彫られたようですが・・・

昔々・・・
本当のことは、何とも言えません。人は信じるのが一番かも・・・

そんなことより。手前に2つの石碑がありますね。

3
2つの石碑・・・

偉そうなことをいって、何も知らずに近づいていきました。

説明によりますと、

鎮海、楊柳観音像
粘板岩の巨石(稲井・井内石とも言う)に刻まれた二体の観音像は右(大)が楊柳、左が鎮海観音と呼ばれ、いずれも塩釜出身の小池曲江(1758-1847)の模写になる。鎮海は寛政十二年、楊柳は文政六年(1823)の建立。

写真は鎮海観音です。
観音菩薩は、誰もが良く知っている仏ですね。あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるに、その状況に応じて
ため、三十三の姿に変わり現れるそうです。これを三十三応現身と言います。柳の枝を持つことからこう呼ばれる楊柳観音は三十三観音の一つで病苦からの救済をする観音様ですが、鎮海観音は含まれていません。

鎮海は韓国の地名なので、百済観音と同様、朝鮮半島から渡ってきた観音様なのかもしれません。

5
六地蔵塔 青銅性貞享五年(1688)
下に円盤がみえますが「後生車」「地蔵車」と言いこれを回すことによって、地蔵菩薩が六道輪廻をさまよう霊を救済してくれるそうです。

6法身窟内部
寺のホームページによると・・・
 
格子戸の嵌まった岩窟は鎌倉時代半ば、宋より帰朝し、この岩窟に遁世していた法身禅師と執権北条時頼が出会ったところと伝えられている。
内部には多くの供養塔があり、中央の碑は、当山99世雲居希膺和尚の国師号「大悲圓満碑」である。
かつて、北条時頼公の供養塔もあったが、現在は3つに折れてしまっている。


瑞巌寺に残る文書には、鎌倉幕府の第5代執権北条時頼は諸国行脚中の北条時頼は瑞巌寺で武力により天台派の延福寺の僧徒追放し、法身性西を住職に据え、禅宗の円福寺と改称したそうです。以降、鎌倉幕府の庇護の下で栄えたとあります。

北条時頼が怒った天台宗の僧たちは福浦島に集まって時頼を呪詛、死に至らしめたという怖い話も書かれているそうです。かなりの部分が創作なのでしょうが・・・

時頼は法身窟で修行中の法身に出会い、天台宗から禅宗に改宗するという密談を交わした。ということです。この洞窟はもっと後の物かもしれませんが・・・

7
重要文化財 中門(なかもん)

瓦葺がほとんどの瑞巌寺の中て唯一の柿葺(こけらぶき)の四脚門です。すっきりとした落ち着きがあります。

平安時代初期に、比叡山延暦寺第三代座主が開山とも言われ、天台宗の延福寺として平泉・藤原氏の外を受けました。しかし、上にも書いた通り、執権・北条時頼は天台宗徒を追放、臨済宗建長寺派の円福寺となります。その後、戦国時代に衰退し、天正六年(1578)、現在の臨済宗妙心寺派に属するようになりました。江戸時代になると、仙台藩主となった伊達政宗は、今に伝わる桃山様式の本堂などの国宝建築を含む伽藍を造営し、寺名を瑞巌寺として復興しました。
柿葺は政宗の指示だったそうです。

8
瑞巌寺は、江戸時代には伊達家の厚い庇護により110余りの末寺を有する仙台藩領内随一の規模格式の寺だったそうです。

9
重要文化財 御成門(おなりもん)
中門から離れて左側にある門です。天皇・皇族・藩主のための門です。

こちらはどっしりとした瓦葺の薬医門で風格があります。

10
国宝本堂(ほんどう)

現在の伽藍は慶長14年(1609年)、桃山様式の粋を尽し5年の歳月をかけて完成させたそうです。

政宗は、また中門を通して参道の杉の木立の間に中秋の名月を見えるように本堂の位置を決めたとか、意外と風流人だったのかも・・・

11 (1) 11 (2)
宮城県指定天然記念物  臥竜梅

右が紅梅、左が白梅で、地面を這うような姿から臥竜梅と呼ばれました。
伊達政宗が文禄2年(1593)の朝鮮出兵から、持ち帰り、慶長14年(1609)の瑞巌寺落慶の際に、本堂正面に正宗が手ずから植えた梅と伝えられています。

13
玄関・・・

松島の瑞巌寺、山形の山寺の立石寺、平泉の中尊寺と毛越寺は、平安初期に慈覚大師円仁の開山と伝わり、江戸時代には松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で訪れたことから、東北地方の4つの寺を廻る「四寺廻廊(しじかいろう)」という巡礼コースを構成しているそうです。

12
庫裏に向います。

庫裏には高麗門(こうらいもん)を潜ります。

15
国宝 庫裡(くり)・・・

庫裡寺院の僧侶の居住する場所、台所も兼ねる場合もあります。
この庫裏には紀綱寮(山内取締役)、副司寮(会計係、現在は応接室)、知客寮(旧時の応接室)、典座寮(炊飯係)、食堂、椀頭寮(盛り付け係)、麺蔵(眠蔵、仮眠室又は食料貯蔵庫)の部屋があるそうです。

16
立派な建物ですね。
正面13.78m、奥行23.64m・・・
破風が豪快で曲線の反りが良いですね・

この庫裏は、京都の妙心寺、妙法院と並び日本三大庫裡のひとつだそうです。

瑞巌寺は、厚い軽石質凝灰岩より成る松島層という不安定な堆積層上に建っているために、建物が不揃いに沈下を起こす不同沈下により建物がゆがみを起こしていて、平成21年9月から本堂・廊下・中門・中門附太鼓塀・御成門・御成門附太鼓塀の工事が行われました。
解体や半解体の大掛かりな「平成の大修理」で耐震補強工事も実施したそうです。
ことしの6月24日に落慶法要が執り行われ、全体的な拝観が可能になり、良い時期に来ることがでました。

17
屋根の上の煙出(けむだ)し・・・

こちらの造形が良いですね。見事に屋根との違和感がありません。

庫裏と本堂は撮影禁止・・・

本尊・聖観世音菩薩立像の両脇に伊達政宗と二代・忠宗の位牌を安置、見事な障壁画、日本庭園など、照会できませんので、ぜひ実際に訪問してみてください。

18
宝物館 青龍殿

ここも素適でしたが、撮影禁止・・・
この素適な瓦だけが撮影可能でした。

芭蕉の「奥の細道」には瑞巌寺をこう書いています。

十一日、瑞岩寺に詣。
当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。
其後に雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。
見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。 


[ 投稿者:オコジョ at 07:46 | 旅 (地域外) | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
まつしま~の さよ~ 瑞巌寺ほどの♪
良い歌ですよね。
とにかく有名だったんでしょうね。
北海道にいた頃から知っています。
松島に行ったことが無いので、もちろん瑞巌寺もお参りしたことがありません。
政宗が建立した、由緒正しきお寺さんですね。
お写真からも、壮大さが偲ばれます。
いつか行ってみたいです。
投稿者: 万見仙千代 at 2018-11-04 19:54:55
万見仙千代さんへ
おはようございます。
松島が日本三景に選ばれたのは瑞巌寺や五大堂の存在が大きかったのかもしれません。
長男が学生で仙台にいたころですから20年前ですが、一度子供たちと訪れましたが、細かい ことは記憶が゛薄れてしまっていて、再訪して見直しました。
円通院は初めてでしたが、こちらも素適でした。
一度訪れていいところだと思います。
投稿者: オコジョ at 2018-11-05 07:53:01

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