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浅間山 (11月10日 浅間山 小諸市町より)
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このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度もおなしを繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2018年11月03日
日本三景 松島の旅3  瑞巌寺 参道
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瑞巌寺 参道入口・・・

この後ろは松島湾の海、国道45号線です。瑞巌寺には200mほど・・・

「前は海 後は山で 小松原とエー」と斉太郎節で歌われているように瑞巌寺の後ろは山となっています。

傘をさしている人がいますね。瑞巌寺は妻と二人で参拝した翌日、全員でもう一度参拝しました。2日目は朝のうちは雨でしたが、参拝するころには止んでいました。
今回は瑞巌寺と五大堂は両日の写真が入り混じっています。


2
宮城県文化財 瑞巌寺総門・・・

伊達政宗により慶長14年(1609)に建立された一間一戸の袖塀つき薬医門と説明があります。
伊達政宗の建立というのは言い伝えに過ぎないようですが、政宗の名の高さを伝えているようです。
袖塀は門や建物の両脇にある低い塀をいいます。薬医門は、身分の高い武家の正門などに用いられた門ですが、その扉を付けずに医者の門として使われたためにこの名前となったと言われます。

車椅子に乗った94歳の義父、義弟の雄車椅子で入っていきました。

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あの日、この参道を、人でなく津波が瑞巌寺へ向かっていました・

平成23年3月11日、東日本大震災とよばれる大地震のあった日のことです。

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瑞巌寺へは真っすぐ石畳みの道を行くのですが、右に曲がって脇の細道を行くことにします。

大正12年の鰻塚・・・
この碑には北海道から東京まで蒲焼店や蒲卸問屋等の126名の名前が刻まれているそうです。
2013年にニホンウナギは絶滅危惧種に指定されましたが、この碑か建てられたころの松島湾においては天然鰻が多く獲れ、その供養のためにこの碑が建てられた㋇16日にむ、毎年、この前で供養の法要が行われ、松島湾に鰻が放流されているようです。
この碑の文字は瑞巌寺第126世松原盤龍の揮毫だそうなので、鰻たちも成仏できるかと・・・
最近、土用の鰻の難しい蒲焼は縁遠くなりました。

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鰻塚背後から瑞巌寺への崖にはたくさんの洞窟が続いています。その前には西国三十三観音が一番から三十三番まで並んでいて瑞巌寺に導いていきます。

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この観音たちは昭和初期の仙台の名工、月田文治によるものだそうです。なかなか見事な観音様たちでした。

東日本大震災のあとはこの道が仮りの参道になったとか・・・

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瑞巌寺岩窟洞窟群・・・

本当にたくさんの洞窟が切れ目なく続いています。
前にも書きましたが凝灰岩層に掘られた洞窟遺跡です

柔らかく加工がしやすく、納骨や供養の為の施設で鎌倉時代から造営されていると説明があります。

凝灰岩層は風化しやすく、また海岸では海食崖の波の浸食作用によって崖が作られます。ここもかつては海でこうした海食崖なのかもしれません。そして波や塩分による浸食による洞窟があってそれを掘り広げたのかもしれません。

陸となっても風で運ばれる塩分によって化学的な風化が進んでいたのかもしれません。

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瑞巌寺は、かつて松島が「奥州の高野」と呼ばれ、亡き人の供養が営まれた場所と言われます。

この寺は平安時代の天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が創建したといわれ、当時は天台宗の延福寺、正式には松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)といったそうです。
ただ、円仁の創建を証明する史料は無いそうです。慈覚大師円仁が開山、再興したと伝えられる寺は関東に209、東北に331余あるそうです。そんなに開山、再興できませんが、この寺は国府にも近く、開山は別にしても、円仁に近いお寺だった可能性は大きいのかもしれません。

その後、臨済宗建長寺派円福寺から、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺になったそうです。松島寺という名前で親しまれた時代もあったようです。

この摩崖彫刻達は寺では天台宗の寺だったころから造営されているとしていますが、一番古いものは寛永13年(1636)に伊達政宗に殉死した佐藤内膳吉信の塔婆だそうです。このことから江戸時代に掘られた洞窟群と考えられるそうです。

佐藤内膳吉信は当時29歳だったとか・・・

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洞窟には五輪塔、岩塔婆、石仏が刻まれています。

殉死について少し・・・

戦国時代には病死等自然死の場合に殉死することは無かったそうです。主君への忠誠は戦い戦死するということでした。しかし、江戸時代になると戦死が無くなり、自然死の場合でも家臣が殉死をするようになります。徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死しています。伊達家でも、初代政宗の時は15名、二代忠宗は12名の家臣が殉死しています。
寛文3年5月(1665)に、殉死は「不義無益」であるとして「殉死禁止令」だされ、これに反したとして宇都宮藩のね奥平昌能が転封処分になっています。
伊達家の三代綱宗では殉死者は無く、14名の家臣が剃髪して百日間の弔いを行ったそうです。

初代政宗の時は15名・・・
本当は20名なのです。伊達竹家臣として15名・・・
しかし家臣に使えるものは、伊達家のものではなく陪臣と呼ばれました。伊達の家臣ではないが、あとから伊達家に従った豪族たちですが、ここから5名・・・

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5年ほど前に、隣りの県の山寺の名で知られる立石寺を訪れたときに、奥の院参道わきの岩には、この岩塔婆が施されていました。
これは死者の魂は山寺に還るという民間宗教による死者の浄土往生を祈念ものだそうです。

ここの五輪塔、岩塔婆に供養されている人たちにもいろいろな人生があったのでしょうね。

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在し霊場の名残が随所に感じられます

松島海岸の朱塗りの渡月橋を渡った雄島にも50の岩窟があるそうです。かつては108あったそうです。そこにもこのような岩塔婆や五輪塔が彫られたそうです。

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あと僅かで瑞巌寺の入口・・・

参道脇に「3・11 津波到着地点 瑞巌寺」と立て札がありました。
ここまで津波が来ました。ここで津波は引き返した津波の第二波によるものです。

松島町の津波は第1波到達16時13分、第2波到達16時40分だったそうです。
この時の津波の高さは、松島町の最大で第1波3.2m、第2波3 . 8 mだったそうです。

松島海岸では,海際で約1.2m、瑞巌寺山門前のこの地点約0.5m の浸水深さだったそうです。

18 19
前まで「津波到達点」の真横に小さなお堂があります。

書いた立札があった場所に近いので、瑞巌寺へ向った津波の到達地点に、地蔵堂は安置されているようです。

東日本大震災の犠牲者でまだ見つからない人もこの海にいます。

東日本大震災鎮魂慰霊、復興祈願として京都の佛師、冨田睦海師により彫刻された地蔵菩薩を安置したそうです。瑞巌寺第130世住職、起雲軒老大師により悲母地蔵と命名されたそうです。

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村道途中で写真を撮っている場所が津波到着地点・・・

この参道の両側は瑞巌寺のシンボルとも言える見事な杉並木でした。

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津波による塩害でたくさんの杉が立ち枯れしてしまいました。
その数約300本・・・

しかしその奥に若い木が杉樹されています。
いつか立派な杉並木が復活すると良いですね。

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瑞巌寺入口あたり・・・

右端は文久2年の延命地蔵と伊達氏の家紋のひとつ「竪三つ引両」のついた鉄製灯籠で伊達家とか瑞巌寺の関係の深さを示しています。

上の鐘楼は普段は立ち入り禁止ですが、大晦日の夜には参拝者が撞くことができるそうです。

22
瑞巌寺は明日に続きます。

[ 投稿者:オコジョ at 07:29 | 旅 (地域外) | コメント(0) ]

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