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浅間山 (8月20日 浅間山 小諸市耳取地区より)
999 ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2018年10月07日
蓼科山麓・望月 神と仏の里 3 望月宿(2) 城光院・大伴神社
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大伴神社から、望月宿・・・

左下に見えている道は中仙道・・・
背後の山は望月氏の本城の有った望月城址・・・
街並みの背後と望月城址の間を鹿曲川が流れています。


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大伴神社は今回の最後・・・

昨日の信永院から鹿曲川沿いに下ると、高い杉の木のある城光院がありますので立ち寄ります。ここも望月城の城主の望月氏に関係のある寺です。

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趣のある立派な山門ですね。

この寺の裏山は望月城跡で、山道を15分くらいで登れます。
今日は目的が違うと登りません。

この寺は文明7年(1475)に当時の望月城の城主・望月遠江守光恒が菩提寺として開基した曹洞宗の古刹です。

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杉の間を通り抜けて境内へ・・・
境内には望月城の居館があったそうです。

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本堂・・・

江戸後期の享和年間(1801〜1804)の建物だそうです。堂々として禅宗らしい風格がありました。

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ここの本尊は阿弥陀如来坐像で室町時代初期の作と言われています。

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境内にはたくさんの石仏が並んでいます。
佐久市指定有形文化財に指定されている江戸時代の佐久市有形文化財「城光院石作り十王像」です。

死後は極楽か地獄かと言われどちらか決めるのは閻魔大王と思われています。
仏教では、人が死ぬと、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に生まれ変わるそうです。これを繰り返すことから六道輪廻と言います。
仏教では人は死ぬと、次の世に生を受けるまでの中陰(ちゅういん)と呼ばれる期間に入ります。その期間は四十九日です。仏教では初七日〜七七日(四十九日)まで、七日ごとに法要を行いますが、この日は使者が裁きを受ける日です。

死後、どの道へ行くのかを裁く10人の裁判官が十王です。

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こちらは、左から人頭杖(にんずじょう)、浄玻璃鏡(じょうはりきょう) 、奪衣婆(だつえば)・・・

中陰に関係があるので十王の脇に控えていました。

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人は無くなり中陰に入ると三途の川(葬頭河)を渡ります。三途川の渡し賃は六文とか、望月氏の親戚ともいわれる真田氏の六文銭はここに由来します。

わたり終ると、対岸には、死者の衣装をはがすこの奪衣婆が待っています。ここの奪衣婆は怖そうです。奪衣婆は閻魔大王の奥さんという説もあります。

剥ぎ取った衣類は懸衣翁という老爺が衣領樹という樹の枝に掛けられます。その枝だがしなればシなるほど罪は重くなります。これは十王に報告されます。

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十王たち・・・

十王の裁判といっても、十王が一堂に会して行うわけではありません。
裁判は閻魔宮殿で行われ、初七日には秦広(しんこう)王が一人で、上に登場している水晶の鏡の「浄玻璃鏡」で生前の行いをすべて映しだします。嘘をついても無駄で「舌を抜かれ」ます。
以下、初江(しょこう)王、宋帝(そうてい)王、五官(ごかん)王、そして五七日が有名な閻魔(えんま)王、変成(へんじょう)王、泰山(たいざん)王が七七日となります。
ここまでが通常の審判ですが、一般的には閻魔王が最終審判になることから、ここで行く先がきまり、それを告げるのを引導(引接)です。「引導を渡すはここからきています。

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石仏たちの中で一番変わっているのがこれですね。
これは閻魔王が持つ2つの顔を持つ「人頭杖」という杖です。男女の頭部が並んでいますが、男の太山府君、女は暗闇天女で悪と善をあらわしています。表情から「見る目」「嗅ぐ鼻」とも言います。

閻魔王が裁くときに罪が重いと悪の怒りに満ちた男の口
から火を噴き、よい人だと善の女性から素敵な香りが漂うそうです。

中陰が過ぎても百か日、一周忌、三回忌には十王の裁判は続きます。
十王の裁判は犯した罪だけでなく、その後の様子や、「遺族の追善供養の度合い」によって罪が軽減され、ひとつ上の道へゆけます。そうした救済の為に、生き残ったものは法事を行なうのだそうです。

閻魔大王は地蔵菩薩の化身だそうです。なのです。地蔵菩薩の心を持って審判をしているわけです。仏教は救済の宗教なのだそうです。

信者は全て極楽という教えの浄土真宗はみんな極楽へ行ってしまいますので、救済の為の法要はないそうです。

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こちらは、佐久市有形文化財の延宝8年(1680)の石造庚申塔・・・
庚申塔は文字碑が多いのですが、ここは庚申の主尊の青面金剛(しょうめんこんごう)が彫られています。

庚申の話を始めると長くなりそうです。さもなくても十王で長々と書きすぎています。この石仏めぐりではたびたび登場しますので、後回しにします。

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おとや橋で鹿曲川を渡ります。
この橋が「戌の満水」以前の中山道でした。

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寛保2年(1742)の「戌の満水」では望月宿の本町、新町の170軒のうち流出家屋78軒、潰家15軒で、特に写真の左側にあった新町は壊滅的だったそうです。


それほど大きな川ではないのですが、自然の力は凄いものがあるようです。
その後も明和2年(1765)と文化5年(1808)と大洪水の被害があり、この流れとの戦いは壮絶なものがあったようです。

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望月宿は後回しにして街道脇の大伴神社に・・・

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階段を登ると境内になります。
だんだんこうした階段が苦手になります。頚椎症の後遺症か歳のどちらかと・・・

昨日のアップの望月橋のところで書き忘れましたが、月遅れのお盆の毎年8 月15 日に望月橋の上から松明を鹿曲川に投げ込む「榊祭り」という勇壮な火祭りの奇祭があるのですが、その祭りはこの神社の祭りです。

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大伴神社は平安時代の延喜式に記載されている佐久式内社(しきないしゃ)の一つです。
木曾名所図会に、「 大伴神社 望月駅にあり、延喜式、佐久郡三座の内也、今御嶽社と称す。 此所生土神とす 」とあり、昔からの名所だったようです。

本殿は延宝5年(1677)建築の春日作りという形式だそうです。
祭神は天忍日命(あめのおしひのみこと)で古代の豪族として有名な大伴氏の祖神で大伴武日命とも呼ばれます。
言い伝えによると天忍日命がこの地に鎮座し、乗って来た馬を種馬として改良をした結果、有名な望月の牧となり、大伴氏は望月と名を変えたといわれます。

望月とは満月のことです。信濃は奈良時代末に全部で16の牧(牧場)が置かれ、年間80頭の馬が朝廷に献上され、そのうち20頭が望月牧だったそうです。これ前に書いたかな・・・

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境内の片隅には双体道祖神、馬頭観音、石碑などが並んでいます。

「甲子塔」という塔もあります。「こうしこう」「かっしこう」とは読まずに「きのえねこう」と読みます

甲子塔は、甲子講の人々が建てた供養塔です。
甲子講は甲子日待とも言いますが、干支の最初の甲子(きのえね)の日に、講で集まって精進します。甲子の夜に、禍を転じて福を授けてくれる大黒天を祀り、夜遅くまで飲食をともにしながら語り合う、精進というよりは庶民の楽しみだったのかもしれません。
子の刻まで起きていました。子の刻は今の午後11時から午前1時、つまり真夜中まで 起きていたそうです。
甲子塔は、とは甲子 は六十年に一度めぐる年にこのように石碑を建てることが多かったようです一笑に一度ですね・

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大伴神社の双体道祖神・・・

仲良く手を握り合っているような・・・
握手形道祖神というタイプです。握手形にはお互いに肩を抱いて手を握り合う形が多いのですが、ここでは真面目に正面を向いて握手・・・
慎ましやかでいいですね。

摩耗していて、本当は違うかも・・・

[ 投稿者:オコジョ at 08:48 | 佐久市 | コメント(0) ]

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