
昨日アップした御影新田近くには野火附城があります。
薄の道ですね。
この写真の真ん中の丘がその城・・・
小さな山城ですが、ちょっと寄ってみることにします。

御影神社の前の道を行くと、中部横断自動車道の下をくぐるようになりますが(写真 左)、その手前の右側が野火附城跡です。中部横断自動車道の手前を右に曲がったのが右の写真です。この両側が野火附城跡です。もっとも左は中部横断自動車道ですが・・・

この写真の撮影した場所は野火附城の一角から北東方向を見ています。
今は中部横断自動車道の管理道です。
見えているのは上信越道との佐久小諸ジャンクション、写真の左奥には上信越道が見えています。

ここから城内に入ってみます。
ただ森に入っていくという感じですね。

中に入ってもただの森・・・
中世から戦国時代に小諸には約60の城が築かれました。ほとんどが山城といわれる戦いのための城というより、砦に近いものでした。

ここは薪置き場・・・
城としてのまとまりにかけそうですね・
江戸幕府は大坂夏の陣のすぐ後の慶長20年5月に「一国一城令」を公布します。
これは、一国に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残して、その他の城はすべて廃城にするというものでした。
外様で両国が広い西国諸大名の軍事力を削減と、幕府への反乱、大名同士の戦いを防ぐ目的もあったようです。公布とともに、数日のうちに約400の城が破壊されたといわれます。小諸藩も仙石秀久の居城の小諸城を残して他の城は建物を壊され廃城になりました。
もっともそれ以前に役割を終えて廃城になったところも多かったようです。

ここは堀切の跡・・・
ここか城跡と思わなければただの溝ですね。昔はそれなりの深さと巾があったのでしょうが埋められてしまったようです。

入口との反対側の湧玉川の支流側は、わりとはっきりと堀切の跡が残っているようです。
昔は湧玉川の支流側から反対側の鎌田の沢にしっかりした堀切が掘られていたようです、

現在の城の住人・・・
茸は良く知らないのですが、ドクツルタケのようですね。スーパーマリオブラザーズの毒キノコに似た赤いベニテングタケは食べても、嘔吐や下痢くらいで済みますが、この茸は一本たべると死に至る超猛毒の毒キノコで日本の茸で一番危ない茸の一つです。
シロタマゴテングタケという茸も真っ白ですが背猛毒です。真っ白で、清純そうですが、素人は白い茸は全く手を出さないのが賢明です。君子危きに近寄らずで、茸狩り私はしないことにしています。
君子なのになぜ山に登るのかと・・・危険な車の走る廻る町より山の方が安全だからと言ったら笑うでしょうか・・・
最近は危険な山へ行っていませんが・・・
閑話休題・・・
ここがいつ築かれ、誰の城だったかはわかっていません。多分ここかから北にある平原城の物見の城ではなかったかという程度です。

堀切を越えて奥に行くと、こんな薮の中、狐がでそうな・・・
そういえば、ネットで調べると、野火附城の別名は「狐っ原」(きつねっぱら)だそうです。
そしてキツネは冠者(間者=スパイ)の隠語であり、諜報活動を拠点には「きつね」の名がつけられていて安曇野市明科にも「狐ん城」(きつねんじょう)という砦があり、やはり監視用の小屋があったといわれているそうです。

少し秋の気配・・・
本当に狐が住んでいてもおかしくないような城内でした。
狐に化かされないうちにここで引き返しました。

中部横断自動車道の「佐久小諸JCT」の料金所ここも「狐っ原」城でした。

中部横断自動車道の反対側の調整池・・・
ここは中部横断自動車道工事の時に作られています。この谷が城壁となって城を守っていたようです。

中部横断自動車道を挟んで野火附城・・・
ただの林にしか見えませんね。

湧玉川側に回り込みます。
左側が野火附城、右が御影新田側になります。
この谷には湧玉川の支流の細い流れが流れています。

この谷にはこもろミズオオバコビオトープがあります。ミズオオバコは少し前にアップしていますが、「小諸ミズオオバコ保全会議」はここでミズオオバコはじめ、小諸の水辺環境で生活する動植物を守るため、小維持管理を行っています。わたしもはじめは会員だったのですが、どうも組織に属するのが苦手で、会費だけ納める幽霊会員となり、その内に自然退会となりました。
ミズオオバコ田のミズオオバコは中部横断道関係で整理される田にありました。前会長の故高松章氏が見つけて、小諸市によびかけ、隣の谷に土ごと移植して、保護に当たりました。時々気になって、ここを見に来ます。もう稲刈りのために他の水を抜いてあり、ミズオオバコの花はみあたりませんでした。

堀切を見上げます。
高さは4m位でしょうか・・・
堅固な城とはいえなかったようです。

でも谷を下っていくと、こんな切り立った崖となります。
高さは8m位でしょうか。この奥が城の中枢部だったようです。
この谷は「田切り地形」という地形です。
今から千数百万年前、浅間山が出来る、はるか、もっと、はるかな昔に、巨大噴火の火山灰と軽石が、小諸市、御代田町、佐久市にかかる佐久盆地の大半を埋めつくしました。この厚さは20〜30mですが、谷部は60m以上なり、佐久平の一角に広大な傾斜平地が、形成されます。
そこに、千曲川の支流がその台地を削り取り、断層のような、凹地の谷と凸地の台地が出来ました。これが「田切り地形」で、このあたりの特有の地形ですが随所に見られます。小諸城の空堀も「田切り地形」をうまく生かしています。
古い城、その痕跡はうすくてまとまりがありませんが、ここまでで終わりにします。