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浅間山 (8月20日 浅間山 小諸市耳取地区より)
999 ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2018年08月01日
戌の満水(いぬのまんすい)  小諸の痕跡
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上信越道近くの丸山地区からの浅間山・・・

左側の山は浅間山の外輪山の黒斑山ですが、この山から流れ出す中沢川と松井川は小諸の町の中心部を流れて千曲川に向かいます。


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中沢川と松井川は小諸の町に近づくと、その距離を狭めて成就寺の上あたりで、約70mに接近します。その成就寺の脇を流れる岸辺にこの六供区無縁仏公園があります。
公園といっていても、休んだり遊んだりできる場所ではなく墓地です。地元では無縁堂と呼んでいます。

墓参りのアップで、少し触れましたか、今日は戌の満水の墓参りです。

長野県の千曲川・犀川流域では江戸時代の寛保二年の旧暦8月1日(1742年8月30日)に経験したことのない大洪水となり、多くの人と家が失われました。

ここは、この洪水で、身元のわからない旅人などを葬った無縁墓地です。
270年以上を経過した現在でも花が添えられて今でも供養が行われています。

「寛保二成年月未曾有の大洪水なり。七月二十九日より豪雨降続き、八月朔日夕より大暴風雨八月二日に至る。
為に山抜け地滑り郡内到る所に及び、千曲川を始め諸支流皆狂奔怒号し、唯に沿岸の決壊浸水等に止まらす、河床を更ふるもの多く、上畑村の如き全部の流失、其他現時傳ふる所によるも南牧村、田口村、臼田町、切原村、大澤村、中込村等の惨状言語に絶するものあり。
人畜の死傷夥しく、平地浸水の民、居るに家なく、食するにものなく、皆飢餓に哭せりと伝う。」(南佐久郡誌より)

「戌の満水」は旧暦の7月27日から8月1日ですが、今の暦では8月27日から30日にあたります。原因は台風による集中豪雨だったようです。

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左は江戸時代の宝暦4年(1754)に建てられた「戌の満水」の供養塔です。「戌の満水」から12年後、つまり最初の戌年です。

右も「戌の満水」の供養塔ですが、こちらは比較的新しく昭和39年(1964)のものです。寛保2年(1742)から222年後・・・

こうした供養塔は、光岳寺の参道脇にもあります。
 
  御家中町郷中共惣都合
  流家 参百七拾参軒
  同土蔵 弐拾八軒
  潰家 四拾弐軒
  流死 五百八拾四人
  内
    弐百八拾八人 男
    弐百九拾六人 女
  流馬 死弐拾参疋


これは洪水のあった寛保2年(1742)98月6日に「小諸洪水流出改帳」という当時の被害報告です。御家は武士、中町は商家。郷中は農村部、これら合わせて、流された家は373軒、蔵は28軒、潰れた家は42軒。死者は584人・・・

「戌の満水」は、それまでの洪水をはるかに超える大きな洪水で千曲川まで押し流された遺体も多かったものと思われます。
小諸は北国街道の宿場町で、多くの旅人が泊まっていて、旅籠で働く下男下女も多く、死者の把握は困難でした。土石流に埋もれて、行方不明になったものも多く、死者584人は確認できた者だけで、行方不明者は含みません。実際の死者は600人を遥かに越えたようです。

小諸の町全体に被害があったということです。といっても小諸の町の当時は城下街と宿場町だけといっていい規模でしたが・・・

洪水は千曲川本流に留らず、支流の多くも氾濫し、被害は長野県内流域全てに及び、死者は確認できただけで、2800人といわれます。

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無縁仏公園の蕎麦を流れる中沢川・・・

この川が未曾有の大被害を起こしたとは思えないささやかな流れです。
左の石垣の中は成就寺です。

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隣りの成就寺・・・
戌の満水の時、寺は全滅・・・
洪水の後、洪水に備えて、土を土塁のよう積んで石垣を築きました。中から見ても外が見えない嫌い高いです。小諸藩から、城のようで、丈夫過ぎるとお叱りがあったとか・・・
そんなことをいっても、何より、命が一番ですね。

戌の満水ではこのあたりは中沢川と松井川は一体化して一つの川のように小諸宿にと同のごとく流れ込みました。

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中沢川のほとりの双体道祖神・・・

「戌の満水」は全国的には知られているとは言えません。
有名なのは約40年後の天明3年(1783)の浅間山の大噴火、いわゆる「天明の 浅間焼け」と呼ばれるものです。
この時の噴火の噴煙は一万数千メートルの成層圏を越えた江戸に降り注ぎ昼間でも暗くしたなど、江戸っ子を震撼させたそうです。
この時に生まれた新火口(現在の火口)からマグマが流れ出し、鬼押出を作り、その泥流は鎌原村を飲み込み、吾妻川を堰き止め一時的にダムができますが、その湖が満水になるとともに瞬時に決壊、流れ込んだ利根川も大洪水となり、群馬・埼玉両県の多くの家が流され多くのことの命が失われました。

天明の大爆発は死者1600人・・・

ただまた、浅間山の信州側の山麓は軽井沢の降灰や焼け石による被害はありましたが、大きな被害はなく、中山道の旅人が、その様子を見て記録が多く残されています。

この噴火は被害の大きさから有史の日本の噴火の中で最大のものと思われている節もありますが、噴出溶岩は同じ18世紀をみても、富士山の宝永大噴火、桜島の安永大噴火、樽前山、伊豆大島の三原山などの噴火と較べてマグマの噴出量がきわめて少ない噴火になるそうです。浅間山の噴火では天仁元年 (1108)の大噴火は軽井沢、御代田、小諸を火砕流が襲い遅い噴火による村や田畑を埋め尽くし、天明の大爆発をはるかに上回るといわれますが、 歴史的に資料が乏しく、今では忘れ去られています。このような、大きな災害がないように祈りたいものですが、日本はどこでも、いつそんなに噴火があってもおかしくないということかもしれません。浅間山の場所も太古は盆地だったそうですから・・・

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閑話休題・・・
話が浅間山に行ってしまいました。

成就寺は滝原という山のほうの部落にありましたが、戦国時代の鍋蓋城の城主大井光忠が小諸城の鬼門除けとして、この地に移しました。

この写真は門前から小諸宿本町への道・・・
奥に見える高い建物は江戸時代から旅籠を営んでいた、つるやホテルです。その前まで
地蔵、華厳、明王、円光、円蔵、太子の六つの坊を建立して六供六坊と呼ばれました。戌の満水はそれらをすべて流し去り、六供という地名だけが残っています。

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中沢川を少しだって小諸州の裏町の田町に入ります。

小諸は火山灰のシラス台地で、水の浸食に弱く、川は深くえぐれています。その狭い川に寄り添うように町並みがありました。浅間山麓を下る川は蛇行せずに急斜面を一気に下る川で、水量は少ないのですが、ひとたび、鉄砲水となると、その威力はすさまじいものがあったようです。ここも狭いですね。田町の町も壊滅したそうです。

川に下る階段がありますね。

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階段の下はある清水です。今はほとんど出ていませんが・・・

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清水に対岸から渡ってくる橋・・・

昔は、こういう昔は何ヶ所も清水があって、川の両側から奥様がたが集まて、洗濯や食事の荒いものをしたりして清水会議をしていたようです。

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少し下った中沢川の橋・・・

橋の向こうは旅籠屋商店の並んでいた本町・・・

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本町に出ます。

洪水はこの上から・・・

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この宿場町を駆け抜けます。

当時の記録によると、水高さ二、三丈大洪水は鉄砲のように本町を押し流し街の半分がなくなったと伝えています。
一三丈は約3m、ということは6mから9mの濁流が坂の町を襲ったということです。

水の引くのもあっという間だったそうです。そのあとの本町は真っ黒な水瀞に覆われ大火事のように見えたそうです。

18この塩川家は、戌の満水以前は本陣を勤めた家・・・

小諸宿の本陣は、当初、宿場の中心にあるこの塩川家が勤めていましが、本陣も流されてしまいます。その為、本陣は被害を免れたそのため市町の問屋場(といやば)を勤めていた上田家の屋敷内に移り、明治維新まで大名や、公家御用の休泊施設にあてられました。

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宿場を通り抜けた濁流は城内へ・・・

そこにて慶長17年(1612)の大手門は、奥にあり、本流から外れますが、その先の三の門と通用門の足柄門とを少しも残さずに打ち壊したとあります。

現在の懐古雲の象徴ともいえる三の門は元和元年(1615年)に創建されていますが、鉄砲水で流出しますが、その後、明和2年(1765年)城主に牧野康満が再建したものです。

小諸藩は1万五千石(実際はもっと多かったようですが・・・)ですが、被害は7888石でした。このため、小諸藩は年貢の聴衆が出ず。幕府から二千両の借金をしています。

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この写真を撮影した日は運動のために少し坂を上っていきました。

奥秩父の甲武信岳を源に日本海に注ぐ信濃川は、信濃の国にあるあいだは千曲川と呼ばれます。現在では河川の改修により、滅多に被害はでませんが、洪水を繰り返し、江戸時代の後半から、明治にかけての200年間の記録に残る田畑流出は40回を超える、人々を苦しめた暴れ川でした。その最大の被害が戌の満水でした。

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坂道ですね。

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冒頭の写真を撮影したあたり、
こんな道をぬけて・・・

菊を栽培している畑・・・
お盆につかわれるのかなと・・・ 

[ 投稿者:オコジョ at 07:29 | 小諸 風景 自然 | コメント(4) ]

この記事へのコメント
お暑うございます
オコジョさん、すっかりご無沙汰しておりました。
いつもどおりよく歩かれて、お元気で嬉しいです。

「戌の満水」相当なひがいだったんですね。おそらく、今まで経験のない、想定外のレベルだったかと。。。

自然災害はやはり怖いですね。現代のように予報があっても、命を落とすのですから、その当時はどれほど恐ろしかったことでしょう、もっとも、いまでも想定外、記録的な!という言葉が飛び交います。科学は進んでもなお・・・ですね。

東京は一歩家を出るとサウナか?と思うぐらいの熱風が吹き、駅まで歩いただけで汗びっしょり、しばらくは歩き回る事はできそうもありません。涼し気な夏空を拝見して気持ちが良いです。
投稿者: われもこう at 2018-08-01 13:54:11
われもこうさんへ

暑い夏ですね。

「戌の満水」の時は江戸も大変だったようですね。南風が折からの高潮で、隅田川・荒川は場所によっては3メートルの高さとなり、江戸の下町は汐水の海となったようです。その後、この雨による利根川の大洪水は堤防により、水が引き始めた下町を襲い、水位の上昇は8月7日まで続き、本所・浅草・下谷一帯だけで900名以上の溺死者が出たそうです。
江戸三大洪水の寛保二年江戸洪水でした。
こういう水害が起こらないとは言えませんね。そうすると想定外、記録的な!となってしまうのでしょうね。歴史は語り続けないといけないようです。

こちらも暑い日がつづいています。
明日の佐久市は37℃の予報・・・
明日は信州を離れて北に行ってきます。
投稿者: オコジョ at 2018-08-01 16:28:54
こんばんは。
戌の満水
成就寺の辺り、歩きましたが、この記事を読んで行けば良かったと思いました。
中沢川、本当に小さな川ですよね。
そんな大洪水の元になったなんて信じられないです。
今でも大雨になったら、怖いんじゃないでしょうか。
あの供養塔のある所は、無縁堂というんですか。
成就寺の住職さんに教えていただきました。
御親切に、わざわざ出てきて教えて下さったんです。
知らない所を歩くとき、ああいう親切が嬉しいですね。
それにしても、暑かったんじゃないですか。
無理をなさいませんように。
投稿者: 万見仙千代 at 2018-08-01 20:13:13
万見仙千代さんへ
こんばんは・・・
この川がそんな大きな洪水を起こしたのかという感じですね。
今回の西日本の災害も、ここは大丈夫だろうとという場所が多くあったようです。
といって、なかなか避難する決断は難しそうですね。でも、やはり命が一番ですね。

この清水のある少し下流の岸辺に両親の実家があります。今は空家ですが・・・
母親は大雨になると水量が増えて、岩かゴロゴロと転がっていく音がするといっていました。
無縁仏公園という名前より、無縁堂という方が、追悼の意味合いが深いような気がしますね。なんでも現代風にしなくてもいいのかなと・・・
投稿者: オコジョ at 2018-08-01 21:30:44

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