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浅間山 (8月20日 浅間山 小諸市耳取地区より)
999 ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2018年06月29日
津軽の旅3 浪岡の歴史散歩 浪岡八幡宮  浪岡城跡
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中世の館の隣には浪岡八幡宮・・・
もちろん立ち寄ります。なかなか歴史の有りそうな神社ですから・・・


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浪岡八幡宮の創建は蝦夷討伐の征夷大将軍に坂上田村麻呂により戦勝祈願と国家安寧のために延暦12年(793)又は大同2年(807)に豊前国宇佐(大分県宇佐市)の八幡総本宮の八幡神地に勧請し行岳蒐狭大神宮と称したと伝わっています。貞観7年(865)に修築が行われたとあります。
坂上田村麻呂の創建は史実ではないでしょうが、こうした言い伝えが残るということは古い由緒のある神社である証しといえます。

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神池・・・
落ち着いた雰囲気がありますね。水神として十和田湖畔の十和田神社を祀っているそうです。

室町時代から戦国時代には村上源氏の後裔とされる伊勢国司の北畠の後裔の浪岡北畠氏が浪岡に入り、八幡宮はその崇敬庇護を受けて社殿の修復や社領の寄進が行われまたようです。浪岡八幡宮は北畠氏の崇敬社として、神社の祭祀には家老赤松隼人が取り仕切っていたそうです。

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2つ並んだ社殿の額には馬の額が掲げられ中には神馬の像が祀られていました。

浪岡城を築いた浪岡北畠氏は京都の町並み
をまねて浪岡城の周囲に祇園神社(現在の北中野広峰神社)、八幡神社(現在の浪岡八幡宮)、加茂神社(現在の五本松加茂神社)、春日神社(廃社)などを配したそうです。

ここは浪岡城東端に隣接する位置にあります。

6年位
参道から横に入るとこんな落ち着いた雰囲気の中に広い境内ですね。

どんな神が祀られているのか、そばに井戸もありましたので、もしかすると、十和田神社はこちらかもしれませんね。

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浪岡八幡宮の拝殿と本殿・・・

天正6年(1578)には大浦(津軽)為信の侵攻により浪岡城は落城して、隣接する浪岡八幡宮もその兵火により没落により衰微したようですが。新しい領主の大浦氏(津軽氏)が再興し、江戸時代には弘前藩の津軽家が祈願所として庇護されました。藩祖の大浦(津軽)為信は南部一族の久慈氏出身で、南部家は元々甲斐源氏の後裔といわれ、津軽家は源氏の氏神の八幡神を信仰して、弘前八幡宮(弘前市)、白八幡神宮(鯵ヶ沢町)とともに「津軽三八幡宮」として崇敬されたそうです。

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境内に土俵がありました。
右写真は浪岡交流センター「あぴねす」の浪岡のPRビデオをお借りしました。
浪岡八幡宮の8月15日の例大祭では、子どもが健やかに成長することを願って泣き相撲大会が行われるそうです。赤ちゃんがにらみ合って泣き比べを行い、先に泣くか泣き声が大きい方が勝ちだそうです。

泣き相撲はここだけでなく、浅草の浅草寺をはじめ全国で、日本の風習・神事で幼児の成長や安産を祈る行事ですが、氏神に新しい氏子の披露という意味もあるとか・・・

8検校館
浪岡八幡宮に隣接する浪岡城跡検校館(けんぎょうだて)・・・

検校館とは『六段の調』の作曲者といわれる八橋検校の盲人の役職の最高位の検校を思い浮かべてしまいます。

調べてみると、「東大寺・高野山・石清水・春日など重要な寺社に置かれた寺社の事務を監督する職。」 「平安・鎌倉時代に置かれた,荘園の役職のひとつ。」とあります。
後者かな・・・

この城の史料はほとんど失われて、細かいことはほとんどわからないそうです。ここと次の西館は発掘調査が行われていないために何があったかは分かっていないそうです。

9奥が西館
西館(にしだて)・・・

橋は堀の跡です。橋の右側が西館、右は北館(きただて)・・・
堀の手前は外郭(がいかく)でここも城の一角だったそうです。

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道路とその奥も外郭だったそうです。

草が茂っているところは堀の跡・・・・
その奥が北館です。

浪岡城跡は、昭和15年に、青森県で初めて国史跡指定を受けました。そして明治百年
記念事業の一環として、昭和44年(1969)から6年間かけて、国、県の指導、援助により、指定地の新館を除く、東館、北館、西館、猿楽館、検校館の用地を買い取ります。以前は400年にわたる農耕地だったそうですが、城跡公園として整備したそうです。

続日本100名城だそうです。

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城内の北館(きただて)に入っていきます。

ここは昭和52年(1977)から発掘調査が行われ、城の構造や当時の食器や調理器具などの生活用品や武器、農機具が発掘され、当時の様子を知ることができます。これらの発掘品は中世の館で見ることができます。

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北館・・・

広いですね。
この城は東西1,200m、南北600mで、約13.7ヘクタール。東京ドームの約3倍です。
その白い城内を幅10〜30mの二重堀で分けて8つの館(郭)があります。
地面となっているところは建物があったところです。家臣の屋敷があったそうです。

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城の見取り図・・・

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土塁も立派です。

浪岡北畠氏が浪岡城を築城したのは浪岡北畠氏4代の北畠顕義により応仁年間(1467-1469)前後のようです。
その後北畠氏は津軽地方に勢力を拡大して、戦国時代には大浦氏、大光寺氏と津軽地方を三分する勢力でした。しかし、津軽を統一していった大浦(津軽)為信によって天正6年(1578)浪岡城は落城、奥州北畠氏も滅亡してしまいます。

浪岡北畠氏の子孫は現在の福島県にあった三春藩の秋田家に仕え、代々秋田の姓を名乗ったそうですが、隠居や庶子は浪岡の姓を名乗っていたと言われます。

18井戸
井戸・・・

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北館を仕切る通路・・・

当時もこのように塀があったようです。

17北館南側
北館を仕切る通路の南側・・・
こちらも広いですね。サッカーができそうな・・・

北館は8つの館の中で一番大きく東西約200m、南北約100m。全面二重の堀で囲まれ、堀の中央に土居があったそうです。

17内館m
この林の中が内館(うちだて)です。

東西と北側を館で守り、南側は浪岡川が彫りの役目を果たしていたようです。今回は、ここは旅の寄り道・・・

内館を含めて

浪岡における北畠氏は、「浪岡御所」「大御所」「北の御所」と呼ばれる権威あるものだったようです。ただ歴史の流れの中で生き残ることはできなかったようです。

19 (1) 19 (2)
北館と推定復元図・・・

現在浪岡城跡の発掘調査は中心部の「内館」と、「北館」、「東館」及び「西館」と堀跡の一部で、全体の3割程度だそうです。

そうした中で、この城は戦国城館とともに、館、つまり居館だったことが分かったそうです。広大な城、その全容がわかるのはまだ先のようです。

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この奥に猿楽が催されたといわれる猿楽館・東館・新館がありますが。ここから眺めて城をあとにしました。

建物は有りませんが、浪岡北畠氏の力を感じさせる、思っていたよりもはるかに見ごたえのある城跡でした。
[ 投稿者:オコジョ at 12:33 | 旅 (地域外) | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
浪岡城
ものすごい広さですね。
浪岡八幡宮は、城内に勧請された神社だったんでしょうか。
≪浪岡における北畠氏は、「浪岡御所」「大御所」「北の御所」と呼ばれる≫
これ、分かりますね。
津軽にこんなお城?館?があれば、周りの人たちはその豪華さに驚いたんでしょうね。
投稿者: 万見仙千代 at 2018-06-29 20:11:36
万見仙千代さんへ
こんばんは
温泉に向かう途中どこか見るところがないかなという途中下車でしたが、浪岡は歴史的に面白いところでした。
山城ではなく平城ですが。それにしても戦国期の城としては、驚くほど広大な城でした。
ただ写真にはしにくかったですね。
浪岡八幡宮は城に隣接して今が。城内だっかどうか・・・
外館の一部だったかもしれません。いずれにしても城と一体だったようです。
投稿者: オコジョ at 2018-06-30 21:28:47

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