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浅間山 (5月11日 小諸市坂保町より)
P1330965 ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2018年02月03日
中山道 小田井宿1 街道沿い
1
こういう格子戸良いですよね。
古き良き時代…
江戸時代がそうだったとは言えないのですが・・・

御影新田から御代田の小田井宿へは2キロほどですので。足を延ばしてみました。
ここは小田井宿の上問屋、安川宅です。


2
江戸側の入口あたりの御嶽信仰の石碑群・・・
信州はこうした石碑群をあちこちで見ます。小さな御嶽神社といっていいようです。
中山道はここから御嶽山のある基礎をめざします。

3
この先は枡形になっていました。
車が通るように改良されてはいますが、ここは宿場の入口で道が鍵のように直角に曲げられている鍵の手でした。直角に曲げすぐもう一度同じ方向に曲げ直してあったようです。
この形では自動車は曲がれません。自動車は不器用です。昔の道は地形に合わせて曲がった道が多かったのですが車世界になって真っ直ぐな道が増えたようです。

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街道の東側に真言宗智山派の飯玉山慈眼寺寳珠院がありますので寄っていきます。
なかなか素敵なお寺です。

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六地蔵に見守られて山門に・・・

宝珠院の創建は戦国時代の永正年代(1510年頃)だそうです。
当初は付近の上小田井にありましたが、小田井村が出来、ここに、人が集まるようになり、天正18年(1590)、上小田井よりこの集落に移ったようです。寺も檀家あってですから・・・

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現在の本堂・・・
このお寺の本尊は聖観世音菩薩だそうです。

本堂、位牌堂、客殿は平成9年に再建されたものだそうです。

8 (1) 8 (2)
左は枝垂桜、右は赤松・・・

いずれも江戸時代から300年を生きた古木で、多分、ここに寺が移ったころに植えられたものだそうです。
どちらも御代田町の天然記念物に指定されています。

9 (1) 9 (2)
昨日もこんな石枡がありましたね。
昨日は御影用水から岩村田用水に分ける水枡でしたが、その岩村田用水はこの宿場内を流れていて、そこから寺の取り分がこの水枡が道脇の用水です。使い終わり残ったものは、また用水に戻すのですが・・・

その水を使った池は凍っていました。

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茅葺の鐘楼・・・
江戸時代の安永八年(1779)に建てられ建、梵鐘もその時に鋳造されたそうです。

毎年、除夜には地元の人たちが、この鐘を小田井宿に響かせるそうです。

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宿場に戻りました。

小田井宿の町の長さは約800mという短いものです。小田井宿は五街道の中山道の宿駅ですが、追分宿と岩村田宿の間にあったためか、文化2年(1805)の「木曽路名所図会」には「駅内弐町ばかり。多く農家にして、旅舎少なし。宿悪し。東の出口に薬師堂あり。追分の駅迄家なし」と書かれているように寂れた小さな宿場だったようです。
天保十四年の「宿明細書上」では、本陣 一軒、脇本陣 一軒、旅籠 五軒、総戸数 百七軒、人別 三百十九人とかかれています。

松のある立派な家は小田井宿の本陣だった安川宅です。
このどっしりとした佇まいは歴史の風格を感じます。

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門の横は本陣の客室部が残っていて、原形を良好に残っているそうです。
式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入り側などがあるそうです。上段の間は火急の場合は、殿様は壁を蹴破って外へ出られるそうです。殿様稼業も危険と名乗あわせだったのかも・・・
最も、壁が破られることはなかったようですが・・・

将軍家茂へ降嫁した和宮が文久元年十一月八日に、この本陣で昼食をとりました。
ほかにも、明暦三年に伏見宮家の姫、浅野宮をはじめ、二十九人の姫たちが利用するなど女性の利用が多く「姫の宿」とよばれていました。

理由の一つとしては江戸側の隣の追分宿が飯盛り女を200人も抱える歓楽街となっていたので、女性の旅人は避けて小田井宿を使ったようです。

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本陣を振り返って一枚・・・

このところ依田信蕃の話が何度も登場していて、なぜかなと・・・
意図しているわけではないのですが・・・
戦国時代にこの近くには岩村田の大井氏一族の小田井氏の小田井城があったのですが、天正10年(1582)小田井城が依田信蕃により落城の手に落ちて後廃城となります。依田信蕃はそのあと佐久の岩尾城で戦死しています。岩尾城もいかないといけないかな?
秀吉時代の天正16年(1588)には、この辺りの上小田井・山王・十二・小玉・須賀沢等の民家26戸と長倉神社を移して新しい町づくりがされ、江戸時代の慶長15年(1610)には宿場の形ができていたと言われます。当時は御上のいうことは待ったなしでした。

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冒頭の上問屋、安川宅です。
宿場には本陣、脇本陣、問屋などが置かれました。
問屋場は本陣、脇本陣と共に、宿場の重要な建物です。
次の宿場までの荷物の受け継ぎ、馬の手配などを行う公私を問わず旅人の人馬の調達をするため、伝馬役、農民の割当、手配を行いました。特に公務が最優先、本陣、脇本陣が無いても宿場もありますが、問屋のない宿場はありませんでした。

問屋には問屋・年寄・帳附・馬指などが詰めていました。
帳附は、人馬の出入りを記帳する役で、馬指(人馬指とも)は馬子や人足を配置する役です。もちろん馬子や、馬の鞋をとりかえる馬士などが詰めていました。

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ここは元旅籠のようですね。

明治二年に宿場の問屋制度は廃止、御伝馬所として継立業務を続けますが、信越線開通といった時代の流れの中に、宿場の本陣、脇本陣、問屋、旅籠は廃業して、宿場としての小田井は消えていきました。
しかし、小さな宿場の小田井宿は江戸時代から宿場だけでは生活できなくて、旅籠だけではない兼業農家でした。このため、宿場が無くなっても、農業で生活をしていけました。
そして、古い建物はそのままに残されたようです。ここは観光とは無縁、それが素敵です。

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ここは脇本陣だったところ。案内板だけなのが寂しいです。

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もう一軒の問屋の下問屋だった尾台宅・・・
問屋も勤めたこのあたりの豪農だったのでしょうね。

小諸宿や上田宿では本陣が問屋を兼ねていました。
しかし、五街道の宿場であった小田井宿は、旅籠宿よりも、荷物の中継地としての役割が重要だったものと考えられ、専業の上下二軒の問屋がありました。
小田井宿では二軒の問屋が半月交替で業務に当たりました。

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長屋門の中はこんな感じです。
まだ現役の民家・・・
それも素敵なことです。

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京側の桝形から見る街道・・・

現代の小田井はまだ続きます。でも、宿場の外です。
ここも先日アップした茂田井と同様、集落を2つに分けた分村がありました。
小諸でも東御市、御代田町での帰属で移るなどありました。
難しい問題なのでしょうね。

[ 投稿者:オコジョ at 09:28 | 中山道 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
小田井宿
良いですよね。
佐久に来て間もないころ、ずいぶん行きました。
確か市でやっていた中仙道バスの旅?でも行って、小田井宿で最初に降りて、ゆっくり見学できました。
幹線道路から外れたから、昔の雰囲気が残っているんですね。
自転車って、小回りが利くし近くに止められるし良いですね。
投稿者: 万見仙千代 at 2018-02-03 20:19:50
万見仙千代さんへ
こんばんは
何度も行かれたのですね。また行かれるといいですね。
小田井宿は本当に小さな宿で、歩いていてももう終わりという感じですが、それが良いですね。木曽の宿のような、土産店や飲食店は一軒もない・・・
というより、店など何もないのが良いですね。

自転車は何処でも停められて便利です。
もっとも、健康のためということもありますが・・・
投稿者: オコジョ at 2018-02-03 21:01:04

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