掲示板お問い合わせランダムジャンプ

浅間山 (6月30日 浅間山 小諸市丸山地区より)
P1430797 ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


営利目的や記事に関係のないコメント、英文のコメントは、予告なく独断で削除させていただきます。

2018年01月28日
善光寺 七福神2 恵比寿、弁才天、布袋、毘沙門
1
「一富士二鷹三茄子」は正月の初夢で縁起の良い夢ですね。初夢はいい夢を見たいですね。私はどんな夢を見たか・・・
もう忘れたのでたいした夢は見なかったようです。
いい初夢を見ようと江戸時代には、七福神の乗った宝船の絵をに枕の下において寝るという風習が流行りました。古くは室町時代からあったようですが・・・
宝船の絵には「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」という、上から読んでも下から読んでも同じになる回文の歌を書いたそうです。それでも効果が無くて、悪夢を見たら、絵を水に流して、無かったことにする縁起直しをしたそうです。
そして、初詣で七福神をめぐったとか・・・

ここは、一昨日紹介した、善光寺近くの西宮神社の恵比寿さま・・・
そこで紹介済みですので恵比寿の説明はなしで先に行きます。
七福神といえばまず思いだすのは恵比寿・大黒ですね。


3 (1) 3 (2)
長野市の中心の権堂のアーケード通りに入ります。権堂は長野市随一の繁華街です。

表参道から入ってすぐ左に浄土宗の安楽山往生院得行寺があります。権堂のアーケードの片隅にひっそりという感じです。通称「往生院」ですのでそちらを使います。

午前中なので、まだ静かでした。
入っていいのか迷うような感じで、妻は入っていいのかなという感じですが、何度も来ていますので、くぐり戸を開けて中に入ります。

5
中に入ると奥に「往生院」の御影堂があります。
名前の由来は、一時、善光寺本尊の仮本堂があったため権堂という説もあります。

往生院は善光寺七院の一つで、鎌倉時代の建久8年(1197)に源頼朝が、善光寺参詣して、源平の乱で荒廃した善光寺再建を命じ、往生院(旧西方寺)に善光寺本尊を遷座してここが善光寺の権堂(仮堂)となり、往生院は権堂と呼ばれるようになり、町の名も権堂町と呼ばれるようになったと言われます。
昔は蓮池もあったと言いますから。もっと大きな寺だったようです。

鎌倉幕府の歴史書の『吾妻鏡』には、頼朝は、治承3年(1179)に焼失した善光寺を復興するため、文治3年(1187)に信濃国の目代(比企能員)や信濃国の御家人に再建を命じて 建久2年(1191)金堂の供養が行われたとあります。
『吾妻鏡』は、建久8年(1197)から源頼朝の死までの2年ほどの記載がないのですが建久6年(1195)に頼朝の善光寺参詣計画があります。

この建物は御影堂で浄土宗宗祖の法然の木像が本尊として祀られています。

6 (1) 6 (2)
往生院境内の宇賀神大弁才天堂(うがのかみだいべんざいてんどう)・・・

弁才天は「水を持つもの」という意味の「サラスバティ」というインドの・古代神話の大河の神だったそうです。水が流れる音から音楽の神、弁舌の神(知恵の神)として信仰されました。室町時代になると弁財天なり、財産の神としての性格も加わりました。

弁才天はここの人形のように容姿端麗琵琶を弾く七福神の中の弁財天は紅一点となりました。もっとも、吉祥天も、七福神有力候補だったようですが、吉祥天の人気が高く弁才天が最後に七福神となったようです。

宇賀神とありますね。宇賀神は、頭は人、体は蛇で蜷局(とぐろ)を巻く姿で描かれることから蛇神・龍神の化身とも言われます。龍神と言えば水神ですね。このことから天台宗の比叡山では、インドの水の神をルーツとする弁才天と習合して、宇賀弁才天となります。宇賀神は穀物の神の宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するともいわれますが、はっきりとはしないようです。

11-2
宇賀弁才天の容姿の説明は説明するよりも写真の方がいいですね。もっとも善光寺でなくて、別所安楽寺の弁天堂の宇賀弁才天さまです。
弁才天といえば琵琶ですが、琵琶は持っていません。

『金光明経』という経典に従うとば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護といわれますが、『金光明経』の弁才天は八臂像という手が八本の宇賀弁才天様です。国を守るために琵琶ではなく八臂像という手が八本の姿です。しかし国を守るために8本の手に弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索の武器をもつ戦いの神となっています。宇賀弁才天は武器のほかに「宝珠」と「鍵」を持つことから七福神の弁天様に近づいているようです。

でも、七福神の神としてはや尻琵琶を持っている方がいいようです。

7 (1) 7 (2)
庚申塔と多分、地蔵尊・・・

妻が、「おばあさんが三人いるような」といっていたような・・・
そんな親しみやすさがありました。

9
権堂町、アーケード通りを抜けていくと秋葉神社があり、この参道入り口あたりに「勢獅子(きおいじし)」像があります。見事な獅子頭ですね。

勢獅子は、長野祇園祭りの時に練り踊る獅子頭で祭りの名物になっているようです。

この勢獅子は、明治4年の天長節に、長野県の勧めによって、獅子頭・幌を下付され舞い始めたという歴史を持つそうです。五種類の囃子の曲と、それに付けた獅子の舞があるそうですが、菱頭は30キロもあり、獅子頭を振るのは30秒がただ、毎年でなく、善光寺御開帳の年だけに踊られるそうです。

10
権堂秋葉神社・・・

火伏せの神として信仰されています。

ここでは間もなく、節分の追難祭が行われ、有名人もいらっしゃるようです。

11
権堂秋葉神社社殿・・・

昨日も秋葉神社を紹介していますね。2つの秋葉神社の距離は500メートルくらいです。
日本の歴史を見ると、建物の焼失は実に多く、火災に遭わずに永年残った建物の方が気象のようにも思えます。各集落や寺や神社ごとに秋葉神社や愛宕神社という火伏せの神を祀りました。
街道の宿場では出口と入口の両側に秋葉社を祀ったところも多いようです。

12
権堂秋葉神社の敷地内の「四條霊社(しじょうれいしゃ)」・・・

明治39年に創建といいますから、わりと新しい神社ですね。
ここは、『日本書紀』にも登場する料理の祖神といわれる磐鹿六雁命(いわかむつかり)と、平安初期に始まるといわれる四条流包丁道の日本料理の流派の中納言藤原政朝を祭神としています。藤原政朝は藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)(824‐888)を包丁道のとされています。

四條霊社は包丁・料理の神様として、全国に京都と長野二社だけだそうです。
料理人が多数参拝するそうです。

13
善光寺七福神は長野市ガイド協会の案内がネットにありますが、そちらは善光寺を目指して表参道をたどりながら脇道にある七福神を往復しながら、最後に善光寺を参拝するというものです。表参道メインというのは当然ですね。

しかし、七福神だけが素晴らしいわけではないと、寄り道、回り道、近道は不信心者のオコジョは何のためらいもなく使います。もっとも表参道は数えきれないほどあるいているせいもありますが・・・。
そして、初めて善光寺を訪れるならやはり長野駅から表参道の18丁をたどるべきだと思います。でも、多くの観光客は表参道をはぶいて、直接善光寺・・・
御利益が減らないかと・・・
こんなことを書くと、現代は18丁を古く様な不経済な時代ではないと言われそうです。

妻は腰痛もあり疲れてきたので、近道をしました。途中の武井神社を参拝・・・

武井神社は善光寺三鎮守のひとつでした。
鎮守は建物や一定の地域守る神です。ここでは善光寺を守りする神社です。神社がお寺を守るなんて不思議な気がしますが、日本ではお寺の中に稲荷神社などの小さな神社や、祠が寺を守っていて不思議はないようです。

15
創立ははっきりしませんが、言い伝えでは持統5年(692)ともいわれる古い神社です。古くは武井明神・諏訪明神と呼ばれて江戸時代の文化4年(1807)にたけい神社となりました。
諏訪明神と呼ばれるように主神は諏訪の建御名方命(たけみなかた)で、ほかにその妻と子の前八坂刀売命(まえやさかとめ)、彦神別神(ひこかみわけ)が合祀されています。

武井神社の社殿はこの神社に気をとられて撮影を忘れました。年でしょうか・・・

こちらの写真の左は猿田彦神社、右は松尾社
松尾神は京都の松尾大社の末社ですね。

16 (1) 16 (2)


気になったのはこちらの猿田彦神社・・・
台座の岩の穴の中に丸い石・・・

どういう意味があるのかなと、わからないのですが。判らないものがあるというも、悪くはありません。

18
善光寺周辺には江戸時代から江戸時代より「善光寺四十九名所」があり「七寺、七社、七橋、七池、七清水、七塚、七小路」と7種類それぞれです。それぞれ7ヶ所の名所があり、計四十九名所ありました。

武井神社の南側の道は「下堀小路」、武井神社の西の「虎小路」ともに善光寺七小路です。今回は下堀小路から虎小路をたどりの近道をして西宮神社にむかいました。そういえば武井神社は「善光寺七社」の一つです。虎小路の途中にはその名の由来となっているこの「虎が塚」があります。

鎌倉時代の「富士裾野の曽我兄弟の仇討ち」の後、曾我兄弟の兄は討たれ、弟は捕らえられて処刑されます。
兄の曾我十郎祐成の恋人が十九歳の虎御前です。虎御前は仇討ち後、黒髪のまま、黒衣の袈裟を着けて箱根の箱根権現で、十郎の法要を行い、出家し、善光寺のこのあたりに草庵(虎石庵)を結び、念仏三昧の日々を過ごしたとされ「虎が塚」は虎御前が髪を埋めた場所とされてしています。
当時、善光寺を拠点として『虎』と名乗り全国をまわって、虎御前の物語を語る尼たちがいて、こうした場所を伝えたようです。虎御前については、不明な点も多いのですが、鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』にかかれていますので、実在したことはほぼ間違いないようです。

長野の裏町も表参道に劣らず興味深いところが多くあります。

20 21表参道に戻り・・・

善光寺宿本陣だった布袋さま・

七福神は神とか仙人なのですが、布袋は坊さんなのです。つまり仏教ですね。
布袋和尚は9〜10世紀頃・中国の唐の禅僧で契此(かいし)といったそうです。
いつも大きな布袋を担いで喜捨を集めたため、布袋と呼ばれたそうです。
中国では王朝が交代するときに現れ、弥勒菩薩の化身とも言われるそうです。
日本へは禅画に登場する大きな腹をして福福しい顔の僧と人気があったようです。
その福福しさから、福徳の神らしさがあります。

19 (1) 19 (2)5毘沙門天
最後は善光寺世尊院釈迦堂の毘沙門天・・・

毘沙門天は武芸の神として名高く、上杉謙信の信仰が厚かったことでよく知られています。仏法を守る四天王の一人で多聞天とも呼ばれ、北の方角を守る戦の神様です。甲冑姿で、槍と宝珠をもった精悍な神で、もとはインドの暗黒界の悪霊でしたが、ヒンズー教のクベーラという神になり知恵の神様そして財宝福徳の福の神になったそうです。
この像は、平安時代の作で、長野市の文化財にも指定されています。釈迦堂には、国の重要文化財の釈迦涅槃像があり、その脇の毘沙門天が祀られています。
特定の日にか公開されないので、おめにかかれないのは残念でした。

七福神は一度7つの神がそろったわけでなく、最初に恵比寿と大黒天が一緒に祀られ、  続いて弁財天、4番目に毘沙門天、5番目が布袋和尚で五福神となり、最後に福禄寿と寿老人を加え、七福神となったそうです。

善光寺七福神はこれで終わりです。

[ 投稿者:オコジョ at 08:32 | 長野市&長野県北部 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
参道
正面に向かって左のバス駐車場から 善光寺にお参りしました。参道を歩いたのは 唐辛子を買うためです。かなり歩かなければならなかったような気がします。次回行くことがあったら 参道を全部歩いてみたいものです。琵琶を持たれた弁財天は 美しいですね。曽我兄弟は 歌舞伎で何回かみました 出し物の場面に寄りますが 虎御前も出たような そうでないような・・・
投稿者: 小紋 at 2018-02-11 07:52:20
小紋さんへ
おはようございます。
バスツアーの場合はどうしても駐車場の関係で脇からになりますね。
仲見世まで歩くと石畳の半分は歩いてしまいますね。
弁財天はやはり琵琶を持った方がいいですね。
以前はは仇討ち物は人気だったのですが。最近は忠臣蔵以外はあまり取り上げられなくなりましたね。虎御前はこちらではあちこちに足跡の名が残っています。
投稿者: オコジョ at 2018-02-11 08:45:38

この記事の固定URL
http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000546364.html

記事へのコメント
 
簡単演算認証: 1 x 9 + 5 =
計算の答えを半角英数字で入力して下さい。
名前: [必須]
URL/Email:
タイトル:
コメント:
※記事・コメントなどの削除要請はこちら