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浅間山 (9月30日  軽井沢 矢ヶ崎公園より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


営利目的や記事に関係のないコメント、英文のコメントは、予告なく独断で削除させていただきます。

2017年08月05日
新海三社神社
天満敦子 (1)

天満敦子 (2)

天満敦子 (3)

天満敦子 (4)

天満敦子 (5)

天満敦子 (6)

天満敦子 (7)

天満敦子 (8)

天満敦子 (9)

天満敦子 (10)

1
墓参りの帰りに佐久の一ノ宮の新海三社神社に寄ってみました。
正月に妻と、御田植祭には紹介しています。ぽつんと雨も・・・
参拝をして、さっと通り抜けましたので、説明もさっとにしたいのですが、あちこちで引っ掛かりそうな・・・

たくさんの双体道祖神と大日如来の石仏なと・・・
摩耗していて時代を感じさせ、素朴さがいいですね。


2
参道・・・

境内へはこんな杉の並木の参道を200メートル近く辿ります。

昔は、今より雪が多く、大雪の後、子供たちは、ここでそり遊びをしていました。
そういえば従兄弟は転んで手首を折りましたっけ・・・
でも、そんなことで、おとなしくなる様な子供たちではなかったです。治ると、又、滑って遊んでいました。昔の子供はそうでしたね。

3
参道が終わると石段となり、その奥に拝殿が見えます。

なかなか荘厳な雰囲気があります。

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天保時代の手水舎
手水鉢の正面には蔦紋と「松平兵部少輔乗友(のりとも)」、側面には「天保六年(1835)八月 石見守乗利(のりとし)」と寄進者の名前があります。

松平乗友は三河国奥殿藩(おくとのはん)第4代藩主、松平乗利は第7代藩主
乗利は乗友の孫になります。乗友は天保には亡くなっていますから、乗友が寄進して、そのあと何らかの修復の寄付をしてここに名を刻んだようです。


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狛犬・・・

寛政十年(1798)の狛犬さんです。
狛犬は唐の時代に仏教とともに中国の獅子が朝鮮半島を経て渡ってきたと言われます。そのころは左右対称の獅子だったようですが、獅子を左、狛犬を右に置いたそうです。
『類聚雑要抄』という本では「子は色黄にして口を開き、胡摩犬(狛犬)は色白く口を開かず、角あり」となります。今の狛犬には角はなく角があると古い形なります。
粉の狛犬はどちらも角があります。瘤のようでもありますが角です。(笑)
古い形の狛犬は割りと素朴でリアルではありませんが、何か優しさと親しみやすさを感じさせるようです。

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この灯篭の彫刻も凝っていました。龍のようです。火袋は新しくなっている感じですが、細部には沢山の彫刻で飾られています。

8
拝殿の後ろには2つの社が並んでいます。

新海三社神社は、佐久地方開拓の祖神「興波岐命」を主神とし、その父神の「建御名方命」と伯父神「事代主命」の三つの神を祀る社殿があることから、新海三社神社です。

9
反対側からもう一枚・・・
右は中本社で、「建御名方命」、その左は西本社で「事代主命」(恵比寿)が祀られるとともに、源氏の祖神「誉田別命」を源頼朝も合祀されています。

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珍しく参拝の方が・・・
もしかすると向こうもそう思っていたかも・・・

もう一つの社は何処・・・
この写真の右の外にあります。

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こちらは拝殿からずっと離れた、国の重要文化財の東本社とその後ろに三重塔が見えています。

ここは着色がなく落ち着いた感じです。佐久の神社で一番規模の大きな神社で、古くから佐久の一の宮といわれています。そうした歴史の重みと風格を感じさせます。

室町時代建立の東本社には佐久開拓の祖神である「與波岐命」を祀っています。佐久地方は
諏訪の神の建御名方命(諏訪明神)の子の興波岐命が洪水を治めて田畑を開拓、この地に鎮座したといいます。
佐久の語源は新しい土地を開拓したところから、新開(にいさく)という説があります。佐久はニイサクのサクが佐久に変わった。その下の神の興波岐命を新海
(新開)三社神社に祀り「佐久の総社」としたと・・・・・
建物の古さ、興波岐命を祀ることから、この神社の発祥の場所だといわれます。

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室町時代の永正12年(1515)建立の三重塔です。

屋根は椹や杉、栗などの木を三〇㎝程度に輪切りにし、それを包丁で割った板を使った杮葺き(こけらぶき)です。山の中の、落ち着いた雰囲気があります。

本来、三重塔は、釈迦の舎利を納める仏塔で寺にあるものですね。しかし、幾つかの神社に三重塔が存在します。信州にはここと大町市の若一王子神社・・・
江戸時代以前は神社に付属した神宮密寺がある神仏習合の神社がありました。ここも別当寺の神宮寺の三重塔でした。神仏分離の時に三重塔ではなく、宝物殿だそうです。そういう理由を付けて残したようです。

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この塔の特徴に禅宗様と和様が折衷されているところにあります。
屋根の下に細かく並んで打ちつけられた木を垂木と呼びます。
塔の一番下の垂木は扇状に木を並べていて「禅宗様」、上野2つの層の垂木は平行に木を張った「和様」の様式と、二つの建築様式がひとつの塔に取り入れられた珍しい形だそうです。

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この中は宝物殿ですから宝物が・・・
日本の木造三重塔は、三層になっていますが、上層は軒を支えるに複雑に木組みでスペースもなく、上層に登る階段もありません。中には仏様を祀ったようです。

この扉を開けても中は何もないかもしれません。

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冒頭の写真の石仏たち・・・
左は大日如来・・・
右は双体道祖神・・・

ここは路傍の神だったものが、道路の拡張などで安住の地として祀られたようです。双体道祖神は並立の初期の物が多く、抱きあうような神は見当たりません。
でも、古びて磨耗した神たちからは庶民の願いが込められているような素朴さに癒されるようです。

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トイレタイムを含めて龍岡城に拠りました。

この地を納めたのは松平氏で三河奥殿藩として、陣屋を置いていました。
幕末の文久3年(1863)、11代藩主松平(大給)乗謨が、旗本たちを編制した部隊をまとめる大番の長、大番頭を命名、本領が手狭だと三河奥殿からここ田口地区に本拠を移し、幕府に許可を得、元治元年(1864)築城を開始しました。

18空から見ると函館の五稜郭市同じ星形の城ですが、わかりにくいですね。

官軍と幕軍最期の戦いである箱館戦争の舞台、函館五稜郭の完成した四年後の慶應3年(1867)に龍岡城は完成しました。函館と同じ、日本で2つ目の西洋式の五稜郭であり、
わが国で、実用の城としいは最後に作られた城となりました。
城はここの地名から龍岡城とし、三河奥殿藩から田野口藩としました。

幕府の力が弱まり、各藩の要求により前年に参勤交代が廃止となり、大名は家族
や家臣を国許へ戻しました。そのため、三河奥殿藩でも、陣屋が狭くなり、乗謨は老中格・
陸軍総裁をも務め、江戸に近い、この地に移ったようです。

19
二つの五稜郭のモデルはフランスのリール市内に在るヴォーバン城で、規模としては面積で函館の4分の1の小さなものです。五稜郭の形から桔梗城とも呼ばれます。

20
堀に沿っていくといきなり堀がなくなります。

は明治4年(1871の)明治政府は城郭の破棄を命令したことにより。ここも、龍岡城五稜郭もそのほとんどが取り壊され、堀も埋められ、当時盛んだった養蚕用の桑畑として使われたそうです。その後、養蚕の衰退により、昭和7年、時の田口村長の大工原滝三郎を中心に村の有志が五稜郭の堀の復元し元通りにしようと動き、残っていた図面を元にして、村
中総動員で埋められていた堀の掘り起こし元に戻したそうです。

この城は慶應3年に完成と書きましたが、堀は3分の一が未完のままでした。建物が完成したので、一応の完成ということなのでしょう。堀がなくて城なのか・・・

実際は、資金が底をついたためのようです。
そういう時代だったようです。

あるが本振りなり、臼田駅へと急ぎました。

[ 投稿者:オコジョ at 08:42 | 佐久市 | コメント(4) ]

この記事へのコメント
無題
こんにちは。
新海神社は小学校の遠足で行きました。
覚えているのは三重塔と遠かった事です(笑)。
夏休みはDVDも発売された「君の名は。」のファンの方々の聖地巡りで参拝に訪れる方が増えるでしょうか。

オコジョさんと同じように帰り道では龍岡城で休憩しました。暑い日で龍岡城の説明を聞いている時に同級生が貧血で倒れて田口小の保健室に運ばれてしまったりしました。
同じように城跡にある小学校だぞと行く前には先生に言われていましたが、母校よりお濠もあるしよっぽどお城らしいかも、でした。近くの田んぼで農作業をされていたご年配の方は、「お濠がないところはその向こうに川が流れているから作らなかったんだ」と言われていました。色々ですね。
ちなみに社会科の高学年の資料集はこの龍岡城の上空写真が表紙でした。
投稿者: ハスカ at 2017-08-05 17:29:08
ハスカさんへ
おはようございます。ご訪問ありがとうございます。
新海三社神社までは宇賀田の町から3キロ以上ありますので遠いですね。
通いなれた道なので、あまり感じませんが。初めての小がっせいは遠かったでしょうね。
「君の名は。」のせいちで宮司さんの話では増えているようですが、いつまで続くかですね。
城ように用意したがたくさん残っていたと言いますから、資金緊迫する情勢とむりだったのでしょうね。
もっとも、堀があってもあまり防御にならないようですが・・・
城も地になりたいという夢と現実の差があったのかもしれませんね。
投稿者: オコジョ at 2017-08-06 07:51:47
こんばんは
五稜郭
そうなんですか。
土地の方たちが元通りに直されたんですか。
そういうのって、素晴らしいことですね。
五稜郭が土地の方たちにとって、。大事な物だったんでしょうね。
今でも、お休み処があってお茶を出してりしてくれるんでしょうか。
あそこも感じの良さに驚いたんですよ。
最近行っていないので、どうなっているんでしょうか。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-08-06 19:46:15
万見仙千代 さんへ
こんばんは
跡形もなくなくなっている城もありますね。私が6回の雪国の冬を過ごした。越後長岡の長岡城は石碑だけです。
ここは小学校になって、子どもたちのためにということもあったのでしょうね。それに日本で2つしかない、様式の城ということも・・・
でも、そうはいっても大変なことですね。

ここは地域の方がボランティアで交代で、接待して接待してくれていますね。漬物は自家製で美味しいですね。
最近は、新海三社神社などを見て、列車の時間に合わせるためにここは通過点という感じで中には入りませんが、外から見た感じでは今でも接待しているようです、
投稿者: オコジョ at 2017-08-06 21:32:11

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