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烏帽子岳・夏山 (8月19日 浅間山 あぐりの湯より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2017年08月03日
信濃国分寺史跡公園   古代の壮大な大寺のあと・・・
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信濃国分寺と国道を挟んで信濃国分寺史跡公園があります。

国分寺史跡公園には、資料館があります。
当時の古瓦、硯、陶磁器などの展示と当時の暮らしなどが説明されています。
史跡を見る前によると史跡を知るうえで有効です。


2南大門
昨日も触れましたが、信濃国分寺は天平13年(741)に、聖武天皇の国家の繁栄を祈るという詔によって日本の各国に建立された国分寺の中のひとつです。
といっても、規模の大きな寺院ですので、全国すべてに国分寺が完成はそれより約30年後だったといいます。信濃国分寺の正確な完成はわかりませんが、寺の規模、信濃の財力などを考えるとかなりの歳月がかかったことと思います。

信濃国分寺創建当時は国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)がありました。まず僧寺から・・・

ここは南大門跡です。国分寺の正門でした。しかし何もないです。裏門の西大門に欠けて寺を囲むように泥土をつき固めて作った練り塀の築地塀に囲まれていました。陶磁器ここに門があり、左右に築地塀が内部を隔てていた・・・
夢想するしかなかったようです。

東大寺南大門といえば運慶と快慶佐久の阿形の金剛力士像で有名ですね。東大寺は国分寺の元締めです。ここにも東大寺に似た南大門があったのでしょうか。そして怖い仁王様も・・・

3中門 3-1
南大門の先に中門がありました。

寺の配置は南大門から、一直線に中門、・金堂・講堂と一直線に伽藍が配置されていました。そして金堂を囲む形で中心に、中門と講堂を結ぶ廻廊が四角く囲んでいました。そして、その外側に塔と僧房がありました。
これは東大寺も同じで、東大寺様式といわれる伽藍配置だそうです。

現地の案内板から伽藍配置と、当時の建物の想像図をお借りしました。

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横から中門あたりを見ています。

ここは国の史跡なのですが、地元の人は、あそこは何もないと・・・
確かに建物は残っていませんし、丸いコンクリートの腰掛けくらいですね。ここは、見ることによって感動するという所ではないようです。

歴史を感じ、いにしえを思い浮かべることが必要なようです。そのため観光客はほとんど来ないようです。現実しか見えない人にはつまらない場所かもしれません。

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左の写真は砂利の敷いてあるところは尼寺の尼房跡の一部、その先のフェンスの向こうはしなの鉄道の鉄路・・・

右の写真は史跡公園の外の国道18号線です。案内板の立っているところは僧寺の境内でした。ここは明治になって引き裂かれてしまいました。

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しなの鉄道の下を潜って金堂側に来ました。

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ここは金堂跡・・・

その後ろに一段と高くなったところには七重塔がありました。

金堂本尊を安置するお堂です。今は本堂ということが多いですね。

ここはすべての国分寺がそうであったように釈迦牟尼仏が本尊として祀られていました。釈迦牟尼仏は釈迦如来のことです。
一般的には国分寺と呼ばれていますが、聖武天皇の詔により、国分僧寺は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」が正式名称だそうです。

詔によると七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選んでまことに長く久しく保つようにしなければならない。遠すぎると集まる人が疲れてしまうから望ましくない。国司は国分寺を荘厳に飾り、いつも清潔に保つように努めな、 間近に仏教を擁護する神々を感嘆させ、仏が望んで擁護されるように願いうようにと記されているそうです。

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北大門側から講堂跡・・・

講堂は経典の講義や説教をするお堂で、金堂の後ろに建てられます。この行動の後ろに金堂があります。

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金堂側の全景・・・

信濃国分寺は昭和38年(1963)から昭和46年(1971)にかけての全国初といえる、国分寺の本格的な発掘調査により、跡と尼寺跡の様子が明らかになりました。

僧寺・尼寺の調査後はどちらも、遺構は埋め戻しによる基壇復元方式という形で残してあります。「埋め戻しによる基壇復元」などといってもわからないですね。といって上手に説明できる自信はないのですが・・・

発掘調査が終わった後、保存のために遺跡を埋めてしまいますが、それでは遺跡の形がわからなくなってしまい枚。そのたる建物跡の表面をソイルセメント・アスファルトなどで保護して埋めます。そしてその上に盛り土をして芝生や玉砂利で区画し、当時の様子を再現するという手法です。元のものではないが。元の位置に当時の配置を再現したといとっていいでしょうか・・・

当時のような再現を期待すする人には、地味で多いに物足りないのだろうと思いますが、遺跡の保護と当時の様子の再現とするとよい方法のようです。

右端に、四角く刈り込んだがドウダンツツジありますが。この位置は築地塀の位置でここが境内と外部の境界でした。

31尼寺 30
僧寺の築地に隣接して尼寺の築地まで約40m・・・
これほど近くに国分僧寺、国分尼寺があるのは珍しいようです。

100間四方の僧寺に対して尼寺跡は、約148m)四方という一回り小さいですが、中門・金堂・講堂・回廊・経蔵・鐘楼・尼房・北門という配置は、細部では多少違いますが、基本的、僧寺と同じく東大寺様式となっています。

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手前の細い道が廻廊・・・

中央は講堂です

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金堂・・・

金堂の本尊は、僧寺と同じ釈迦牟尼仏でした。
当然ですが・・・

ここは、廃寺となりました。
僧では違った形として存続した寺が、多いのですが、尼寺は当時の環境では存続は難しくて、ほんの一握りの寺が残っただけだったようです。

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金堂の背後をしなの鉄道が横切っていきました。

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中門

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中門から金堂、行動…

国分寺の多くは各国の国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物でだったそうです

信濃の国の国府は、承平年間(931-938)に編纂された和名抄によると筑摩郡に在ったなっていて、現在の松本市あたりとなるのですが・・・
承平時代は平安時代で、国分寺創建より200年後の時代です。

国分寺が上田にあることから見て、以前の信濃国府も最初は上田市近辺にあったものが、後に都に近い松本市近辺へ遷うつったと考えられています。この辺りはそのころは信濃の国の中心だったようです。上田の小県地方も松本の筑摩地方のいずれも信濃国府の遺構は発見されていません。色々な推察はあるのですが、ここでは深入りしないことにします。

[ 投稿者:オコジョ at 09:07 | 上田市・小県郡 | コメント(0) ]

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