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浅間山 (11月26日 小諸市平原 三ツ子塚より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年08月02日
戌の満水(いぬのまんすい)の墓参り2  小諸 坂の町を駆け下った濁流
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中沢川と松井川が最接近した場所の中沢川の上流・・・

遠く見えている山が高津屋城のある山・・・
そこで起こった鉄砲水は、約一里を矢のように駆け下ったようです。
すこし中沢川に沿って下ってみることにします・


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国道18号線をアンダーパスでくぐったあたりの中沢川・・・
この川が未曾有の大被害を起こしたとは思えないささやかな流れです。
左の石垣の中は成就寺です。

「戌の満水」は旧暦の7月27日から8月1日となっていますが、今の暦に直すと8月27日から30日にあたります。原因は台風による集中豪雨と考えられています。

小諸は火山灰のシラス台地で、水の浸食に弱く、川は深くえぐれています。その狭い川に寄り添うように町並みがありました。浅間山麓を下る川は蛇行せずに急斜面を一気に下る川で、水量は少ないのですが、ひとたび、鉄砲水となると、その威力はすさまじいものがあったようです。

3
アンダーパスでくぐったところにこの六供区無縁仏公園があります。公園となっていますが、休んだり遊んだりできる場所ではなく墓地といった方が正確かもしれません。
地元では無縁堂と呼んでいます。

右の石垣は成就寺のものです。境内からも一段と高くなっています。洪水の後、洪水に備えて、積んだものです。小諸藩から、城のようで、丈夫過ぎると怒こられたそうです。でも命には変えられませんね。

5
ここは、この洪水で、身元のわからない旅人などを葬りました。
花が添えられて今でも供養が行われているようです。

  御家中町郷中共惣都合
  流家 参百七拾参軒
  同土蔵 弐拾八軒
  潰家 四拾弐軒
  流死 五百八拾四人
  内
    弐百八拾八人 男
    弐百九拾六人 女
  流馬 死弐拾参疋


これは洪水のあった寛保2年(1742)九月六日に「小諸洪水流出改帳」という当時の被害報告です。御家は武士、中町は商家。郷中は農村部、これを合わせて、この被害がありましたということですが、つまり小諸の町全体に被害があったということです。
「戌の満水」から一月ほど後のものですが、最近の災害でもそうですが、行方不明者はなかなか見つかりません。
「戌の満水」は。それらをはるかに超える大きな洪水で千曲川まで押し流された遺体も多かったものと思われます。いまだに見つかっていない遺体もあるのかもしれません。

小諸は北国街道の宿場町で、多くの旅人が泊まっていて、旅籠で働く下男下女も多く、死者の把握は困難でした。土石流に埋もれて、行方不明になったものも多く、死者584人は確認できた者だけで、行方不明者は含みません。
実際の死者は600人を遥かに越えたようです。

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左は江戸時代の宝暦4年(1754)に建てられた「戌の満水」の供養塔です。「戌の満水」から最初の戌年です。

右も「戌の満水」の供養塔ですが、こちらは比較的新しく昭和39年(1964)のものです。寛保2年(1742)から222年後・・・

こうした供養塔は、以前紹介していますが。光岳寺の参道脇にもあります。

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中沢川のほとりの双体道祖神・・・

小諸というと浅間山、その噴火としては「戌の満水」から約40年後の天明3年(1783)なのですが、「戌の満水」より良く知られています。
この時は鬼押出を作り、泥流は利根川に入り、そして一万数千メートルの成層圏を越えた噴煙が江戸に降り注ぎ昼間でも暗くしたなど、江戸っ子を震撼させたようです。

また、浅間山の信州側の山麓には五街道中山道がありましたが、軽井沢の降灰や焼け石による被害はありましたが、大きな被害はなく、中山道の旅人が、その様子を見て記録が多く残されていることによるようです。

しかし、この時の噴出溶岩は同じ18世紀だけで較べてみると、富士山の宝永大噴火、桜島の安永大噴火、樽前山、伊豆大島の三原山などの噴火と較べてマグマの噴出量がきわめて少ない噴火だったそうです。浅間山の噴火では天仁元年 (1108)の大噴火は軽井沢、御代田、小諸を火砕流が襲い遅い噴火による村や田畑を埋め尽くし、天明の大爆発をはるかに上回るといわれますが、 歴史的に資料が乏しく、今では忘れ去られています。

長い地球の歴史から見ると、現在の地球は非常に安定した、大人しい時代だそうです。しかし、いつ、いたるところで山は火を噴き、地震が頻発して地面は盛り上がるそんな時代が来てもおかしくないそうです。
もっとも長い目で見た場合ですが・・・
脱線してしまいましたね。

今後、このような、大きな災害がないように祈りたいものです。
天明の大爆発は死者1600人・・・
戌の満水の死者は確認できただけで、2800人といわれます。
火山よりも、地震による津波や水害の方が被害は大きくなるようです。

地球温暖化の今、世界中に降る雨は毎年、変わらないそうですが、地域的、時期的に大きな差が出るそうです。

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町へ下っていきます。

左の石垣は立派ですね。この内側は成就寺です。境内から見ても一段と高くなっています。戌の満水の後、洪水に備えて、積んだそうです。小諸藩から、城のようで、丈夫過ぎると怒こられたそうです。

この時、寺は全滅したそうですから、気持ちはよくわかりますね。

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本町と平行する六供地区の中沢川・・・
左側が本町側ですこちらは一段と高くなっていて、中沢川だけですと、小諸宿の水害は小さなものになったのでしょうが、濁流は広がってしまっていたようです。

左の写真は川岸から湧く泉・・・
右は染物屋さん・・・
この辺りは染物屋さんが多くありました。もっとも最近は廃業しているところが多いですが・・・
江戸時代は中沢川で染めた布を洗ったようです。

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田町地区に入ります。

左は神輿橋、祇園の時に健速神社の本神輿が神社から町に向かう時に渡る橋です。
右は北国街道ほんまち町屋館から見下ろす中沢川と田町の町並み・・・
中沢川の岸辺には私の母親が住んでいました。今は空き家となっていますが。管理のために時々行っています。
そのそばの高台に、母の実家の菩提寺がありますが、戌の満水の時は跡形も無く、押しつぶさたと伝えられています。ここまで通って来た六供、田町は一軒残らず本町へ流されたそうです。

奥秩父の甲武信岳を源に日本海に注ぐ信濃川は、信濃の国にあるあいだは千曲川と呼ばれます。現在では河川の改修により、滅多に被害はでませんが、洪水を繰り返し、江戸時代の後半から、明治にかけての200年間の記録に残る田畑流出は40回を超える、人々を苦しめた暴れ川でした。その最大の被害が戌の満水でした。

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本町に戻りました。

当時の記録には、水高さ二、三丈の鉄砲のように本町を押し流し街の半分がなくなったと伝えています。水の引くのもあっという間だったそうです。そのあとの本町は黒水で大火事のように見えたそうです。

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この塩川家は、戌の満水以前は本陣を勤めた家・・・

一昨日、小諸宿の本陣は、当初、宿場の中心にあるこの塩川家が勤めていましが、戌の満水といわれる大洪水で、この本町はほぼ潰滅、本陣も流されてしまいます。
そのため、本陣は市町の問屋場(といやば)を勤めていた上田家の屋敷内に移り、明治維新まで大名や、公家御用の休泊施設にあてられていました。

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本町の外れ・・・

今は十字路となっていますが、江戸時代は小諸城の城代家老屋敷のある鍋蓋曲輪として丘となっていて、街道は右へ城内は左へと別れ道でした。
洪水の濁流も二手に分かれ片側は小諸城へ・・・

右は城内への坂・・・

ここを下って濁流は城内へ・・・

道の奥の建物の背後の森が。小諸城跡の懐古園です。

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街を通り抜けた鉄砲水は、小諸城内に入ります。そこにて慶長17年(1612)の大手門がありますが。奥にあったために被害を免れたようです。濁流はこの門を通り抜けて、三の門二むかいました。

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濁流の跡をたどると懐古園の三の門がしなの鉄道の線路の向こうにあります。

この三の門と通用門の足柄門とを少しも残さずに打ち壊したとあります。

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三の門は元和元年(1615年)に創建されていますが、鉄砲水で流出しますが、その後、明和2年(1765年)城主に牧野康満が再建したものです。

この門の流出したのは門番があわてて門を閉じた為も水圧をまともに受けた為という話があります。これは創作でしょうね。門は通常は門を閉めて、城主の出入りや特別の客以外の時以外は通れなかったと思います。それに。この大きな門、襲い来る鉄砲水の来る間に占めることは無理でしょうね。

小諸藩は1万五千石(実際はもっと多かったようですが・・・)ですが、被害は7888石でした。このため、小諸藩は年貢の聴衆が出ず。幕府から二千両の借金をしています。

今は少なくなりましたが。以前は、多くの会社が8月1日を休みにしていました。私の勤めていた会社も、本社は東京で、新潟にも工場がありましたが、こちらの工場では最近まで休みでした。他の事業所の人たちからは何故、墓参りで休みなのか不思議に思われていました。

幸いに生き残った人々も. 田畑の農作物は失われ飢えに苦しみ、水不足、物価の高騰など。死者を弔うことも、ままならなかったようです。
そうした悲しみが、今の八月一日の墓参りにつながっているのかもしれません。

[ 投稿者:オコジョ at 07:35 | 北国街道 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
中沢川
郷土史で「戌の満水」の古文書を私が担当することになり、この辺りをカメラを持って歩き回りました。
本当に細い川で、これがそんな洪水を引き起こしたなんて信じられませんでした。
供養塔は場所が分からず、成就寺の和尚さんに教えていただきました。
あの頃は若かったなぁ(笑)
結構暑い日だったのに、あちこち行ったんだもの。
本町も軒並みやられたんですね。
今でも、同じことが有り得るんでしょうかね。
ああ懐かしい。
また歩きに行きたくなりました。
川岸から湧く泉、ほとんど水が無かった気がします。
今はどうなんでしょう。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-08-02 21:50:22
万見仙千代さんへ
こんにちは・・・
この辺りを訪れているのですね。
観光とは無縁の場所ですが。ここを訪れると、水害とはどんなものなのかと、そのすごさを知るような気がします。
中沢川なんて。小川ですよね。成就寺辺りなら飛び越せそうです。本町は沢筋でなく。中沢川から10メートル位高台でその一番高いところという感じで、一番安全そうな町が壊滅するなんて信じがたいですね。
この時は小諸の川という川は満水になったと言われます。
そうなったときにどうなるか・・・
ないことを祈りますが、無いとは言い切れないでしょうね。
泉は枯れてはいませんが、ほんの少しですね。
昔は使っていたのを見た記憶がありますが。今は形だけですね。
投稿者: オコジョ at 2017-08-03 09:30:50

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