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烏帽子岳・夏山 (7月9日 湯ノ丸山より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年07月14日
城下町上田社寺巡り1 郊外の寺たちと 虎御前、真田昌幸夫人寒松院のことなど・・・
1紺屋街八幡  (1)
西上田の上塩尻から秋和と北国街道を歩きましたが、その先は逆コースで6月に歩いていましたので、街道を離れて。国道18号線を歩いていきました。この辺りを歩いたのは初めてかもしれません。車で通ったのは数知れませんが・・・

国道の奥に鳥居が見えましたので寄ってみます。


1八幡  (2)
紺屋町八幡神社でした。
ここは上田城の鬼門の方向にあり、城の鎮守として歴代の上田城主により手厚く保護されたそうです。
落ち着いた雰囲気ですね。

1八幡 3-1 1八幡 3-2
現地の「八幡神社縁起」によると・・・(丸写しです。)

祭神: 応神天皇、神巧皇后、仲哀天皇、玉依姫命

勧請の年月日は不詳であるが、真田安房守昌幸が天正12年(西暦1584年)上田城築城にあたり鎮護のために、東御市の八幡神社(現:滋野神社)を現在の地へ移したと伝えられている。
真田氏のあと、上田藩主となった仙石氏・松平氏の崇敬篤く、藩主自らの参拝、社殿の修築再建などは藩の費用で行われた。
松平氏のころ、弓矢の神と崇めて、毎年正月三日の射初式のとき金小的に当てた者は、十四日の宵祭りと翌十五日未明のその的と矢を奉納することを例として幕末まで続けられていた。
なお、旱魃(かんばつ)の年には、大星神社、大宮神社と当八幡神社の三社合同で雨乞い祈願を行った。最近発見された白鷹・黒鷹の大絵馬は上田藩主仙石政明の献上になる上田市の文化財で東信地方で最大である。その他絵馬三つ、狛犬、棟札なども文化財である。


1八幡 5-6
八幡宮額の左右が白鷹・黒鷹の大絵馬です。長谷川等栄信舟という仙石藩お抱えの長谷川派の科画家だそうです。

絵には貞享五年(1688)とあり、制作年代がはっきりしている絵馬の中では上田では最古だそうですが、ただしコピーです。本物は上田市に寄贈され、現在は上田市立発物館の所蔵となっているそうです。

2上田大神宮 (1)
前回上田宿を歩いた時に柳町から見えた上田大神宮・・・

ここは前回紹介していますが、もう一度・・・

明治3年(1870)に政府は、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする方針の大教宣布の詔(みことのり)を出します。内容的にはキリスト教の排撃、神道保護と振興というものでしたが、欧米からキリスト教弾圧の反発、儒教・仏教との対立、廃仏毀釈の混乱などにより大教宣布の神道国教は見直しされて行きます。

大教宣布に伴い伊勢皇大神宮は全国を31教区に分け、大麻頒布の本拠地として大神宮を建てることにして、第19区神宮教院長野本部を上田に設けた始まりだそうです。
この社は明治19年(1886年)、伊勢神宮の神明造りの3分の1の規模で建てられました、

2 (2)
大神宮の松・・・

旧北国街道と国道18号は矢出沢川を挟んで並行しています。

矢出沢川の内側の狭い街道・・・
国道は作れなかったようです。

5 (1)
大神宮の奥にある浄土宗の呈蓮寺(ていれんじ)、なかなか素敵な山門です。

5 (2)
私くらいの年以前では「曽我兄弟の仇討ち」といえば誰も知っている話でした。
今の子供たちは、曽我兄弟なんて言っても、「それ誰」でしょうか。
でも、仇討ちへの細かい話は無視していきます。長くなりますので・・・

兄弟は、父の仇を討とうと妻を持ちませんでしたが、兄・十郎祐成は、弟・五郎の勧めもあり妾を持知ますが、自分が死後の遊女の虎を選びます。虎17歳、十郎20歳でした。
虎は鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』に書かれているので、実在したようです。
曾我兄弟は仇討ち後、兄は討たれ、弟は捕らえられて処刑されます。幕府は虎をとらえて調べますが、無罪として放免します。虎は箱根で十郎の供養を営み、出家を遂げ、19歳信濃善光寺に赴いたと『吾妻鏡』に書かれています。
長野には善光寺七小路というのがあり、その一つに「虎小路」というのがあり、立科町には虎御前という地名もあるなと縁は深かったようです。

この呈蓮寺は、虎御前が、諸国を巡拝し、この地に寺院を建立した虎立山祐成寺がこの寺の始まりだそうです。

5 (3)
呈蓮寺をもう一枚

本尊の仏様・・・
両手を胸の前で、親指と中指で輪を作っている中品中生(ちゅうぼん ちゅうしょう)という印相で阿弥陀如来さまです。両脇に右・観音菩薩、左・勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊です。

7 (3)
呈蓮寺の隣の真言宗の海禅寺です。
参道に入ると桜のトンネルが素敵な参道です。

7 (1)
海禅寺の山門がありました。

海禅寺はこの地方の名族・滋野氏やその一族の海野氏の祈願寺として平安時代の前期から栄えたそうです。
 
7 (6)
となりの東御市には、北国街道の海野宿がありますが。その北には海善寺という地域があります。地名だけで寺はないのですが、ここに海禅寺の旧名の開善寺かありました。そのころには武田信玄がこの辺りの小県郡を平定したとき、願文を奉納しているそうです。

天正11(1583)年、真田昌幸公が上田城を築城したとき、城の鬼門除けのため大手の東北にあたるこの地に海禅寺と改称移転し、以後、上田城下町鎮護のお寺となりました。


海禅寺本殿・・・

新田地区から太郎山・・・

すぐ先に大星神社や二子塚古墳などという前方後円墳もあるのですが、今回は割愛します。

今回は神社と寺ばかり・・・

有名ではない小さな寺を紹介して面白くもないと思われそうですね。
それほど信心深くはないのですが・・・

個人的な故人の好みなのですが。なにか土地の人たちとのつながりや歴史を感じられて落ち着くのです。

という訳で、今日はもう一軒・・・・
明日も寺ばかりなのですが・・・

9 (1)
曹洞宗大輪寺・・・

ここも参道が立派です。

ここは真田家と縁のある寺です。
もっとも、上田は真田家と関係のあるお寺が多いのですが・・・

9 (2)
山門も立派です。

大輪寺は「砥石崩れ」として村上義清により、武田信玄が大敗した砥石城ちかくの畑山にあったと伝わっています。
砥石城はもともと真田が作った城だったそうですが、真田氏の属する海野一族は武田の信州攻略に対抗しますが、天文10年(1541年)に甲斐の武田信虎、坂城の村上義清、諏訪の諏訪頼重の連合軍に敗れ、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らは上野国へ逃れます。そして村上義清の重要な城となります。
海野家は歴史から消えてゆき、真田は武田配下となります。そして村上義清、諏訪頼重も武田信玄と戦い敗れて、宗家の血統は途絶えていきます。そして武田も・・・
戦国は無常ですね。

9 (11)
ちょっと一息・・・

弁天様を祀っているようです。

9 (12)
大輪寺は初代上田城主真田昌幸が上田築城の時、夫人寒松院(山之手殿)の発願によって現在の地に再建されています。

こちらの門も立派ですね。
寒松院は、真田信之、信繁(幸村)の生母で、生前は山之手殿、または京御前と呼ばれていたそうです。

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禅寺らしい廻廊がありました。
寒松院は、公家目池の名家の菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘とされていますが、これは異説が多いようです。全部で5つくらいの説があるようですが、格式をあげるためのことだったようです。

「真田丸」の「薫」となっていますが、実際の名前は伝わっていません。
「薫」は高畑淳子さんが、色々と問題を神回す、起こすトラブルメーカーといったユニークな役割でしたが、これらはすべて創作です。当時の女性については、この時に居たということしか伝わっていなかったようです。ドラマでは自由にキャラクターを作り上げることができたようです。

9 (15)
山の手殿は、武田時代は新府城、豊臣時代には大阪城に人質として、当時の女性は大変だったようです。そうした中で、真田昌幸を支えたのかもしれません。

そして関ヶ原のあと、昌幸・信繁親子は16人の家来と信繁の妻女を伴って、九度山に幽閉されますが、山手殿は信之の母ということで、信之の元に身を寄せています。

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その後、山手殿は出家して寒松院となり、ここ大輪寺で晩年を過ごし、夫、昌幸が亡くなった二年後にこの世を去ります。

大輪寺の本堂裏手にある墓地の上のほうに宝篋印塔があります。
ここに、寒松院は眠っています。

寒松院の墓は長野市松代の大林寺にも墓所があります。

後に真田家が松代に移ったときに、関係のあるお寺を分霊して松代に移します。
長谷寺を長国寺というように字は変えますが、読みは「ちょうこくじ」・・・
大輪寺も、松代の大林寺も「ダイリンジ」・・・

[ 投稿者:オコジョ at 08:05 | 上田市・小県郡 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
寒松院
やっぱり、昌幸にはついていかず、信之の方に行ったんですね。
その辺りは、真田丸は史実通りだったわけですね。
高畑淳子さんの演技が印象的でした。
≪武田時代は新府城、豊臣時代には大阪城に人質として≫
いざという時には処刑されてしまうんですから、人質は大変ですよね。
その覚悟は、当時の人たちは当然のように持っていたんでしょうか。
私なら怖くて絶対に無理だわ。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-07-14 20:42:59
万見仙千代さんへ
こんばんは・・・
真田丸は大まかでは史実に沿っていますね。真田十勇士も登場しませんし・・・
ただ、細部は歴史でもわからないことばかり、特に女性はそうですね。信繁のたくさんの妻たちも詳しいことはわからないですね。
武士も大変でしたが、女性たちはその意志とは何系なく生きるしかなかった。でも、真田丸の女性たちは、生き生きしていましたね。
通りだったわけですね
投稿者: オコジョ at 2017-07-14 21:23:16

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