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浅間山 (11月17日 佐久市御牧原より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年07月07日
上塩尻(西上田駅あたり)
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すこし前に北国街道の上田宿を散歩しましたが、上田宿の柳町では卯達や蔵造りのような宿場の雰囲気のある街並みを紹介しました。

かつての上田宿の中心の横町、海野町、鍛冶町、原町などは町の商店街への発展と度重なる火事で、古い街並みは消え去っています。

上田宿から坂木宿に北国街道をたどるとその中間にこんな昔懐かしい街並みが残っています。ここは上塩尻と言います。


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今回はしなの鉄道の西上田駅から歩き始めました。

この駅は大正9年(1920)に国鉄信越本線の北塩尻駅の名で開業しています。昭和31年(1956)の現在の西上田駅に改称しています。

北塩尻駅は長野県の塩尻に対して北にあるということのようです。当時、この辺りは塩尻村でした。上田市と同じ昭和の大合併で上田市になって西上田と上田の名を名乗ったようです。

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国道わきの双体道祖神・・・

この像は二人の神が手をつないでいるように見えるのですが何をしているのでしょうか・・・

お互いに手を握りあったり、酒を酌み交わす愛の道祖神は多いのですが、その場合は愛する神たちは実をピッタリの寄せ合い、時には肩を抱いているのですが、この距離は離れ過ぎです。二人並んで手を合わせて祈る姿の像でも、もう少し距離は近い場合が多いのに・・・
摩耗が激しく中らないのですが。何故か気になるオコジョです。

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西上田駅から国道18号を渡って少し上田方面に戻ると左に昔の北国街道がわかれます。右の車の道が国道。左の細い道が北国街道です。

それにしても狭いですね。加賀百万石の殿様の大名行列が来たらどうやって土下座するのか・・・

幕府は街道の幅を決めていました。北国街道は小海道で3間(5.46m)、中山道などの五街道はこの倍・・・
右に用水がありますが。多分昔はここまでが道だったのでしょうね。

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「小岩井紬工房」という上田紬の工房・・・

上田紬は江戸時代から結城紬、大島紬とともに3大紬であり、同じ信州の飯田紬、伊那紬とともに信州紬として経済大臣指定伝統的工芸品に指定されています。
上田紬は、江戸の人々に丈夫なことで、愛用されました。
井原西鶴の『日本永代蔵』には「この手紬の碁盤縞は命知らずとて親仁(おやじ)の着たる」とあります。碁盤縞とは格子柄のことで、上田紬の代表的な柄です。
上田紬は表地一枚につき裏地を三回取り替える程丈夫なことから、三裏紬と呼びます。
昔の言葉「ヨミが混んでいて、うち込みがある」というそうですが、秘訣は縦糸の通る筬(おさ)の目が細かく、よこ糸をよく叩き込むことだそうです。

我が家の子供は男三人ですが、その就職祝いはみんな上田紬のネクタイでした。
ここは良く通るのですが、いつも一人・・・
一度見学したいのですがいまだなし、男一人で、甲斐もしないで。こういう場所は入りにくいのです。

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こんな家もありました。

気抜きのある小屋根があり、この家も養蚕農家だった名残りです。

蚕(かいこ)飼育では気温の管理が大切で、温度が下がると火を焚いて暖房しました。その煙抜きが気抜きです。大きな建物に見えますが2階部分は蚕棚が並び、一階にも桑を保存したりするスペースも必要でした。人が住み良いのは二の次で、蚕を「お子さま」と大切にしました。

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タイムスリップしたような道・・・
映画やドラマのロケが行われることもあるようです。

製糸業というのは、糸繰りと呼ばれる富岡製糸場に代表される製糸工場に注目がされますが、養蚕も大切な仕事です。桑の葉の生産カイコの卵の生産、蚕から繭まで育てるなど、いろいろな仕事がありました。
そうした中で質の用生糸を作るには。良い蚕(かいこ)を生み出すことが必要です。一反の絹織物には約2700の眉が必要です。しかし繭は中で、蛹が羽化すると繭を溶かしてしまうため、生糸が取れないので熱風で乾燥させ、蛹を殺してしまいます。つまり、種と呼ばれる
蚕蛾(かいこが)を交配して優秀な卵を作ることも大切な仕事でした。この仕事は、農家ではなく蚕種業として専業化され、上田地区では江戸時代以来、良質な蚕種の生産地として知られ、数千の蚕種屋があったそうです。

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このあたりはこのような「〇〇小路」」と名前のある小路が七つあり、七小路(ななこうじ)と呼ばれています。山に登っていくすてきな家に挟まれた道です。

ここ塩尻地区は、信州で最も古くから蚕種業が行われていた蚕種の一大産地でした。
その中の藤本家は江戸時代から蚕種を行い、明治38年(1905)に、蚕種として初めての会社組織の「藤本蚕業合名会社」(現・藤本工業株式会社_)を設立、戦後まで蚕種の生産を続けましたが、歴史41年(1956)に、蚕種業より撤退、塩尻の蚕種の歴史を閉じました。
ただ上田市の中心地にある上田蚕種協同組合では今も日本の蚕種の約75%を生産しています。

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土壁のある素敵な道・・・
ここも七小路の一つ・・・

この道をたどってみることにします。私の感ではこの道だと・・・

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道は山へ登っていきます。

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この先にあるのは「山火事防火用水」これも大切なものですね。

石垣はありますが、山道を登ります。

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上塩尻神社の鳥居・・・

下から見える神社なのですが、前来た時に違う道を登って行きつかなくて時間の関係でそのままになっていました。今回は無事たどり着きました。

立派な石段を登ります。

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この神社については何も知りませんので現地の由来の案内より・・・
 上塩尻神社の由来
(中略)
祭神  上ノ宮夫  建御名方富(命) 彦神別命
  下ノ宮妻  前八坂刀売命       (諏訪大明神)

このお社は遠い昔称徳天皇(女帝)の神護景雲年間(767〜769)に国造小県郡他田舎人大嶋により、利島(とねり)島(現元宿)に諏訪大明神を祭神として創建されたと伝えられています。その後、何回と鳴く水害に見舞われ時に文禄4年 (1595) 七月の大洪水で他田舎人の旧跡古墳及び信福寺等流出し、宮社も荒廃した為宝永六年(1709)八月塩尻三村(上・下塩尻(山根・中島))の鎮守の宮として現在の地に遷りました。
その後寛政三年(1791)三月上塩尻一八六戸の寄進と述べ八八七人の労務奉仕により御本殿杮葺替瑞垣拝殿新築され嘉永五年(1852)祝詞殿を増築社殿が整備されて(以下略)


こちらは上ノ宮のようですね。
諏訪大社と同じように、上の宮に夫神を下の宮に女神を祀っているようです。

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本殿の龍・・・

上塩尻神社の由来に「国造小県(ちいさがた)郡他田舎人大嶋(おさだのとねりおおしま)」という人物が登場していますね。

他田氏(おさだし)は、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏(おおし/おおうじ)の系列の古代から氏族と言われています。
他田氏の人物としては神護景雲2年(768年)に爵2級を与えられた同じく信濃の国の伊那郡の他田舎人千世売(おさだのとねりちよめ)など信濃国を中心に「他田舎人」を名乗る人たちが記録に登場します。「他田舎人」であってもその関係ついてはよくわかりません。
舎人(とねり/しゃじん)というのは、皇族や貴族に仕え、警備や身の回りの仕事をしていた役職名です。ただ祖先が「他田の宮に奉仕する舎人」だったということのようです。
「他田舎人」と名乗っていても、必ずしも血のつながりがあるわけではないようです。

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こちらが下の宮ですね。

女神だけに厳重に周りを囲まれていました。

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そしてこんな碑が小さな小屋の中に収められていました。
碑文はかすれていて読めないですね。わたしには・・・

「可良己呂武 須宗尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎怒也 意母奈之尓志弖」

これではかすれていなくても読めません。

  唐衣 裾に取り付き 泣く子らを
       置きてぞ来のや 母なしにして 


万葉集の巻二十の歌ですね。防人の歌としては良く知られているものの一つですね。

作者は小県郡の他田舎人大嶋・・・
もう紹介済みですね。天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣されたときの歌だそうです。

妻に先ただれ男手一つで我が子を育てているのに、泣きじゃくる子を置いて、防人として遠い九州へ旅立ってきた切なさが伝わってきます。

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神社から回り込んだ畑から上田盆地・・・

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街道に戻る道・・・
ここもいいですね。

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途中の虚空山東福寺・・・というお寺を訪ねてみます。

参道の六地蔵を半分ずつ三体ごとに分けたお地蔵様ですね。三人ずつなかよく暮らしているようです。なんとなく微笑ましいですね。

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ここは、真言宗智山派のお寺という以外は判りませんが、真言宗の開祖の弘法大師空海は虚空蔵菩薩を四国の室戸岬最御崎寺の近くの洞窟で虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという虚空蔵求聞持法を行ったといわれ、本尊を虚空蔵菩薩とする寺が多くあります。

寺の背後の山虚空蔵山で、山号も虚空山ですので、本尊は虚空蔵菩薩かもしれません。

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街道に戻り、上塩尻を通り抜けます。


海がない長野県に、なぜか塩尻という地名が塩尻市、ここ上田市、そして栄村にもあります。

ここ上田の塩尻の名前は、虚空蔵山の末端が岩鼻の岩壁となって千曲川にせりだしています。そのため、絞り込まれた土地として、絞り地 (シボリジ)から変化したと言われます。
宮城県の松島近くの塩竃市も、製塩の「塩釜」と思われがちなのですが、シボリガハマ(絞りが浜)が変化したものだそうです。

塩尻市は、日本海から塩売りが、塩を売り歩いてくるとこの辺で塩が売切れるとか、日本海側と太平洋側の塩がこのあたりで一緒になるつまり塩の道の終点だからといわれます。でも、これは俗説です。塩の道は江戸時代に整備されたもので、塩尻の名前はもっとずっと古くからあります。アイヌ語説や伊勢物語の「塩尻」など諸説があるようですが、本当のところは判らないということです。

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上塩尻の部落を抜けると、座摩(ざますり)神社の石段があります。

一度登っていますが、かなり上りますので今回は登る気力がなく・・・・
歳でしょうか。
座摩神社は保食神(うけもちのかみ)を祀っています。食物と養蚕の神です。かつて養蚕の盛んな頃は東北信濃の人々に崇拝された蚕影神社でした。
上田・小諸の地域は、かつては「蚕都」と呼ばれたて蚕糸業(養蚕、蚕種、製糸)が盛んな地方で、ここは豊蚕祈願の参拝者で賑わったそうです。しかし、今は滅多に人の訪れない、山の静かな神社です。

[ 投稿者:オコジョ at 07:21 | 上田市・小県郡 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
これは素敵な風景を見せていただきました。
塩尻というから、あの塩尻市かと思ったら上田市にあるんですね。
どこも、写真に撮っても絵を描いても、ピッタリの小路ですね。
1人でこんな所をブラブラ散歩するのは、楽しそうです。
蚕糸業は上田の名産だったんですね。
上田紬でネクタイを贈る、それは素敵なアイディアです。
防人の子供たちは、どうなったんでしょうね。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-07-07 19:59:18
万見仙千代さんへ
こんばんは
ここは、観光地ではないのですが、それが良いのかもしれません。
ここは何もないといってもいいところなのですが心落ち着くところです。
この小路の感じがいいですね。ここに入っていくと物語が始まりそうな・・・

上田というより、信州は蚕糸業は名産だったようです。
富岡製糸場は洋式の製糸技術を学ぶために工女を集めました。信州は合計で337人が参加したそうです。その人数で見ると上田からは33人で4位、3位に53人の長野、1位は94に人の小諸だったそうです。

昔世話になった上司に子供の誕生の時に上田紬のネクタイを贈ったら喜んで占めて頂きました。いたので、崩れがなくて秋が来ないといっていました。それを思いだしてです。皆塩田のデッサン館近くの店で求めました。
ここに歌を残すくらいの人は、それなりの地位のあった人と思いますので、暮らしには困らないのでしょうが、寂しかったでしょうね。
防人はみんな東国からでした。九州まで大変だったでしょうね。
投稿者: オコジョ at 2017-07-07 21:46:26

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