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浅間山 (9月5日  小諸市久保より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2017年05月01日
高遠湖と絵島の囲み屋敷
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高遠城から南アルプスの3000m峰の塩見岳から流れ下る三峰川の岸辺に下ってみます。
三峰川(みぶがわ)は高遠城の南側にあり、こちらは南斜面で高遠小彼岸桜は見ごろを迎えていました。


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三峰川には高遠ダムによって堰き止められた高遠湖があります。
そこまで行きます。

三峰川沿いには古くからの街道の秋葉(あきは)街道がありました。いくつもの峠を越え、大鹿歌舞伎の大鹿村、国の重要無形民俗文化財の遠山の霜月祭りの遠山郷を通り、火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん)、今は神仏分離で秋葉神社となっている信仰の道・・・・

というよりも、秋葉信仰が広まるよりも前から存在していた静岡と諏訪を結ぶ縄文時代からの塩の道でもありました。高遠は山奥の里ですが、むかしは重要な街道の要所として栄えた町でした。

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三峰川の奥・・・
天気が良くなくて、奥はうかがい知れませんが・・・

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三峰川を対岸に渡る白山橋・・・

遠く雪の白い山が見えるからでしょうか・・・

天気が良ければ、上流には南アルプス、下流には中央アルプスが見えるのですが。この日は雨模様でした。

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白山橋にこんなパネルが・・・
こんな風に見えたら素敵ですね。

三峰川は3047mの塩見岳から流れる急峻な川でそれゆえに、氾濫の多く人々を苦しめました。

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白山橋から下流・・・
この流れは天竜川に向かいます。

天龍川も「暴れ天龍」と恐れられた川でした。最近は大人しいようです。人々の努力のたまものです。

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不思議な色ですね。

なにか鉱物でも溶け込んでいるのでしょ羽化。それとも光の屈曲でしょうか。

家の奥様はこちらをみおろしていないはずです。
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こちらは見て、凄いと・・・

白山橋から高遠ダム・・・
その上の湖水は高遠湖・・・

白山橋は素敵な展望台です。

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高遠ダムは高さ30.9メートルの長野県営の多目的ダムです。

灌漑と水力発電を目的としているそうです。

氾濫の多かった三峰川や「あばれ天竜」の天竜川も、こうしたダムなどにより、農業用水として、農業を支え、電力を生みだしています。

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このダムのすぐ上には、もっと大きな美和ダムがあります。こうした治水とともに今は観光に一役かっています。

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見上げる高遠城址・・・

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湖畔にあるこちらによって見ました。

絵島の囲み屋敷・・・

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勝手口・・・
こうしてみると特別な家に見えませんが、よく見ると窓には格子があります。

江戸時代に大奥を揺るがした絵島生島事件(えじま いくしま じけん)がありました。
絵島は江島が正しいそうですが、ここはと「絵島の囲み屋敷」なので。ここでは絵島としました

正徳4年(1714)、時の徳川第七代将軍・家継の生母月光院に仕える御年寄(おとしより)・絵島は、月光院の名代と御年寄の宮路と共に上野寛永寺、増上寺へ前将軍家宣の墓参りをします。その帰りにしたしくしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座にて歌舞伎役者の生島新五郎の芝居を見てその後、絵島は生島らを茶屋に招き宴を開いたが、そのため大奥の門限に遅れてしまった。この事が問題となり、評定所が審理となります。

御年寄は、江戸時代の江戸城大奥女中の役職の一つです。将軍や御台所(将軍正室)への謁見が許される「御目見以上」の役職で御年寄は大奥女中の第2の地位だったそうですが、奥向の万事を差配する実質的には大奥随一の地位で、大奥の老中という権威があったそうです。

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玄関と台所・・・

玄関の奥には番人詰所、物々しいですね。

評定は江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武たちが関係者を徹底的に調べたところ大奥の規律の緩みが次々と明らかにされ関係者1400名が処罰されてしまいます。絵島は生島と密会したとして、裁決は死一等を減じての遠島(島流し)、連座として旗本であった絵島の異母兄の白井勝昌は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶は重追放、歌舞伎役者の生島は三宅島へ遠島と容赦のないものでした。
山村座座元の山村長太夫も伊豆大島への遠島、山村座は廃座、そして江戸中の芝居小屋は簡素な造りへ改築させられ、夕刻以後の営業も禁止となります。
絵島は月光院の嘆願により、罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなります。

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右側が玄関、左の格子のはまっているのは絵島の座敷です。

絵島の囲み屋敷は、ここではなく違う場所にありました。この建物は復元されたものです。
囲み屋敷は昼夜をとわず 、見張りの武士に監視されていたそうです。身の廻りの世話の下女1人がいましたが、当初は部屋から出ることもできませんでした。

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こちらも格子。牢屋といっていいような・・・

邸を囲む塀は屋敷全体が板で囲まれ、塀を越えないように塀の上には忍び返しが物々しくつけられています。場所は城下から一里離れた辺鄙な場所で、出神のやり取りも禁止だったそうです。

ただ、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許されていたそうです。

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絵島の間、8畳間ですね。

絵島が33歳から61歳で亡くなるまで28年間幽閉された部屋・・・
食事は朝晩の1日2食、一汁一菜、酒。菓子は禁止でした。衣服も木綿の実という質素なものだったそうです。

そういう中で大奥の事を一切口にせず。お経を唱えるといった清廉な生活で、後には藩主も一目置く暮らしぶりだったそうです。

将軍が徳川吉宗となり、享保7年(1722)に高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けでて、非公式ながらこれを許可されたそうです。
このため絵島の生活範囲は広がり、囲い屋敷の周囲の散歩は認められ。藩主などの招きで、月に何度かは城に赴き、城の女性たちに躾の指導をしたそうです。
寛保元年(1741)に風邪が元で生涯を閉じ、高遠の蓮華寺に葬られました。

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こんな道を登って城に戻りました。

妻はこんな道を登って大丈夫という感じでしたが。石畳みの素敵な坂でした。

[ 投稿者:オコジョ at 07:55 | 旅 (地域外) | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
絵島の屋敷
高遠の町からは離れているのでしょうか。
28年間、こんな家に閉じ込められていたのかと思うと、お気の毒ですね。
それを見張っているお役人さんも、大変だったでしょうね。
晩年に少しの自由が認められたようで、救いですね。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-05-02 21:41:55
万見仙千代さんへ
おはようございます。
絵島の屋敷は一里と言いますから歩いて1時間の辺りに人家のない山の方の場所だったでしょうね。
一寸遅刻しただけの代償としては大きかったですね。
滅多に大奥から出られないので。密会などできなかったのでしょうね。大奥への見せしめ的な狙いもあったのかもしれませんね。
いずれにしても現代では考えられないことですね。
投稿者: オコジョ at 2017-05-03 07:17:16

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