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烏帽子岳・夏山 (7月9日 湯ノ丸山より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年04月30日
高遠城址   日本100名城
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もう半月ほど前の高遠小彼岸桜をみた高遠城址・・・

ここは大型バス専用の駐車場・・・
この時の桜はこんな蕾ばかりでした。南側はわりと咲いていましたが・・・
バスガイドさんは、ここの桜は蕾もきれいなので・・・。

撮影している場所は武家屋敷のあったところだそうです。

奥の丘は本丸です。その下は勘助曲輪です。

伝説では高遠城は戦国時代、武田信玄が山本勘助に城の縄張(設計)をさせたとされています。しかし山本勘助も伝説です。この曲輪は、築城当初この曲輪はなく、その後大手口を東側から西側へ移したときに新たに作られたと言われています。
武家屋敷と勘助曲輪には堀があったそうですが。戦後の旧高遠高校グランドとして使うために埋められてしまったそうです。


2大手石垣
私たちはバスで勘助曲輪まで登ってしまいましたが、城下町からはこの道を登ってきました。こんな車の道でなく。真っ直ぐだったとおもいますが・・・
バスがいるところに整然とした石垣がありますね。この石垣は、大手桝形の一部と思われ、当時の石垣構築物の姿を留める貴重なものと説明がありました。

この辺りに大手門がありました。もっともはじめは、こちらは、城の表口の大手ではなく裏口の搦手だったそうです。
そして、幕藩体制の基盤が揺るぎないものとなった江戸時代の初期に城下町川に大手門を移したようです。正保年間(1644〜1648)の絵図では、城の西(現在地)に大手門が描かれているそうです。勘助曲輪はこの時に城の入口を強化するために作られたようです。

3大手門
伝高遠城大手門・・・

大手門跡から上がってきた道の勘助曲輪の道向かいにこの門があります。
高遠高等学校がこの城跡ににあった昭和23〜59年(1948〜84)には高遠高等学校の正門だったそうですが・・・

正直に言って、貧弱だなと・・・

私の町に残っている小諸城の大手門や三の門と較べると、城のものという風格が感じられません。

明治維新となり廃藩置県となり、この城は明治5年(1872)に城郭は取り壊しとなり、城の建造物や樹木は、競売されます。門としては大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門がありましたが、すべて民家や寺院の門として払い下げられました。
白の門をそのまま使うには大きすぎますね。そのため、家に似あうように縮小され原型をとどめていないようです。惜しいことです。

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勘助曲輪から二ノ丸へ登って行きます。

高遠は諏訪氏庶流の高遠氏の城でしたが、武田信玄は天文14年(1545)により落城します。当時の城主の高遠頼継(たかとおよりつぐ)はその後武田配下となっています。
武田は高遠城に今の形に近い大規模な改修を行い武田氏の軍事拠点となっています。

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本丸空堀・・・
この城は平山城という形式の城でよくある水堀はないのですが、見事な空堀がみられます。

その後永禄5年(1562)なお武田信玄の晴信の子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼(武田勝頼)が諏訪氏を継ぎ高遠城主となります。そして、勝頼は元亀元年(1570)に武田氏の正嫡の義信が廃嫡され後継となり信玄の本拠の躑躅ヶ崎館に移り、高遠城は信玄実弟の武田信廉が城主となるなど武田の身内が城主を務める重要な城でした。

こうした見事な空堀を見ると、武田にとってここが重要な城であったことを感じます。

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高遠閣・・・

この建物は二ノ丸にありますが、残念ながら、この城には当時の城としての建物は残っていません。
この高遠閣は、町民の集会や観光客の休憩場所として昭和11年(1936)に建てられました。大正・昭和初期の貴重な建物として国の登録有形文化財となっています。

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二ノ丸の高遠小彼岸桜も蕾でした。

武田氏は隣国の織田・徳川氏と対立します。高遠城は対織田・徳川に対する重要な軍事拠点でしたが、長篠の戦いの敗戦により勢力を弱めます。恋した低策として武田勝頼は天正9年(1581) に自らを新府城に移転するとともに、異母弟の仁科盛信(にしなもりのぶ)を高遠城主とします。

10二ノ丸
人が多くで出店も多くて、城としてゆっくりの観察するのは難しかったですね。もっとも、私たちもメインは桜だったのですが・・・

この撮影は、昼食場所からの撮影でした。

旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此の国の人にして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず(浅井洌作詞、「信濃の国」より)


「仁科の五郎信盛」と歌詞にあるのは仁科盛信のことです。

天正10年(1582)2月、織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を行います。長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城を攻めます。対する高遠城に籠もる守備兵の数は3千・・・

10本丸空堀に架かる桜雲橋と問屋門
桜雲橋・・・
ここを渡れば本丸です。

織田信忠は、仁科盛信に「武田勝頼は不義なので退治する。木曾、小笠原らも降伏した。上飯田、大島まで自落したのに、城を堅く守っているのは神妙なことである。しかし、勝頼は昨日、諏訪を退き退いている。早速、出仕し忠節を誓うのであれば所領は望みのとおりにするし、黄金百枚を差し上げる。」と降伏を薦めますが、仁科盛信は、使者だった僧侶の耳と鼻を削ぎ落して「信玄以来、信長に対しては遺恨を重ね持っている。ようやく残雪も無くなったので、勝頼は尾張・美濃へ織田討伐として動き、鬱憤を晴らそうかと思っていた。ところがそちらが発向していたので籠城しているまでである。一端一命を勝頼に武恩として報いるものであり、不当不義の臆病な輩と同じにしないでもらいたい。早々に馬を寄せて攻められよ。信玄の頃から鍛錬してきた武勇・手柄をお見せしよう。」しいう籠城衆一同の名で、ただちに返書をしたため、送り返したと言われます。

11問屋門
問屋門・・・

この門は城門でなく、秋葉街道、高遠宿の本町の問屋役所にあった問屋の門を移築したものだそうです。

高遠城の戦いを『信長公記』は次のように記しています。
「火花を散らし相戦い。おのおの疵を被り、討死は算を乱すに異らず。歴々の上﨟・子供、一々に引き寄せ引き寄せ、差し殺し、切って出て、働くこと申すに及ばず。ここに、諏訪勝右衛門女房、刀を抜き切って廻し、比類なき働き、前代未聞の次第なり。また、十五・六の美しき若衆一人、弓を持ち、台所の詰まりにてあまた射ち倒し、矢数射ち尽くし、後には刀を抜き切りてまいり、討死。手負死人上を下へと数を知らず」

『信長公記』では仁科五郎は、副将小山田、士隊長18名らとともに壮絶な討死をした。武田軍の頸は400余だったという壮絶な戦いだったようです。

12
本丸・・・

高遠城の戦いで織田軍の総大将と籠城していた信玄の娘・松姫(盛信の妹)と元婚約者同士だったそうです。元婚約者とはいえ、哀しいことですね。

高遠城の落城により織田勢は後世を強め武田氏は滅への道を辿ります。

13藤原神社
本丸 新城(盛信)・藤原神社

ここは現地の案内板ですませます。

 新城(盛信)神社・藤原神社の由来
文政11(1828)年、城主内藤頼寧は、天正10(1582)年当城において織田の大軍を引き受け壮烈な最期を遂げた武田信玄の五男である仁科五郎盛信の霊を城内に祀り「新城神」と称し崇拝してきた。
これより先、城内には内藤頼以公が藤原氏の先祖大織冠藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったので、廃藩後の明治12(1879)年この神社を「新城神」と合祀して今日に至っている。なお、宝物として内藤家寄進の甲冑その他の文化財があるが、これらは高遠町郷土館に保管されている。


高遠城の戦いで壮烈な最後を遂げた仁科五郎盛信をまつった神社ということですね。

15本丸太鼓楼
本丸の太鼓櫓

こんなものが江戸時代に本丸にあるわけないですね。

江戸時代に内搦手門内の太鼓で藩士の登城、退城の時間などを知らせたそうです。廃藩の木に違う場所に楼櫓を建造して太鼓を移したそうです。明治8年にここ本丸にうつったとか、現在の太鼓は明治45年の建物で。太鼓は高遠閣の2階にあるそうです。

16本丸二ノ丸南丸の空堀
こちらも本丸と二ノ丸の空堀・・・

織田氏・豊臣氏時代[編集]

武田の滅亡により、高遠のある伊那地方は織田家臣・毛利長秀が治めますが、その拠点は飯田であり、高遠ははっきりわかりません。そして本能寺の変・・・

細かく書くことはこのブロクの範疇ではありませんが諏訪氏の一族の藤沢頼親が高遠城を奪い、徳川家康へ従います。

17白兔橋
本丸から法憧院郭への「白兎橋」・・・・

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下から「白兎橋」・を見ると・・・

江戸時代は、保科氏、鳥居氏に城江主が変わり、元禄4年(1691)に内藤氏となり三万三千石、その後8代180年間続きますが明治維新となりました。

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白兎橋をわたった法憧院曲輪・・・

ここに法幢院というお寺があったからだそうです。

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進徳館・・・

最後の藩主内藤頼直創設の藩校です。

進徳館はと遺書は主な建物で平屋茅葺きが8棟あったそうですが。明治の藩校閉鎖の時に造り、東西2棟と玄関及び表門だけ残ったそうです。

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ここが一番落ち着きました。

茅葺屋根っていいですね。

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三ノ丸跡・・・

ここは高遠高校があったところだそうです。

30搦め手門跡
搦手門(からめてもん)跡・・・

こちらが通用門だったのでしょうね。

雑駁でしたが高遠城はここまで。
少し補足がありますが。それはまた明日・・・

[ 投稿者:オコジョ at 09:15 | 旅 (地域外) | コメント(2) ]

この記事へのコメント
高遠城!
羨ましいですねぇ。
私が行った時は、人と桜しか見られませんでした。
悲劇のお城ですよね。
仁科盛信公を祀った神社もあるんですか。
(どうしても、公をつけずにいられません)
それにしても、降伏を勧めに来た使者も、そんな目に遭わされてはたまりませんね。
やっぱりいつか桜とは違う時期に行きたくなりました。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-05-01 21:14:12
万見仙千代さんへ
確かに歴史的にはいろいろとあった城ですね。

私たちの時は桜がまだでしたので、わりと空いていたのかもしれません。
といっても、弁当を食べるベンチはなく、仲良く食事をしているところに割り込ませていただきました。
このツアーは頼と時間をたっぷりとってくれます。高遠城は食事を含めて、2時間半ありました。
やはりでも、人ばかりで。城をゆっくり見るには桜の時期でないほうがいいですね。
投稿者: オコジョ at 2017-05-01 21:39:22

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