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烏帽子岳・夏山 (7月9日 湯ノ丸山より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年03月19日
千曲川左岸の台地と谷間にて3 藤沢 大日堂
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中八重原からの蓼科山・・・
北面なので雪は多いですね。
田圃の土手も北向きなので。前日の雪がほんの少し・・・


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途中の水車・・・

実用でなく水輪の郷公園という公園のオブジェですが回るようです。
でもこれでは回れませんね。この日は3月8日でした。

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浅間山を一枚・・・

このあと千曲川の支流の鹿曲川のそのまた支流の番屋川に下ります。

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番屋川に下ると立科町の藤沢という集落になります。

名があるということはないのですが。なんとなく時間が止まったままのような静かな村でした。

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集落の中央に神社がありました。
駒方宮とありました。

諏訪神社かなと鳥居の石の額を見ると駒形神社でした。

八重原台地と鹿曲川を挟んだ御牧ヶ原は奈良時代末から平安時代に「望月の駒」と呼ばれた名馬・月毛(淡いクリーム色)の駒を朝廷に献上した勅旨牧の「望月の牧」がありました。牧畜に適した草が繁る、広々とした牧で、その広さ三、○○○余町歩(約一千万坪) だったといわれます。御牧ヶ原の名前はこのことに寄っています。

勅旨牧は甲斐・武蔵・上野・信濃の四か国にありましたが、信濃が最も多く16牧でした。毎年八月中旬に、諸国の牧場から献上した馬を天皇にみせる「駒牽(こまひき)」の儀式では、鎌倉末期には、他の牧からは選ばず、望月の牧の馬だけで行ったそうです。

佐久地方には望月牧のほかにも、軽井沢の長倉牧、御代田の塩野牧、と小諸の菱野牧の平安時代中期まで官営の牧場がありました。そうしたことから本殿が重要文化財になっている佐久市塚原の駒形神社ともう一つ、小諸市には失われたものを含めて3社、立科町にはここを含めて2社の駒形神社があります。これらは牧の馬と、関係舎のための神社だったようです。

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佐久市塚原の駒形神社の神は、稲荷神社に多く祀られている宇気母智命(うけもちのみこと)を祀っていますが、御神体は騎乗の男女神像だそうです。

しかし、駒形神社の神は一定でなく、神社によって違うようです。ここはどんな神なのか・・・

牧野あった時代には都周辺の神馬(しんめ)を扱う神社の駒形神人(こまがたじにん)と呼ばれる奴隷民が、力を持ち馬匹商人となり、莫大な利益を得たといわれます。駒形神社も駒形神人と関係を指摘する学者もいます。そうした駒形神人がこの地にもいたのかもしれません。

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立派な古民家もありました。

養蚕農家でもあったようです。

ここで、カメラにトラブル発生・・・
シャッターは動くのですが、メモリーカードに記録されないのです。

ここから先は3日後にもう一度行った時の写真です。

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藤沢集落を見下ろす村はずれに県道を挟んで新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)の大日山頼洞寺がありました。

愛宕山地蔵菩薩の幟がありました。

愛宕山の愛宕権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神です。神仏習合ですから神と仏の合体ですね。伊邪那美(イザナミ)は地蔵菩薩が姿を変えて現れたという考えです。伊邪那美は垂迹神、地蔵菩薩は本地仏と言います。

愛宕権現は勝軍地蔵という馬に乗った軍人の姿のお地蔵さんであらわされます。鎌倉時代から、武士の間で。信仰があります。

でも、愛宕山は火伏の神・・・
集落を火災から守っていたようです。

11現地の案内板によこの寺は、かつては集落の道端にあったそうですが。ここの本尊の大日如来の霊力が強く、本尊が祀られた大日堂の下の道を馬に乗って通ると必ず落馬したそうです。おかしいとそこをこみ掘ってみたら、大日如来の石仏が埋まっていたそうです。それを本尊として祀る大日堂を建てて寺がここに移ったのだとか・・・

寺は今では無住です。何か寂しげですね。

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頼洞寺の隣にお堂があります。

今は県道が2つのお堂の下にありますが、昔は県道は寺の敷地だったのでしょう。

13こちらが頼洞寺の本尊を祀っている頼洞寺の大日堂です。

文禄年間(1592〜1596)と言いますから豊臣秀頼が生まれたころですね。そのころの建立と伝わっています。今のお堂は江戸時代の中ごろに再建されたお堂です。

素敵なお堂なのですが、その前にいらっしゃる狛犬さんが気になります。

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妻がこれを見て、「どう見ても狛犬ではなくて蛙だわね。」・・・

江戸時代の狛犬には紅葉な異形の狛犬が多いのですが。これほど犬に似ていない狛犬も珍しいかもしれませんね。

個人的には好きですね。

左が口を結んだ阿形、左は口を結んだ吽形・・・
両方合わせて阿吽(あうん)です。

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大日堂内部・・・

大日堂の本尊は弘法大使の秘宝秘作といわれる縦150センチメートル、横90センチメートルの石作り大日如来尊の立像が安置されているそうです。
この像を見ると失明するということで厨子の中に収められています。
でも、見ると失明するというのに、寸法を計った人は大丈夫だったかと・・・
そんなことを考えるから、オコジョは凡人なのですね。

この仏像は如来さまですが、大日如来ではないようですね。
阿弥陀如来のような気がしますが、私には断定できません。

天上がもありますが、歳月を感じます。

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大日堂と隣に「極楽浄土」信仰の十王が祀られているお堂の十王堂があり、十王の石像が祀られています。

この石仏は平安時代中期の天台宗の僧、恵心僧都の作と伝えられていますが、大日如来とともにでんせつでしょうね。

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十王は仏教で人が死んでいく先は、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)です。生前の行いから、一人一人の行く先を、決めるのは閻魔大王と思われています。

実際には裁判官は閻魔(えんま)大王と中心とする十人の王たちが裁くそうです。
裁判の日は初七日から七日おきに四十九日まで、そして百か日、一周忌、三回忌に行うそうです。その残された人々の法要の様子によっても罪が軽減される・・・
仏教は救済の宗教です。

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一段と高い所にいるのが十王の裁判長の閻魔大王・・・・

この十王堂で面白いのは、右の写真の「さばかれる人」です。
ほかでお目にかかったことはありません。
十王のあとにも裁判官がいて十三王という場合もあり、その王なのかもしれませんが「さばかれる人」というのが楽しいですね。

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こちらは閻魔大王の奥さんという説もある奪衣婆(だつえば)がいらっしゃいました。
奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)にやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆です。

ここでは「小塚婆さん」となっていました。
姥神(うばがみ)、葬頭河婆(そうづかば)、優婆尊(うばそん)などといろいろな呼び方がありますが、「小塚婆さん」は初めてです。正塚婆(しょうづかのばば)という言い方がありますのでその変形のようです。

奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、隣に座っている懸衣翁という老爺によって衣領樹という木の枝にかけます。その衣の重さにより生前の罪の軽重がわかります。これは閻魔大王に報告されますので、閻魔様には嘘はつけません。つくと下を抜かれます。

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こちらは庚申・・・・

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そして、たくさんの石碑も並んでいました。
[ 投稿者:オコジョ at 15:54 | 東御市・立科町 | コメント(0) ]

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