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浅間山 (11月26日 小諸市平原 三ツ子塚より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年03月16日
中山道 長久保宿 落穂ひろい 街道を外れて
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長安寺から和田峠方面・・・

一度越えてみたかった峠・・・
車では越えていますが・・・

車の通る峠なんかと、見向きもしなかったのですが今となると若い時に越えておけばよかったと・・・・

後悔なんとかと言いますね。


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長久保宿の落穂ひろい・・・

地図にはこの宿場には2つの卍記号があります。ナチスのハーケンクロイツではありません、ハーケンクロイツを反転した平和の印です。寺ですよね。

まずは竪町から入った観音寺へ向かいます。

寺の少し前に男神と女神がいらっしゃいました。

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観音寺・・・

拝観することはできませんが、この寺の本尊の木造地蔵菩薩立像は「寛永16年(1639)
本山の智積院から贈られた興教大師示眼千体の一つと伝わる」と説明にありました。
興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)は、平安時代後期の真言宗の僧で真言宗を中興の祖です。智積院は真言宗智山派の総本山です。

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興教大師示眼千体の意味が解らないのです。説明では室町中期の仏像とあります。興教大師とは時代が合わないのですが。古い仏像のようです。
観音寺は、今では松尾神社のそばを流れる五十鈴川下流の岸にありますが、元は五十鈴川の本流の依田川の沿いにありましたが、寛永6年(1629)の大洪水により寛永9年(1632)にここに移ったそうです。

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横町から山の方の長安寺・・・

この寺の建は元和4年(1618)依田川辺の宮昌庵(阿弥陀堂)を曹洞宗の道場としたのが始まりとか・・・

寛永4年(1627)に当時の小諸城主松平憲良が開基となり「伝通院・於大の方」(徳川家康の生母)の位牌を安置したそうです。
その後、寛永7年(1630)の洪水で大破した堂宇をここに再建し長安寺としたそうです。

観音寺の大洪水の寛永6年の翌年に、洪水で移ったということですが、昔は洪水が多かったようですね。

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長安寺は曹洞宗の寺で釈迦如来を本尊とする寺だそうです。
明治4年(1871)の火災で、木造本堂などが焼失してしまってこの本堂は明治以降のものの建築です。

松平憲良は美濃大垣藩の第2代藩主から小諸藩主となりました。
松平憲良は徳川家康の母の「お大(於大)の方」の曾孫(ひ孫)にあたり、下総関宿にあったお大の方の菩提所を小諸に移すために寛永元年(1624)に、光岳寺し光岳寺には伝通院の位牌が祀られています。

「於大の方」の位牌がこの寺にもあるとは知りませんでした。

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本堂など、ほとんどの堂宇が焼失しましたが、この経蔵は離れていたのと土蔵のためこの経蔵は難を逃れ今に伝わっています。

この内部には回転式の八角の輪蔵があり大般若経600巻が収められています。輪蔵をまわすと、大般若経600巻を全て読んだことになります。また天井には格天井で狩野派絵師の武重桃堂など多くの絵画で彩られみごとなもので、長和町指定有形文化財に指定されています。

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竪町と横町の角に戻り、善光寺へ・・・
いいえ善光寺方向に向かいます。善光寺無くて温泉なのですが・・・

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こんな長閑な道をたどり、依田川を渡ります。

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ここは古町・・・

名前からしても古そうですね。長和町古町・・・

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西蓮寺・・・

飛鳥時代の642年ごろ善光寺如来が伊那座光寺から長野に7遷座した時に、ここで休息した場所にお堂を立てたのが始まりと伝わる寺です。
応召応永21年(1414)に浄土宗の寺として創建されたと伝わります。
また、寛永6年(1629)の大洪水により流出、正保6年(1645)にここに移ったとか・・・
ここも洪水ですね。

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本堂・・・

真田丸 阿菊は終りましたが、主人公の真田信繁には、声質のほかに何人かの側室をもち、10人を超える子供がいました。
その内、家臣の堀田作兵衛の娘(真田丸では梅となっていますが、実際の名は不明です。)との間に長女「すへ(阿菊)」がいました。
阿菊は、その後、伯父である堀田作兵衛の養子となり、作兵衛が大阪の陣に出陣すると、長窪宿(長久保宿)で本陣と問屋を勤めた石合家四代当主・十蔵道定(じゅうぞう・みちさだ)に預けられています。作兵衛は大阪の陣で討死しますが、阿菊は石合十蔵道定に嫁いでいます。

後に、石合家は詮議を受けますが、もう真田家の人間でないと切り抜けたようです。

本尊の阿弥陀三尊は江戸時代の宝暦11年(1761)に寺が火災となりましたが、本尊だけはなんとか助け出したそうです。

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豊受大神宮・・・

ここも式年遷宮の御柱がありました。

ここの例祭は、通称おたや祭といい、毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。江戸時代末の文政十一年(1828)の古文書に祭りの記録があり、それ以前からの古い祭りです。長野県無形民俗文化財選択されています。

ここの呼び物は山車の奉納で天保六年(1835)に記録で「御た田(旅)や屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」と山車のことが書かれています。
山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、5つ保存会によって奉納されています。

一度見てみたい祭りです。

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こんな道を行き、長門温泉やすらぎの湯に行きましたが・・・

でも定休日・・・

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蓼科山が笑っていました。

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田舎のバスで次のバスまではあと一時間半・・・
じっと待っても仕方がないので。近くを探検します。

温泉近くの長和町有坂の諏訪神社・・・
この鳥居の額は上田裡立川流の名宮大工の竹内八十吉宣吉の彫刻が見事であり。

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本殿も小さいながらも細かい彫刻が見事に掘られています。

この彫刻は長和町出身の大工、翠川文四郎の作、鳥居の額、秋の獅子舞とともに、長和町の文化財だそうです。

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古町の方へ・・・
でも同じ道は戻らないのが私の流儀です。

依田川の辺に出ます。


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来福寺という禅寺・・・
後の岩が見事ですね。

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でも、岩というともっと見事なものが。依田川の上流にあります。

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駒形岩・・・

この地域は立岩と言いますが、この岩から名がつけられています。

この岩の下部には馬の姿あるとして駒形岩と言います。割と判り易いですね。

この岩についていくつか伝説があるそうです。

防人の父親を訪ねて、幼い兄妹が馬に乗でやってきますが、立岩の上で霧に巻かれてこの岩の上から依田川に転落してしまいます。
兄と馬は命を落としますが、不思議なことに、亡くなった白い馬に抱かれるように落ちた妹はけがひとつなく助かり、父の防人と出会えて、故郷にかえったとか・・・
そして依田川のこの岩には、妹を救った駒の形が現れたそうです。

今回の散歩はここまでです。

[ 投稿者:オコジョ at 07:52 | その他 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
やすらぎの湯、なんとお休みでしたか。
でも、付近を探索されたようで、それも楽しみですよね。
おたや祭
これも面白そうですね。
各地方で、色んなお祭りが行われていて、行ってみたいものです。
駒形岩、これはお馬さんの形がはっきり分かります。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-03-17 22:22:46
万見仙千代さんへ
おはようございます。
やすらぎの湯は失敗でした。
でも、この温泉は、入ったことがないので。またこの辺りを散歩していってみたいと思います。
「おたや」、新しく水田を開くために建てられた田小屋を指す「田屋」という説がありますが、伊勢神宮のお札を配る御師が泊まる御旅屋があり「旅屋(たや)」といいました。上田の伊勢神社近くには旅屋があり、「おたやさん」と呼ばれたそうです。古町の豊受大神宮にも「おたやさん」があったようですね。

駒形岩の馬は勢いがありますね。
投稿者: オコジョ at 2017-03-18 08:31:03

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