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浅間山 (11月26日 小諸市平原 三ツ子塚より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年03月13日
中山道 長久保宿
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集落の入口の松尾神社・・・

本当は裏から入ったのですが、紹介は表口からにします。

松尾神社は京都・嵐山の四条通西端にある松尾大社の分社です。
松尾大社は松尾大社の裏山の松雄山(標高223メートル)に残っている磐座での祭祀に行ったといわれる古い神社で賀茂神社とともに平安京の守護する神社とされました。
もともとは松尾神社でしたが、昭和25年(1950)に松尾大社と名前を改めています。

松尾大社の神は大山咋神と中津島姫命です。


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五十鈴川にかかる松尾橋を渡って境内に入ります。
五十鈴川の橋というと、伊勢神宮内宮の人と神とを結ぶ架け橋といわれる宇治橋を思い出します。ここもそういう橋なのでしょうか・・・

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社殿・・・

松尾神社の祭神は松尾大社の神の大山咋命(オオヤマクイノカミ)です。立派な杜に囲まれて落ちついた神社です。

京都の松尾神社は5世紀に秦氏の氏神でした。
秦氏は酒造の技術をも日本に伝えたといわれ、酒造の神としても崇められ、長久保の松尾神社も、昔からこのあたりの酒造に関係した人達にとって大切な神となっています。

呑兵衛のオコジョにとって大いに敬意を払わなければならないようです。

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左は本殿で町の文化財となっています。
万延元年(1860)の再建で諏訪の宮大工の名工・三代立川和四郎富重の建築です。

右は塞神とありますね。塞神は道祖神
塞はふさぐという意味です。要塞(ようさい)にも使われるように。道をふさいで守るという意味もあります。
村や集落の入口で、外から入り込もうする悪霊を防ぐ神、つまり道祖神といっていいですね。この3つの祠は道祖神です。

道祖神というと、夫婦並んだ双体道祖神のことと思われがちなのですが、道祖神にはいろいろな形があります。
文字碑、単体道祖神、自然石、そうしてこうした祠のこともあります。
古い日本の神で形はいろいろのようです。

例大祭0

例大祭8
以前この神社を訪れたときは丁度秋の例大祭でした。

祭りは長久保宿から宿場の中の道行きから神社にはいり、境内で、大山獅子と呼ばれる獅子舞が奉納されます。

この形の獅子舞は信州では「三頭(みかしら)獅子」、「三ツ頭(みつかしら)獅子」と
呼ばれますが、東信州にしか伝承されていません。踊りの形も、古い伝統を残しているそうです。なかなか根ものでした。その時の写真を2枚載せました。

6 (1) 6 (2)左は境内にある松尾神社の左には2つの社が並んでいます。
すぐ左の山神社・・・

山神社は「さんじんじゃ、やまじんじゃ、やまのかみしゃ」などといろいろな読み方があります。名前のように山の神を祀るのですが、木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)などいろいろな神が祀られている場合がありますが、大山祗命(オオヤマツミノミコト)を祀っている場合が多いですね。大山祗は「大いなる山の神」ということで日本の山々を治める神です。地はちがいますが、松尾神社の神の大山咋命と同じ神です。神社にとって地や読みが違います。

ここは同じ神を祀る社が2つ、いや山神社は違う神かもしれませんね。

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その左は皇大神宮・・・

鳥居の前に御柱がありましたので諏訪社か思ったのですが、御柱には「松尾神社皇大神宮式年遷宮御柱」とありました。

伊勢神宮と合わせて平成25年に式年遷宮を行ったようです。

御柱といえば諏訪の諏訪大社ですが、その御柱祭も儀礼には社殿の建て直しが含まれています、実際には御柱で代行という形ですが、御柱祭も式年遷宮だそうです。

伊勢神宮の系列の神社に御柱というのは信州らしいと言えるのかもしれません。

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長久保宿に入ります。笠取峠の延長といった坂道の両脇に建物が並ぶ宿場です。この通りは
堅町と呼ばれ、この通りだけが当初の宿場だったそうです。

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旅籠らしい雰囲気を持った出桁造りの家・・・

長久保宿は幕府の正式の名は長窪村にあったため長窪宿が正式だそうです。しかし、宿場が栄え賑わうようになると、人気が沈むという「窪」の字は敬遠され、久しく保つ「久保」の字を充て通称として長久保が使われました。役所に名前の変更を願い出ますが認められず、長久保となったのは明治になって奈良でした。

江戸時代の案内に「宿あしし」、「わびしき宿」などと記されているそうです。実際には
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が43軒と、下諏訪、追分に次ぐ繁栄ぶりだったという。
しかし、ここには遊女や飯炊き女はなくそういう意味では「宿あしし」、「わびしき宿」だったのかもしれません。笠取峠と和田峠の難所を控えて、旅人は遊ぶような余裕は無い場所のようです。

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釜鳴屋・・・
立派な建物ですね。本卯建が立派です。

長久保宿を含め、現在ではどの宿場でも宿場当時の面影を残す建物は消えていくようです。残っているところは観光地化して江戸時代の雰囲気は薄れつつあります。

釜鳴屋は江戸初期の建物といわれ、現存する町屋としては長野県で最も古いそうです。
釜鳴屋は寛永の頃より昭和初期まで酒造業を営み、江戸時代には宿場の役職を務めた旧家です。長和町指定文化財されていますが、現在も現役で使われていて公開はされていません。

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一福処濱屋(長久保宿歴史資料館)・・・

ここは明治初期の旅籠として建てたのですが、中山道が廃れて開業されませんでした。
しかし、そのために痛みも少なく幕末の宿の形が好く保存されたものとなっています。
現在は宿場の歴史、民俗資料の展示を兼ねた休憩所歴史資料館「一服処 濱屋」となっています。かなに入って見学できるのですが、残念ながら冬季休業中・・・

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本陣 石合家表門

一福処濱屋の向かいが江戸時代を通じて本陣だった石合家となります。
江戸時代初目に、ここに宿駅が設置されたとき、真田氏の配下でここの代官の石合家が本陣努め、石合家と小林家が半月ずつの交代で問屋場を務めました。
本陣時代の建物としては御殿と表門が残っています。御殿は寛永年間(1624-44)の建築で、中山道の本陣で最も古いものです。嘉永三(1850)年の絵図では上段之間、客室、茶之間、台所など22室のほかに、問屋場、代官詰所、高札場が記されています。今でも、上段之間、二之間、三之間、入側等が残っているそうです。
ここは、皇女和宮が関東下向の際の休憩所でもありました。
残念ながら公開されていません。

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屋根を見ると石が載っていますね。

今は、建物のほとんどは瓦葺ですが、宿場の当時は、板葺きの屋根でした。風の強い信州では、風で飛ばされないように、わりと最近まで、板葺きの屋根に石を載せている家が多くありました。そうした名残りが残っています。

地区に伝わる「長久保甚句」には次のように歌われています。
 
長久保よいとこ いつ来て見ても
嬶天下に屋根の石

長久保良いとこ 板屋根造り
変わら(瓦)ないから 来ておくれ(長久保甚句)  


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竪町が終った突き当たりにある浜田屋さん。現役の旅館です。
ここは長久保淑最初の桝形だったようです。

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中山道は左に曲がり横町となります。

長久保宿は笠取峠、西に和田峠を控え、諏訪への大門街道道と上田への北国脇街道往還の分岐点であり、賑わい旅籠が増え、この横町が作られて、L字型の珍しい宿場となったそうです。

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辰野屋
江戸末期の建物といわれます。出桁造りや格子など宿場の形を良く残しています。
ここも立派な家でした。長久保宿の繁栄のあとを伝えているようです。

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ここが桝形、多分大門街道との追分化も知れません。中山道は右に曲がります。

大門街道は武田信玄の信濃攻略の道でした。

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竪町と横町の曲がり角に戻ります。
「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」の道標・・・
善光寺への道は北国脇街道往還と上で書きましたが、大門街道、善光寺道と言い換えてもいいようです。

ここから少し善光寺側に歩いてみます。でも今日はここまで・・・

[ 投稿者:オコジョ at 10:35 | 中山道 | コメント(4) ]

この記事へのコメント
瓦ないから
最後に 洒落のめした甚句ですね。私は テレビでしか うだつを見たことがないです。立派なうだつですね。皇女和宮の中山道行きは 大変な道中でしたでしょうね 前にオコジョさんの文で 道普請で 人足としてでなくてはならず 負担が多かったと読んだ記憶があります。
投稿者: 小紋 at 2017-03-13 21:34:53
こんばんは。
長久保宿
ここも行ったことがあるのですが、取り残されたような、昔の雰囲気が色濃く残った宿場ですね。
例によってすずが一緒だったので、ゆっくり見られなかったんですよ。
中に入って見たい建物もあったのですが。
立派な建物が、普通に住まわれているのが良いですよね。足腰が大丈夫なうちに、また行きたいものです。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-03-14 21:57:45
小紋さんへ
昔は瓦のある家なんて少なかったようです。この先の和田宿の本陣も残っていますが、河原のない板と石の屋根です。
うだつは、この辺りには多いですね小諸の町にもあります。地方性があるのかもしれませんね。
皇女和宮降嫁では碓氷峠も急なところを避けた新道を作っています。幕府の存続をかけての出来事、大変だったようですね。
投稿者: オコジョ at 2017-03-15 09:53:05
万見仙千代さんへ
こんにちは
鉄道の発達により、東海道線が東西をつなぐメインとなり・・・
中山道の佐久から諏訪は裏道となってしまいました。浅間三宿が信越線ニヨル観光開発で消滅した野とは対照的ですね。もっとも浅間三宿も追分、沓掛は昔のにぎやかさはなくなっています。時代の求めるものと好みで変わっていくようです。
ここも住んでおられないお宅が増えています。町屋で間口が狭く、急な坂で車がおけないという車社会の中では住みにくいようで、離れる人が多いようです。
いつか、また行けるといいですね。
投稿者: オコジョ at 2017-03-15 10:03:16

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