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烏帽子岳・夏山 (7月9日 湯ノ丸山より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年03月10日
中山道の 小さな宿場 芦田宿
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とりあえず中山道芦田宿の正明寺からの浅間山・・・


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大屋駅当たりの千曲川・・・
海野宿の続きではなく、別の日・・・
大屋駅から立科町をめざします。

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中山道芦田宿・・・

芦田は立科町の中心で、南の蓼科山の山麓にあります。立科町は南北に細長く、蓼科山も蓼科町です。白樺湖、女神湖や蓼科牧場などの観光地もこの町にあります。

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中山道は往時のまま残り、所々に宿場の建物が残っています。

ここは芦田宿の本陣と問屋を兼ねた土屋家・・・
立派な門ですね。歴史を感じさせる長屋門・・・
中には行ってみます。

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説明がありますね

立科町の中心の芦田は、慶長2年(1597)に中山道の宿場の芦田宿が誕生します。中山道は江戸時代の五街道の一つです。
中山道六十九次のうち江戸から数えて26番目の宿場でした。中山道の中で北佐久では一番早く、そして、信濃では古い宿場町だそうです。

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この建物は本陣客殿・・・

本陣の中で宿場だった当時の建物で残っている建物は寛政十二年(1800)に再建されたこの客殿のみです。往時は高札場・問屋場・酒造蔵などがあり、明治維新までは、公家や諸大名の宿泊・休憩などに使われ、諸大名の宿札がたくさん残されています。酒造蔵ということは造り酒屋も行っていたようですね。
客殿は間口5間奥行11間の切妻造りの建物です。当時の芦田宿の様子を偲ばせて、落ち着いた風情があります。昭和六十三年(1988)に長野県宝に指定されています。

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中は公開されていませんが、上段の間はイチイの木を使った京風の部屋で、ほかに広間、小姓部屋、湯殿、雪隠などの本陣の原形がほぼ完全に残っています。入口には宿泊を伝える関札が当時の参勤交代の大名の名が書かれています。

芦田宿にとって最も大規模な通行は、皇女「和宮」の東下りだったそうです。和宮は孝明天皇の皇妹で、文久元年(1861)公武合体政策の犠牲となり文久二年14代将軍家茂に嫁ぐ途中この芦田宿を通り、この本陣で昼食を取っています。

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幕府の道中奉行所による宿場の記録の「宿村大概帳」には、江戸後期の芦田宿が長さは6町22間(約700m)で本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠6軒です。宿場の人口は326人だったそうです。

その脇本陣の跡・・・
今はこの標柱のみ・・・

時代とともにいろいろなものが失われていくのは仕方がないことですが、やはり標柱だけでは寂しいですね。

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金丸土屋旅館・・・

ここは江戸時代の文化元年(1804)頃より旅籠だった老舗旅館です。
この建物は江戸時代後期の建築だそうですが、二階が表に少し出ている出張り造りが江戸時代の旅籠の形を良く示しています。

また切妻の二階の両側に防火の袖壁があります。卯建(うだつ)と同じ役割ですが。屋根と一体化していますので、卯建と区別しています。

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二階の屋根の上に煙り出しの小屋根があることから、二階で養蚕をしたことがあるようです。屋根は明治に改造しているようです。明治以降の旅館への対応で当然改造があるのでしょうが、こうした古い旅館が営業しているのは驚きです。

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金丸土屋旅館の最初の写真は江戸側から見ていますが、二階の飾り看板の文字は「土屋」ですが、この左の写真は京都側ですが、「津ちや」となっています。
ここは本陣の土屋家の分家筋だそうです。

入り口にあった護符・・・

「日本太一(にほんたいいつ)」の文字の周りに、よく見るとカラスがいっぱいいますね。そして丸いのは宝珠です。烏午王札(からすごおうふ だ)というそうです。「おカラスさん」ということもあるようです。

熊野牛王宝印(くまのごおうほういん)ともいうようですね。牛王宝印または、牛王神符は、神社や寺院の御札、厄除けの護符のことです。
熊野古道の熊野三山では1枚の紙に5つの文字をカラス文字と宝珠で図案化して熊野御師や熊野比丘尼により各地に頒布されました。
文字は熊野の本宮と新宮は「熊野山宝印」、那智は「那智瀧宝印」だそうです。
この烏午王札を祀っていますので「那智瀧宝印」だそうですが、私には文字が浮かんできません。
大脱線ですね。

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酢屋茂・・・
こちらも趣きのある建物ですね。
金丸土屋旅館と道を挟んだ明治25年 (1892)創業の老舗の醸造元、酢屋茂(すやも)です。
良質な国産大豆・国産小麦を使用し、木桶仕込みを行う味噌と醤油の醸造を行い、天然醸造という伝統的な製法で、「立科みそ」という味噌、醤油をつくっています。店では小売もしています。

現在の味噌は発酵を早くするために加温して、短期間に生産するのですが、天然醸造は、その土地ならではの自然な気候・温度のままに長い間、ゆっくりと発酵・熟成させる醸造法だそうです。そうすると、まろやかでコクのある深い旨みが生まれるそうです。

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その先は宿場の雰囲気は薄れます。

芦田宿は難所の一つ、笠取峠を控えているのに旅籠は6軒と少ないですね。笠取峠の先に笠取峠より険しい和田峠があり長久保宿に泊まる旅人が多く、反対側からは千曲川の川越に近い望月や八幡、塩名田の各宿まで足を延ばしてしまったようです。この辺りはそうした難所続きで宿場の間が短かったのも原因のようです。
また、芦田宿の荷物1駄の駄賃は望月方面68文、長久保方面87文と近隣の宿場の5割り増しから2倍したといわれています。道が悪いことにも寄りますが、公定価であった駄賃や人足の賃銭の問題もあって寂れた宿場だったようです。

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この辺りに牛宿があったというのですが。何も残っていないようです。

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宿場の外れを、笠取峠に向かっていくと、左に見事な枝垂桜の木のある。正明寺という寺があります。
一度花の時期に来たことがありますが。見事でした。

参道わきにモグラ塚・・・
モグラもトンネルを掘りだしたようです。
これも春の証しでしょうか・・・

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元和八年(1622)の開山の真言宗智山派の寺だそうです。
特に、いわれのある寺ではないようですが、なかなか雰囲気のいいお寺でした。

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正明寺の「紫雲の松」・・・

この松も見事です。

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これがら越えていく予定の笠取峠方面・・・

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正明寺のすぐ先が桝形跡・・・

ここも車の道・・・
道は付け替えられているようです。

[ 投稿者:オコジョ at 07:56 | 中山道 | コメント(0) ]

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