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浅間山 (5月7日 信濃追分駅より)
P2120860 ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2017年03月08日
北国街道 海野宿2  海野宿
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海野宿は東と西に桝形が置かれ、延長約6町(約650m)ありました。

北国街道は、中仙道と北陸街道を結ぶ、中仙道、の追分宿から善光寺を通り、越後の直江津に至る延長約35里(140㎞)の道です。
海野宿は北国街道の宿駅で、当初は、田中宿と上田宿との間宿であり、本陣や旅籠はなく問屋のみで、田中宿と半月交代で伝馬の仕事を行なっていました。
寛保2年(1625)の大洪水で、田中宿が壊滅状態になり、本陣1軒・脇本陣2軒などが設けられて本格的な宿場として発展しました。


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海野宿は良く来ますが、シーズンオフの滅多に人に会わない時期が多くて・・・
今回もそのつもりだったのですが・・・
予想に反して賑やかでした。
もしかして「真田丸」・・・

テレビの力は凄いですね。

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このすぐ後から、海野宿ひな祭り蛾行われこの時期は観光シーズンではなく、開いている店も少ないのですが、この店は営業していました。

中では、おひな様が・・・

この一週間ほど後から海野宿ひな祭りが行われました。3月20日まで行われています。
宿場の格子越しにおひな様が見られ、夜もライトアップされるそうです。

この家も昔の雰囲気を残しているようです。

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海野宿資料館・・・

海野宿資料館は江戸時代の寛政年間(1790年頃)の旅籠屋の建物です。明治以降の堅牢な蚕室造りに改造して、その両方を兼ね持った海野宿特有な伝統的な形式を残している建物として海野宿の風土・歴史・資料が展示されています。

江戸時代の旅籠屋は、一階より二階の方が道に張り出していました。ここはそうした出桁(だしでげた)造りの様式を良く残しています。

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道の中を流れる用水があると、心和みますね。
その両側に並ぶ格子戸の美しい家並みは、昔を偲ばせる静かな落ち着きで心和みます。

海野宿は大名行列の参勤交代や善光寺の参詣客、佐渡の金運搬で賑わいました。
海野宿は、昭和61年「日本の道百選」62年「重要伝統的建造物群保存地区」に
指定されています。
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卯建(うだつ)のある家が並んでいます。

卯建(うだつ)は両側の壁を大屋根より高くし、小屋根を乗せたもので、当初は防火や雨除けで「本卯建」と言います。しかし明治なると、装飾を施し、権威や格式の象徴となり、白壁で。目立つように大屋根より低く、防火という役目を捨てて、装飾性が強い「袖卯建」なっています。そして卯建は富裕な家でないと作れないと「卯建があがらぬ」という言葉も生れます。この

写真の左の家が、江戸時代の「本卯建」、右の白壁の卯建が「袖卯建」です。

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格子があると宿場らしいですね。


右の写真の江戸時代の格子は長短2本ずつ交互に組み込まれた形は割と少なく、この宿場の名を取って「海野格子」と呼ばれています。
ただこの格子は海野宿専用でなく、数は少ないですがほか見られるようです。

江戸時代は一階の格子はなく障子でした。明治になって物騒になり、格子をつけました。一階の格子戸のほとんどは明治以降のものです。

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本陣の門・・・

その向こう隣りは脇本陣・・・
この辺りが宿場の中心でした。

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ここも営業中・・・

ここは昔には観光用の店などありませんでした。
ただ古い家が並んでいるそんなところでした。

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木曽の奈良井宿や妻籠宿、馬篭宿などは、土産物など観光相手の店ばかり・・・
だから観光地としてにぎわうのですが・・・

ここはまた、人の住む町の雰囲気があります。
いつまでもと願うのですが、住む人の生活もあり、大変なことなのでしょうね。

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屋根の上の小さな屋根は「小屋根」「気抜(きぬ)き」・・・

当時の宿場の建物は板葺き石置き屋根、または茅葺屋根でした。
瓦屋根になったのは明治になってからです。当然、小屋根も明治以降につけたものです。
に雪がにあっていました。

明治21年(1888)に国鉄信越線が開通し、海野宿は大屋駅と田中駅の中間となり、国道18号線も宿の北の段丘の上になり、旅人は途絶えました。そこで旅籠は建物を大きく変えずに、2階の客を泊めた広い部屋を使って養蚕・蚕種業を始めます。2階部分は人が住むのではなく、蚕棚が並び、一階にも桑を保存したりするスペースもつくりました蚕飼育は気温の管理が大切です。温度が下がると火を焚いて暖房しました。その煙を抜くために煙出しが小屋根です。下から紐で引張り開閉します。人は暖房を我慢して、でも蚕には必要でした。蚕は「お子さま」と大切にされていました。
屋根の上の小屋根は、養蚕の町へ転換した海野宿の歴史を語っています。

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ここにある大石に「海野氏菩提寺興善寺 是より北へ1粁」・・・
興善寺は海野宿あたりを平安・鎌倉・戦国時代と600余年治めた海野氏の菩提寺です。

昨年は妻と興善寺を参拝して4キロほどの湯楽里館という日帰り温泉に行きました。この日も湯楽里館に行くのですが、山の方へ登っていくのは嫌だと、距離も半分で千曲川沿いの大屋駅まであるいて、そこからタクシーで行くことになっています。

この辺りは海野宿の善光寺側の入口あたり・・・
右の写真がその入口の桝形です。直角に曲がっていたはずですが、車が通れるようにしてしまいました。

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西海野という海野宿の隣の地区です。宿場ではありませんが、古い建物も残り街道筋の雰囲気があり落ち着いた街並みです。

北国街道は慶長元年(1596)に開通し、大阪冬の陣のあった慶長19年(1614)田中宿が誕生します。
元和 2年(1616)、 大阪夏の陣の翌年に海野新田が成立しています。海野新田が現在の西海野のことだそうです。こののち寛永 2年(1625)に隣の本海野に海野宿が成立して、成立して田中宿と半月交代で伝馬の仕事を行いますが、正式の宿場でなく宿泊はできませんでした。

しかし寛永 8年(1631) 千曲川の洪水で海野新田はすべて流失、その翌年、海野新田宿場が47軒で成立しています。これがいまの西海野の始まりです。

ここは海野宿の補助として北国街道の荷駄の馬の管理や荷物の運送する人たちが住んだところのようです。

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住吉神社があります。大阪の住吉大社と同じように、底筒男(ソコツツノオ)命、中筒男(ナカツツノオ)命、表筒男(ウワツツノオ)命の住吉三神を祀るに神社です。この神たちはいずれも海の神なのですが、海から最も、遠いこの地方に何故、このような神社があるのか、
海野だから???

日本神話には伊邪那美(いざなみ)神が、亡くなり、夫の伊邪那岐(いざなぎ)神は黄泉の国まで追い掛けますが、黄泉の国の穢れを受けて海に入って禊を行います。この時に生まれたのが住吉三神です。

こうしたことから御祓いを司る神、つまり人の罪や穢れ、土地や建物を清めるお祓いを司る神様だそうです。

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鳥居の左右に両脇に殿石と姫石が祀られていました。

原始信仰の、男女の神に多産、豊穣五穀豊穣をねがった人々の素朴な思いを感じます。縄文時代からの信仰、あちこちで見られます。

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大屋駅あたりに来ました。ちょっと横道に入ります。

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千曲川岸に仁王堂があります。

ここの仁王様は何度も紹介しています。

お堂の脇の「大屋仁王尊由来記」という説明文では、徳川家光の時代の「田畑検地帳」をはじめ、出石藩より上田藩主に移封した松平忠周が藩主の時代の「大屋村差出帳」には観音堂跡、阿弥陀堂跡などと「仁王堂」と記されているそうです。その前にはお寺があり、仏を守っていたようです。

仁王は「阿・吽」で一対です、しかしお堂の中は仁王様が一人・・・
阿吽(あうん)は密教で「阿」は万物の根源、「吽」は究極のことで宇宙の始まりと終わりを表す呪文(真言)なのだそうです。
阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音で、これがぴったりとそろうのが「阿吽の呼吸」です。目を吊り上げて、口をぎゅっと結んで強そうですが、なんとなく優しそうでもあります。
寛保二年(1742)八月一日の「戌の満水」の大洪水は、千曲川流域全域に大被害をもたらし、2800人の死者を出しましたが、このとき相方阿形の青い仁王尊は流失し手行方不明になってしまいました。青い仁王様はこの川の中に眠っているようです。何かの機会に見つかるといいですね。

妻は何度か、この街道を歩いているのですが、少し道奥なので、素通りで初対面だったそうです。

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湯楽里館からの佐久の荒船山・・・

食事とお湯を手楽しんで帰りました。

[ 投稿者:オコジョ at 07:36 | 北国街道 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
海野宿
あの雰囲気に呑まれて、道の真ん中で写真を撮っていたら、車が走って来て焦ったことがあります。
あの道は、歩行者専用じゃないんですものね。

≪木曽の奈良井宿や妻籠宿、馬篭宿などは、土産物など観光相手の店ばかり≫
私が学生時代から、妻籠は大人気でした。
奈良井はまだそれほどでも無かったけど、妻籠は凄かったですね。
あまりに作られ過ぎていて、ちょっと・・・って感じでしたが、住んでいる方にとっては、生活の糧ですもんね。
海野宿には、あれほどにはなって欲しくないんですけどね。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-03-08 20:29:33
万見仙千代さんへ
こんばんは
今はバイパスがあるので車は少なくなりましたが、以前は国道の混む時の逃げ道でしたので怖かったですね。
道の方が歩きやすいので、観光客は道の真ん中を歩く人が多いですね。

奈良井は最近ですね。行くたびに賑やかになって観光地化が進んでいるようです。
妻籠や奈良井辺りは産業も、農業も難しい所で。すべて観光関係という感じになってしまうのでしょうね。
海野宿は、あんな風にはならないと思いますが、町としては妻籠や奈良井のようにしたいのでしょうね。
投稿者: オコジョ at 2017-03-08 21:32:00

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