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浅間山 (9月30日  軽井沢 矢ヶ崎公園より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年03月04日
新町散歩 新町(小諸)歴史的遺産散策ウォーキング5 孤高の俳句の巨匠 臼田亜浪と手代塚城跡
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今日の午後の浅間山を一枚・・・
噴煙を高く上げていました。

 底つ火に 我が魂通ふ 霧の中    臼田亜浪

小諸市新町出身の「浅間山の印象」と題する連作の中の句です。
単純に解釈するなら、霧の中浅間山に登って火口の中のマグマを見て、自分の魂はここにあり・・・
そんな単純なものではないでしょうね。ただ、故郷の山、浅間山に寄せる思いが伝わるようです。・

わたしの弟は、小諸生まれですが。今は神奈川県に住んでいます。

10歳の時に信州を離れて東京に・・・
信州の記憶はそう多いと言えないのですが、浅間山は故郷の山であり、時々見たくなり、見ると元気になるといっています。

故郷の山はそういう力を持つようです。


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新町区・歴史的遺産散策ウォーキングにある「臼田亜浪の生誕の地」です。

臼田亜浪は明治12年に小諸にここでうまれています。

臼田亜浪は俳句の心は「まこと」であり、主観をまじえず物事を見つめての作句と、一つの句の中に一つのことを詠みこむ一句一章を提唱しました。
これは大須賀乙字という人の、「俳句に一ヶ所の大休止を置く。」という二句一章に対抗したものです。大休止のことを「切れ」というのですが、違ったことを、ひとつ句に読み込むといえばいいでしょうか。

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小諸市新町は臼田亜浪の生れた町で、「臼田亜浪生誕地碑」があります。

山本健吉は、芭蕉の俳句の技は「花鳥風月」を言葉の働きに重きを置く、言葉の遊びとしました。これをおこなったのは虚子で。これが俳句であると・・・
芭蕉の俳句は、表面的には「花鳥風月」ですが、虚子のように、ソッポをむいて遊んでしまうのではなく、もっと真剣に、生き生きと「花鳥風生き生きと、描かれて、虚子のような虚弱さはありません。そうした精神を受けつくべきというのが臼田亜浪の考えといっていいようです。

亜浪の説く「大きな、深い人生観が伴った自然感、」、「風雅の誠」という、俳句の別な可能性、山本は、理解せず、亜浪を鑑賞の対象外としました。
人間や、文化の多様性を理解しない山本の器量の狭さがみえます。大体、評論家なんていうのは、本来、自分ではできないくせに勝手ことをいう胡散臭い商売ですが・・・
中には素敵な評論家もいますが。ほんのひと握りなのかもしれません。

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鹿島古墳
鹿島古墳は現在の位置より550メートル東の昔の鹿島神社にありました。その後駅近くに移されましたが、再び駅周辺の整備で今の鹿島神社に移されました。
横穴式円墳の蓋石と側壁の一部です。古墳時代後期の6〜7世紀のものですが、この時代の豪族の墓だと思われます。

一寸俳句の話をしたいと思います。

「俳句」は、明治時代に正岡子規が「5・7・5」の18文字の形の短い詩をして始めたというと、嘘をつけと言われそうですね。

江戸時代から芭蕉などあったではないかと・・・
芭蕉は俳人ではなく俳諧師です。俳諧(連句)を作る人です。俳諧も連歌から変化したものです。連歌は、五・七・五(長句)に、次の人が七・七(短句)を付け、又、次の人が五・七 ・五を付け加えて、百句になるまで続けます。この一番最初の五・七・五を「発句」と言います。ただ連歌は、和歌の伝統により、言葉は雅なもの使える言葉に制限があり、使いかたや、形にいろいろと制約があり、かなり高度な技術が必要でした。

芭蕉は庶民的なものとして、高尚な言葉や感情や詩情の実という性格から解き放ち諧謔や、笑いなど庶民に親しみやすい感情、詩情などを、日常の言葉を使って作る「俳諧の連歌」つくりました。これが「俳諧」です。つまり一人で行うものではなかったのです。

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鹿島神社・・・
鹿島古墳と鹿島神社も臼田亜浪とは関係はないのですが、俳句野原氏のための間奏曲です。間奏曲としては早すぎますが・・・

芭蕉の「発句」は、それだけでも独立させても芸術性が高く独り歩きして残っていきます。奥の細道の句は発句たちなのです。発句だけの句は「地発句」というのですが・・・
本当はこの句のあとに、句会をやり、たくさんの人が歌をつづけたのですが、芭蕉は『奥の細道』などの著作には自分の発句だけを載せたという訳です。

正岡子規は「地発句」を独立した個人的な文芸として俳句をつくりだしたのです。
正岡子規は五・七・五と決めただけで、季題が必要とは言っていません。

5
鹿島神社社殿・・・

しかし、弟子の高濱虚子は俳句には「季語」が必要としたのです。
これは兄弟子の河東碧梧桐が、五・七・五も、季題もいらない自由俳句を主張してこれに対抗したためのようです。

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鹿島神社には臼田亜浪の句碑があります。

臼田亜浪は俳句の心は「まこと」で、主観をまじえず物事を見つめ、一つの句の中に一つのことを詠みこむ一句一章を提唱しました。これは明治末に大須賀乙字が唱えたもので、近代俳句の基本と言われる「俳句に一ヶ所の大休止を置く。」という二句一章に反するものです。大休止のことを「切れ字」というのですが、違ったことを、ひとつ句に読み込むといえばいいでしょうか。一句一章は、ひとつのことを深く、掘り下げわかりやすい反面、単調になりやすいともいえます。

二句一章の代表は高濱虚子です。花鳥風月と遊び心を大切に決して深刻にならない俳句ですね。亜浪の句、常に真実を見詰める句で、芭蕉の句の深みに合い通じるように思うのですが・・・

俳句を規則を楽しむ遊びの中でつくるか、そういうものを除外して自分の思いをこめるのか・・・
これは最後は個人の問題なのですが、後者の俳句は、感動的であっても、俳句としての評価は低いようです。切れていない、俳句ではないと・・・

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鹿島神社には臼田亜浪の句碑が・・・。

 郭公や 何処までゆかば 人に逢はむ  

この句は「郭公や」で切れています。

亜浪が全て、一句一章で書いたかというと、二句一章の句もあります。どちらがいいというより、その時々なのでしょうが、基本的な考え方はどちらを重視するかで、代わってくるようです。この議論は江戸時代から「一物仕立て」「取合せ」と言葉違いますが、議論されていました。芭蕉は、どちらを取るかは作者の持ち味として、その人に適した作り方を教えたそうです。
この句は賑やかな郭公の声の中に山道を一人歩む人の寂しさがを読んでいます。郭公の声が激しければ激しいほど、寂しさは増してきます。人に会えたらいいのになと・・・

道を人生に変えてみると長い人生の孤独を感じます。亜浪の歩んだ人生はこんな道だったのかも・・・

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新町散歩 新町(小諸)歴史的遺産散策ウォーキングは3つのコースが設定されていますが、その歌2つのコースのスタート点の青木神社・・・

第一回にも登場していますが・・・

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青木神社 「小諸石楠句碑」一師二弟の碑・・・

  浅間ゆ 富士へ春暁の 流れ雲  亜浪

  千曲野や かへりみすれば 遠閑古  好子

  夢深き 花を鎮めて お城の燈   平城 


「石楠(しゃくなげ)」、臼田亜浪が創刊主宰した俳句雑誌の名前です。好子は画家伊東深水夫人、平城は小諸の商人、亜浪の弟子でした。

朝焼けの輝く中で、浅間山から、富士山へ流れる雲・・・
この句は、スケールが大きく見事な句です。

石楠花といえば亜浪にはこんな雲ありました。

  石楠花に 手を触れしめず 霧通ふ

情景が目に浮かびそうな・・・

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情景はいきなり変わります。ここは手城塚城跡・・・
中世の山城跡ですね。

二回目の両神の祠と小諸城天守を直線で結んだ線上にあります。両神の祠から直線で130メートル、小諸城天守から700メートル・・・
もっとも、直線の道はありませんから道の取り方にも寄りますが、実際には2倍から6倍歩かないといけませんが・・・

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「築城年代等定かではないが、中世の山城のひとつである。この城は、南に栃木川の深い渓流、北・西には花川が谷を刻んで流下している要害の地で、自然の山城である。手城塚村、大梁村などの防衛拠点として築かれたが、後、「小諸砂石鈔」によれば「長尾安芸守佑景」が住居したとあるが、長尾氏は大井氏の眷属(けんぞく)であろう。」 

この説明板によると長尾安芸守がこの城を守ったとなっています。長尾安芸守は佐久の岩村田の大井城主の大井持光(おおい もちみつ)の家臣です。
大井持光は南北朝時代、室町時代の武将で、その勢力は群馬県の安中市で高崎市に隣接する板鼻まで勢力範囲だったそうです。戦国時代に大井氏の配下の依田安満がこの城を守った記録もあり古くからの城だったようです。

つまり小諸城よりも先輩ですね。

15
本丸への道は雪道でした。

いつでも来られるからやめようか・・・
性格的に引きかえすことが嫌いな性格のようです。こうした時はいつでも進んでしまうような・・・
困った性格です。

城に来ているのですが、今回は臼田亜浪が私の中では主役なのでそちらの話・・・

死ぬものは 死にゆく躑躅 燃えてをり 

この句は知人の死に際した句でしょう。死ぬものは死ぬ、仕方がないのだと
言い聞かせながら、炎の色の躑躅の中に生を見い出し、使者へ想いはせる、
人の悲しみがみえます。
昭和21年八月に四十五年連添ったすて夫人は 「にこにこと 笑うて暑き この世去る」の辞世を残して、逝きます。

その寂しさを亜浪は次のように詠みます。

妻死んで 虫の音しげく なりし夜ぞ

虚子では絶対作れない句ですね。「妻死んで」など、俳句では禁句だと言いそうです。亜浪にとっては良くは、心の叫びだったのかもしれません。

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今は、城跡にはささやかな稲荷神社が・・・
ここが城の本郭、本丸です。

臼田亜浪と、山城と稲荷神社・・・
関係のないものを並べてどうする。

関係ないだろうと、実はあるのです。

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古びた神社ですね。

ここは、亜浪が氏子の手城塚稲荷の境内で手代塚城の城跡です。
亜浪の遊び場所であったかもしれません。

亜浪は芭蕉を愛し、「寂しさ」こそ、人間本然の心で、そこに「まこと」の俳句心があるとして、生涯を貫いています。

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手城塚稲荷には、達筆だった亜浪の若い日の筆跡が寄付名簿として残っています。
古びていますが。達筆ですね。

悪筆の私はため息が出そうです。

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御岳信仰の石碑もありました。

小諸に雨浪の句碑はほかにもありますがチェリーパークラインにある句を2つ・・・

  ふるさとは 山路かがかりに 秋の暮  

  あけぼのや 露とくとくと 山桜  
 

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稲荷神社から本郭・・・
かなり広いですね。

ここは、甲斐の武田が小諸城を手に入れると小諸城の支城だったようです。

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本郭から、浅間山を端に入れて・・・

意識して浅間山をいれましたが、本当は城の構造を説明するためです。
下に畑が二の郭、その向こうの墓地が三の郭・・・

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この撮影直後に、小諸新聞というコミニティ紙に、この稲荷神社が再建されるというニュースが載っていました。見慣れた社が変わってしまうのは寂しいですが、これも時代の流れのようです。

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今日、妻との散歩で近くまで行きました。
もう神社の社はなくなっていました。

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新町ではないのですが、隣の市町の養蓮寺「石塚重平の碑」は亜浪の筆になりますが、その裏面に亜浪の句です。私の好きな句なので最後に紹介しておきます。

  浅間嶺の 月涼しけれ 影を追ふ  

亜浪は芭蕉を愛し、「寂しさ」こそ、人間本然の心で、そこに「まこと」の
俳句心があるとして、生涯を貫いたようです。


追記
再建した手城塚稲荷の様子はこちら
   ⇓
手城塚稲荷 その後 新町散歩 捕逸

[ 投稿者:オコジョ at 09:08 | 小諸 文学 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
今晩は
浅間山は古里の山。懐かしく嬉しく山を思うと家族までが出てきます。
臼田亜浪。素敵な俳人でしたね。
俳句は読むのは好きですが、難しいですね。
確かに二物衝撃のほうが作りやすいでしょうか。なにを詠みたいかで違ってきますね。いずれも。
無理なく自然に詠めたらいいですね。

投稿者: やぶ椿 at 2017-03-04 19:37:27
やぶ椿さんへ
こんばんは
今日の浅間山、浅間山らしいですね。

17文字で表現することの難しさ・・・
一句一章は、単なる物事の説明になりやすいですね。

極められた、制約を離れることは、新鮮でありますが、抵抗もありますね。
自由律俳句は、もっと難しいでしょうね。
山頭火の「まっすぐな道でさみしい」などは俳句なのかと・・・
同じ山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」は良いですが・・・
あくまで。人にどう響くかということなのでしょうね。その受け手は多彩ですが・・・
投稿者: オコジョ at 2017-03-04 22:14:30

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