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浅間山 (11月26日 小諸市平原 三ツ子塚より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2017年02月28日
上州小幡 歴史が息づく城下町(群馬県甘楽町)1 崇福寺 信長の子孫 織田氏七代の眠る寺
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御代田町草越地区からの浅間山・・・

しなの鉄道の車窓から・・・
今回は上州小幡の話ですが。序曲は上州へ向かう場面です。

またまた、碓氷峠の向こうで恐縮です。何しろこちらは雪があったり氷点下の日々・・・
寒くて。春らしさはありません。
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もう一枚、草越からの浅間山・・・

御代田町の浅間八景の「草越」あたりです。

ここはし何時の良い高原野菜の産地・・・
季節にはレタスや、サニーレタスの畑の上の素敵な浅間山なのですが、今は雪の畑に人影はありません。

信州の李景色はこのくらいにします・・・

このあと新幹線で高崎へ・・・

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ここは群馬県甘楽郡甘楽町小幡・・・

雪は無く、下草は青く、花の色は明るい春色でした。

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立春といっても春浅く・・・・

房総に泊りに行こうかと妻とは話はしたのですが、積極的な話にならずに・・・
でも、私は今年になって2度ほど、群馬にひとりでいっています。少し後ろめたさもあって、今回は二人です。高崎で上信電鉄に乗換・・・
上州福島から、タクシーでここまで来ました。

といっても、マイナー-場所を好むオコジョ・・・
タクシーに乗って行き先を告げても、運転手さんは首を傾げます。

降りたのはここ・・・
「織田七代の墓」という看板が目に入ったからなのですが・・・
本当にここでいいのかいなという感じの場所でした。

道を入っていくと、向こうに寺が・・・
こちらは裏道ですね。

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ここが「織田七代の墓」・・・

小幡は織田信長の次男の織田信雄(おだ のぶかつ)が治めたところとは知ってはいたのですが、詳しい場所は知りませんでした。
今年になって高崎の丘歩きを2回行い、上信電鉄に乗って、駅で「上信電鉄見どころガイド」に「おすすめハイキングコース」として6つのコースがありました。前回、歩いた「金井沢碑から山ノ上碑」もありました。

そして『上州福島駅「城下町小幡」』とありました。
「そこだけじかんがとまったかのような・・・」とありました。
いつかと思いました。渡利は旅先で、良くパンフレットを集めます。ほとんどは集めただけで終わるのですが、時には、このように新たな旅の始まりとなることもあります。

そして、暖かい所に行きたいという妻のリクエストに、ここを思いだしました。
私の旅はあまり計画性がないようです。

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一番奥の墓2つ・・・

「織田七代の墓」ですから7つの墓が並んでいます。いずれも五輪塔なのですが・・・
奥の墓は痛みが激しいというか、自然石に近い感じで古いものかなと・・・

左は七代信富(のぶよし)、右は六代信右(のぶすけ)だそうです。
それを知った時には、だんだん財政が厳しくなって、粗雑になったのかと・・・

この墓のある寺は臨済宗妙心寺派崇福寺(そうふくじ)ですが、この寺は宝暦8年(1758)、明治4年(1871)に火災があり5代〜7代藩主の墓はそのため破戒して修復されていないということです。

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一番右が初代、織田信雄以下、順番に7つの墓が信良(のぶよし)、信昌(のぶまさ)、信久(のぶひさ)、信就(のぶなり)、信右、信富と歴代の藩主の墓が並んでいます。

織田信長は良く知られていますが、その子孫については、豊臣秀吉や徳川家康の陰に隠れてほとんど知られていないようです。

天正10年(1582)世にいう本能寺の変で明智光秀が織田信長に討たれます。この時長男の織田信忠(のぶただ)も戦死します。
次男の信雄は伊勢北畠家の第10代当主として北畠信意(のぶおき)を名乗っていますが、近江国甲賀郡土山まで進軍しますが、戦わずに撤退します。羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を討ちます。
その後の清洲会議で信意は織田家の後継者になろうとしますが、秀吉は信忠遺児の三法師(織田秀信)、柴田勝家は弟・織田信孝を推し、信意は候補にもなれませんでした。その後、織田の姓に戻ります。
その後、秀吉と織田信孝・柴田勝家らが争い、これを破り天下を取ります。
織田信孝は切腹、その一族は秀吉により、処刑され子孫はたえます。

その後もいろいろとあるのですが、長くなりますので、簡単に書くと。関ヶ原は傍観的態度を取り、大坂の陣では徳川につき、徳川の大名となります。
そして元和元年(1615)に、幕府から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡を合わせて5万石の大名となりました。

主君は次のようになっています。

織田信長→織田秀信→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光

三法師の織田秀信は関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易となり、その後若くして亡くなっています。そうした意味では織田信雄なんとか時代を乗り切ったということでしょうか・・・

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こちらが初代 織田信雄の墓・・・

初代はやはり立派ですね。

ただ織田信雄は、小幡に風雅な池泉回遊式の庭園楽山園を造り、養蚕など産業育成にも力を注いだと言われますが、後に四男信良に上野小幡藩2万石を与え、自身は隠居領として宇陀松山藩2万8000石の藩主となりますが、自らは京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の生活だったそうです。寛永5年(1628年)10月には、将軍・徳川家光より、江戸城での茶会に招待されますが、その2年後に、京都でなくなっています。
このためここだけでなく、京都の大徳寺にも墓があります。

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織田家の墓所にあった蝋梅の花・・・

ただ戦国武将としての評価はひくく、本能寺の辺後に父信長が建てた安土城を焼討ちしています。

この時代に、日本に滞在していたポルトガルのカトリック司祭、宣教師ルイス・フロイス織田信長や豊臣秀吉らと会見していますが、この時代貴重な資料の『日本史』の著書があります。この中で「明智の軍勢が津の国において惨敗を喫した事が安土に報ぜられると、彼が同所に置いていた武将は忽ち落胆し、安土城に放火する事もなく急遽坂本へ退却した。然しデウスは信長があれ程自慢にしていた建物の思い出を残さぬ為、敵が(存続を)許したその豪華な建物が其の儘建っている事を赦し給わず、そのより明らかな御智慧により、付近に居た信長の子、御本所(信雄)は普通より知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、(彼に)邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し給うた。(城の)上部が全て炎に包まれると彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」と書いています。

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ただ、能の名手だったようで、秀吉が行った天覧能を観た安土桃山時代の公家で、書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示したといわれる近衛信尹は、「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」と述べていますし、の感想を残しており、また江戸幕府の公式記録の『徳川実紀』にも、聚楽第で催された能について、「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」とあります。記されている。
文化人としては優秀であったようです。

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崇福寺本堂・・・

崇福寺の創建は不詳ですが、小幡藩4代の藩主織田信久が廃寺だった崇福寺を3年かけて再建し臨済宗に改め、当初の小幡藩の菩提寺の宝積寺から信雄・信良・信昌の3代のまで(・信久)の墓石を当寺の境内に移し菩提寺にしたそうです。

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菩提寺を変えた理由は宝積寺の曹洞宗でしたが。岐阜の崇福寺など織田家の菩提寺は臨済宗だったことによるようです。

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崇福寺位牌堂・・・

崇福寺は、二度の火災で焼けていますが、歴代藩主の位牌は難を逃れ、今はこのお堂に安置されています。

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ただ七代信富の位牌はないようです。理由はわかりませんが・・・
他は十代までの位牌と、四代小幡藩主信久の実父の二代大和松山藩主・織田高長の位牌も祀られていました。

墓は七代まででしたね。位牌は十代まで・・・

7代藩主織田信邦の時代に幕府による尊王論者弾圧事件の「明和事件」がありました。この事件は明和3年(1766)尊王論者の山県大弐 (やまがただいに) ・藤井右門が府城,江戸城攻撃の軍略を論じたと謀反の疑いで捕らえ、謀反の事実は無かったのですが、翌年、二人を処刑しています。この時の小幡藩の家老・吉田玄蕃は山県大弐の門弟で、藩士にも門弟が多くいたそうです。小幡藩の用人の松原郡太夫らは吉田玄蕃の失脚をめぐらし「玄蕃が大弐と謀反の疑いを企てている」と信邦に讒訴します。吉田玄蕃は、失脚をはかった。信邦は独断で吉田らを処分し、事件の収拾をはりますが、幕府に相談しなかったと、蟄居させ、弟の信浮(おだ のぶちか)が藩主となります。しかしこのことで、出羽(山形県)の高畠藩(高畠町)に移封になり、小幡を去ります。八代の信浮の墓がないのは亡くなったのは高畠藩となってからです。七代の織田信邦之位牌がないのも、この事件のためかもしれませんね。

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崇福寺のあたりは高台で展望の良いところです。

遠く雪の山々・・・

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草津白根山・・・

群馬の名山ですね。

23サブル 白砂
白砂山(しらすなやま)は、長野県・新潟県・群馬県の3県の境の山・・・
佐武流山(さぶりゅうやま)長野県・新潟県の県境の山・・・
どちらも、知られていませんが名山・・・

一寸一休みでした。

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右より十一面観音・聖観音・不動明王・・・ 

十一面観音と不動明王についての説明はありませんでしたが、中央の聖観音は室町中期以降の歴史的なものとして甘楽町指定重要文化財となっているそうです。

聖観音は摩耗が進んでいて、私には、このように説明がないと聖観音とはわからないでしょうね。

十一面観音の御顔の優しさが印象的でした。

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「織田七代の墓」はこんな畑の向こうです。
織田家が小幡を去った後、松平氏が入封し明治維新を迎えます。

織田氏の去ったあと、崇福寺は後ろ盾を失い寂れていったそうです。

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崇福寺入口・・・

今は車の入れる道が入口のようですが・・・

「下馬」とありますね。「下馬」という石碑がありますね。
その昔は勅使門があり、その額は後醍醐天皇が直筆した「大荘厳域」の勅額で、ここで馬を下りて境内に入らなくてはならなかったそうです。
[ 投稿者:オコジョ at 07:39 | 旅 (地域外) | コメント(2) ]

この記事へのコメント
こんばんは
織田信雄は甘楽にいたんですか!
ちっとも知りませんでした。
誰にも推戴されなかったっていうことは、あまり人望も能力も無かったんでしょうかね。
有楽斎と同じく、文化人タイプだったんでしょうか。
父親がとにかく大天才だったから、その子孫は何かと大変だったでしょうね。
投稿者: 万見仙千代 at 2017-02-28 19:43:34
万見仙千代さんへ
こんばんは
織田信雄は小幡の藩主でしたが、早々と隠居状態で、ほとんど京都だったようですね。
才能についてはどうだったのでしょうね。
信長にたびたび起こられていますが。これは信雄に限ったことではないようですし・・・
この時代を英雄として名を成すにはカリスマ性に欠けていたと言えるようです。
ただ、織田家として。大名として江戸時代をくぐり抜けたのは信雄の家系だけですので、目立たなかったことが幸いしたのかもしれませんね。
投稿者: オコジョ at 2017-02-28 20:59:38

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