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浅間山 (2月4日 信濃追分駅より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習いの、にわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2017年02月27日
新町散歩 新町(小諸)歴史的遺産散策ウォーキング4 観音平古墳など
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昨年12月に、「だんご石」・・・
新町区歴史的遺産散策ウォーキングマップの案内で見つけただんご石に帰りがけにちょっと寄ってみました。

自転車のバッテリーと相談しながらですが・・・

ここは広場になっていて、明るい感じで、だんご石が名前のせいか愛嬌があるような気がします。大きな石ですが、圧迫感がないのが良いですね。


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このシリーズの初回で小諸宿を一瞬で崩壊させた戌の満水の中沢川を紹介しましたが、このだんご石も戌の満水で深沢川が転がって来たと伝わっています。数百トンはあるでしょうね。この大石が転がって来るなんて信じられませんが、ここから10キロ離れた佐久市の塚原地区にはもっと大きな数万トンもの巨石が転がっていって、流れ山という塚を作っています。それも数知れずたくさん・・・
自然は凄いです。

この時は、信州だけでなく、利根川・荒川も大洪水となり、関八州全域に被害
を受けました。その田畑の水没流出は80万石に及び、5日後に再び関東が洪水となり、当時の将軍徳川吉宗は水害地の巡視を勘定方にさせています。

千曲川流域は千曲川本流だけでなく、すべての支流を含めてたぎっていたようです。

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だんご石の近くにウォーキングマップにある観音平古墳を探すことにします。

そしてまた鉄塔・・・
この鉄塔は東御市の島川原発電所からの関東に送電するものです。この2つ先の鉄塔が霧窪城跡にあった鉄塔です。古墳はこの辺りのはずなのですが・・・

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この塚は古墳のようですね。

このように土を盛る代わりに、石を積みあげて墳丘をつくった古墳を積石塚(つみいしづか)といいます。この形の古墳は実は珍しく全国で1500から2000くらいだそうです。
少なくないと思われるかもしれませんがと、日本の古墳の数は15万から20万ほどあり、そのほとんどが盛土墳丘といわれる形の古墳です。
ただ長野県の古墳は盛土墳丘も多いのですが、その内積石塚と土石混合墳が4分の1を占めて言います。特に長野周辺の長野地方の善光寺平では全体では約60%、松代近くの大室古墳群では約80%が積石塚系列です。

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こちらも積石塚のようですね。

積石塚は朝鮮半島に多く存在します。歴史的に見ると5世紀〜7世紀には、朝鮮半島から渡来人がたくさん日本にきも各地で高句麗人による集落が形成され、高句麗から日本海を渡って来た高句麗人が糸魚川から信州に入ったという説もあり、そうした人たちが故郷と同じ学者もいます。
そういう人々の墓ではないかという説が、有力です。

PC244761168号古墳
日本人は単族民族といわれますが、もともと日本にいた民族ではなく、古い時代に日本にやって来たと言われます。縄文人とあとからやって来た弥生人の混血に、大陸からの渡来人たちの血が私たちの中に古くから日本人の中に溶け込んでいるようです。

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こちらも古墳のようですね。

観音平古墳は小諸市の史跡になっていますが、小諸市誌の考古篇には詳細や写真の乗っている古墳もあるのですが、観音平古墳は名前だけといってよく古墳の詳細や写真はなく、ただ径10.5mとだけです。いくつか古墳らしいものはあるのですが10.5mより小さなような気がします。

位置的にはこの辺りなのですが、史跡の古墳かどうかははっきりしません。行政は指定しても、あとは何もしないという文化財も多く何とも言えません。
ウォーキングマップの案内もありません。ただ、ここは新町区ではなく芝生田区になりますので、新町区としてはすぐそばであっても、立札などは建てられないのかもしれません。

この辺りには、観音平遺跡のあった場所に隣接して、この辺りに集落があったようです。

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古墳はしなの鉄道の線路のほど近くにあります。ここからは芝生田区を通っていきます。

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しなの鉄道を横切って登っていくと北アルプスがスカイラインを描いていました。

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鹿島槍ヶ岳・・・

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穂高連峰・・・
左より、前穂高岳、奥穂高岳。涸沢岳、北穂高岳・・・

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右は槍ヶ岳・・・
左へ大喰岳、中岳、常念岳・・・

みんな素敵な白銀の山でした。

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国道18号に出て小諸の町に向かい新町区に戻ります。
そして、ダイハツの販売店の脇のこの細い道を入っていくと、しなの鉄道を見下ろすところに石祠がありました。

ここは一回目に紹介した青木諏訪神社のあった場所・・・

青木(諏訪)神社元宮
 寛保元年(一七四一年)新町の横町へ遷宮されるまで この地に諏訪(青木)大明神が祀られていました。この地に青木の大木が3本あり、慶長九年(一六〇四年城主仙石秀久)小諸城城門の造営に使われたと言われています。 


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国道18号線をそれて諸地区に入ると「東山道 清水驛跡」の石碑が建っています。

ここは東山道の清水の駅(うまや)があったとされている場所です。

江戸時代の京都から関東への道として中山道が知られていますが、それ以前は都と信州を結んだ「官道」として東山道がありました。

日本を統一したヤマト王権の成立は4世紀はじめとされていますが、日本全国を統治したわけではなく、西は岡山県、東は濃尾平野までといわれます。有名な、出雲の国譲りは西への勢力拡大に伴った伝説です。日本武尊の熊襲退治や東国平定の伝説も、そうした歴史を物語っています。そして、4世紀半ばには山口、信州と広がりました。

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東山道は長い歴史のなかで時代によって道のルートが変わりました。
一番最初の東山道は最短の蓼科山近くの雨境峠を超え佐久に出る道でしたが、全国統一により侵略の道から統治の道へと東山道は変わり、松本から保福寺峠を越えて、上田に出るコースに変わります。清水の駅(うまや)はその時代のものです。

古い道は正確な地図があるわけでなく、古文書などの地名を手掛かりにおぼろげなものです。そして道は時代により、変更があり、古い道は歴史の中に消えていきます。

この駅の場所はかつて信濃史学会会長として信州の考古学の長老の一志茂樹氏が、ここに、東山道があったとし、小諸市は市の史跡に指定して、この碑を建てました。
理由としては、近くに弁天清水があること、2万年前の旧石器の手斧などの打製石器や、7500年前の縄文式土器の出土された場所で、古くから集落があったはずと云う推論で、物的な証拠はありません。しかし当時の一志茂樹氏の意見は絶対でした。実際はここかもしれないとしておきましょう。

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清水駅の碑の近くの祠です。昔ここには天王社がありました。

第一階で天王社を紹介していますね。
青木神社の元宮や、この辺りに住んでいた人は小諸宿に移っていきました。

ただ昔の道沿いには神社や寺がありましたから東山道がこの辺りを通っていた可能性は大きいようです。

それを立証するには、昔の東山道を発掘するしかないそうです。群馬では東山道のあとと考える道が見つかっています。その特徴は道幅4.5から5メートルで両側に溝があるそうです。しかし信濃では東山道はほとんど、遺構が残っていないそうです。そして佐久地方は、天明3年の浅間の爆発の2倍の規模といわれる、天仁の噴火の厚い火砕流の下に眠っていて発見は困難のようです。

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第一回で清水の祠が見つからなかったのですが。気になって探しに行きました。
まず前回探したこの辺りをしらみつぶしに・・・

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見つかりませんでしたね。

でもこの川は戌の満水で大洪水を引き起こした中沢川・・・
本当に急に落ちていますね。途中で水を分けていました。
ここで水を分けて、宿場を潤す用水としたようです。

またそこから、右のところに水を引いて、洗い物をしたようですね。なんでもないようですが、昔の暮らしを伺わせます。

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一生懸命探した場所から、善光寺へと100mと少し街道を善光寺に向かうとありました。
案内に使った略図ではこことは思えなかったのですが・・・

といって。文句を言うつもりは全くありません。何処にあるのかなと探すことはたのしいことですから・・・

大体「清水の祠」だから川岸だろうという先入観で探すからいけないのですね。
道の川と反対側の空き地の奥でした。

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ここの説明は現地の説明板にまたお願いします。

清水町の祠
祠の由来は定かではありません。明治時代以前は、この地域は清水町(名高い清水が湧きだしていた)ことから「清水町の祠」と名称を付けました。
毎年、氏子総代や催事係りが注連縄傘せりを行い、ご近所の皆さんにより管理がされています。 


左は馬頭観音の石仏・・・
右は自然石・・・
これを神か仏と見て、多分、道祖神でしょうね。

素朴な信仰と言えるでしょうね。

祠というのは、小さな神殿のことですが、ここは石仏、または道祖神というべきかもしれません。でも、それは小さなことです。

個人的には、知らない場所の知らない神や城跡等を訪ね、知らない道を歩きました。道の世界への誘いですね。

新町区・歴史的遺産を守る会に最大の感謝をささげます。
素敵な時を、ありがとうございました。

そうそう、臼田亜浪に関する場所が残っているのですが、そちらは近いうちにアップしたいと思います。
[ 投稿者:オコジョ at 08:28 | その他 | コメント(2) ]

この記事へのコメント
縄文と弥生
縄文系か弥生系か 耳クソが渇いているか湿っているかで 見分けるという説を聞いたことがありますが どうでしょ。縄文が 弥生にまけたのなら 生きていないし・・・混合して生きながらえたのなら どっちかというのもありますね などと 読みながら あれこれ あっちこっちに考えが飛びます。東北の津波のように ある日川が 暴れて でかい石が ゴロゴロ流れて 人が死んで・・・・こんなことをくりかえして 地球はどうなるのかな・・・・あれこれ思います。 
投稿者: 小紋 at 2017-02-28 21:14:21
小紋さんへ
縄文人が平和に暮らしていた時に大陸を追われた弥生人が九州から上陸、縄文人を攻め滅ばして行った。縄文人の骨に弥生人の矢じりがたくさん残っていたことから、こう考えられていました。
しかし、弥生の遺跡から縄文式土器が出たり、縄文人と弥生人の人骨が一緒に見つかったり、混血の人骨出ていて、一部戦いはあったものの、全体的にはわりと穏やかに融合していったことが遺伝子的にもわかってきているようです。
今の日本人にはほとんど、縄文と彌生の両方の血が入っているのでしょうね。
私には、江戸時代の士農工商のすべての先祖がいるように・・・・
信州歯山国で、私のところはスカイツリーより高い所に住んでいますが、この辺りは大昔は海の底、太鼓の鯨やイルカの化石が見つかったり、基部の山からはホタテの化石がたくさん出ます。
私たちの住んでいるころが遠い未来にどうなるか興味がありますが。確かめるのは無理のようですね。
投稿者: オコジョ at 2017-03-01 08:43:54

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