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浅間山 10月9日 (小諸市飯綱山より)
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 このブログでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。
狭い地域のことで、日記的な意味合いもあり、同じ内容を何度も繰り返して、マンネリ化していて新鮮味に欠けています。
書いていることは、一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2016年02月21日
柏原宿から牟礼宿(北国街道)2 柏原宿 一茶の里・明専寺と終焉の家
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黒姫駅・・・

昔は柏原駅(かしわばらえき)でした。

黒姫高原をPRしたかったのでしょうが、小林一茶の生まれ故郷の北国街道・柏原宿もよりの駅なので、柏原の名前を残してほしかったなと個人的にはおもうのですが・・・

ただ柏原駅と書く駅はJRだけでも、現在、東海道本線の柏原駅(かしわばらえき)、関西本線の柏原駅(かしわらえき) 、福知山線の柏原駅(かいばらえき)と3つあります。特に東海道本線とは字も読みも同じで、混乱を避けることもあったのかもしれませんね。東海道本線と信越本線では東海道優先ですね。いきなり脱線でした。

黒姫駅の一茶の句碑・・・

  蟻の道 雲の峰より つゞきけん


2藤野屋旅館
黒姫駅前の通りの入口の藤野屋旅館・・・

明治43年(1910)の木造2階建ての純和風の旅館です。106年目の建物ですが、現役の旅館です。

黒姫駅の前身の信越本線柏原駅は明治21年(1888)開業ですが、この年に藤野屋の初代がここで割烹料理屋を始めたそうです。そして明治34年(1902)に二代目が旅館を始めた老舗です。

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タイムスリップしたような佇まいですね。

6年前には明治末の旅館の佇まいをよく伝える建物として国の登録有形文化財に登録された歴史的な建物・・・

昔ながらの宿で、部屋の鍵もないみたいです。そんなところが魅力かも・・・
泊まっても見たいですね。昔懐かしい気がします。

でも、妻は、温泉か、もっときれいな宿と言いそうです。

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駅前通りを行きます。

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この建物は昔の商店のようです。

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雪国・・・

駅から下りて、はじめにこんな写真を撮影しましたが・・・・
これは生易しかったですね。

もっとすごいのが当たり前でした。

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駅前通りの突当りは小丸山公園・・・
ここには一茶記念館と明治時代に一茶を記念して建てられたお堂「俳諧寺」(写真 右)があります。俳諧寺の裏手の墓地に一茶の墓があります。しかしこの雪では・・・
一茶記念館は冬には休館なのですが、連絡しておけば見学できます。しかし、今回は長丁場の雪道なのでスルーしました。

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街路灯にも 一茶師匠が・・・

  やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり

この句は有名ですね。病弱だった我が子の応援句という説もありますが、貧しい障害を送った一茶自身へ言い聞かせたのかもしれません。

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小丸山公園に隣接する一茶の菩提寺浄土真宗本願寺派明専寺(みょうせんじ)・・・

ここは除雪もされていましたので立ち寄りです。

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とは言うものの・・・

こんな雪の寺でした。

  初雪や と言へばすぐに 三四尺  一茶

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  我と来て 遊べや親の ない雀

明専寺にある少年時代を思い返した有名な句の句碑です。
今も寂しそうに雪をかぶっていました。

一茶は3歳で母を亡くし、ひとり遊びの日々を過ごしました。そんな寂しさが込められています。
一茶の句には、子上した幼少期のさびしい家庭環境、そして義母との葛藤、そんな思いから自虐的な句風があるとともに、厳しい風土の中で生きる百姓の逞しさを感じさせているようです。芭蕉の洗練さとはちがった、句は素朴で易しい言葉でわかりやすさがあります。

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鐘楼とスズメバチの巣・・・
もう空家なのでしょう

こんなところにあって危険ではなかったかと・・・

仏教は殺生を嫌いますから、スズメバチといえども駆除してはいけないのかもしれません。

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この辺りが柏原宿の中心当たり・・・

柏原は宿場通りが国道18号線となって。古い建物はほとんどなく、宿場の面影は希薄です。

雪の少ない地方の人にとって珍しいのは信号の形でしょうか。上から赤・黄・緑ですね。一般的には右から赤・黄・緑ですね。つまり縦型の信号です。
昭和の終わりごろまでは、雪国でも横型でした。そこに横型が加わりも平成になるとほとんどの信号機が縦型となっていったそうです。

横型の信号ではなぜいけないのかというと、3色が横にもツバがあると一緒になって雪が一体化してしまうからだそうです。縦にしても、ツバは3つですが。独立しているので雪の積もる量は少なくことがなく、信号が痛みにくいそうです。

私の町では雪は少ないまで、横型です。昨日の車窓風景のように雪が多くなった牟礼辺りから縦型がとなるようです。今回歩くところはすべて縦型です。長野市の善光寺は横です。

本陣跡
この写真の中央に柏原宿の本陣で問屋場を兼ねた中村本陣跡・・・

名主の屋敷もあり、脇本陣は道向かいにあったそうです

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一茶の「終(つひ)の住(す)み処(か)か」の「国史跡小林一茶旧宅」へ・・・

でも、この屋根の雪は要注意ですね。

屋根の下を恐る恐る通り抜けました。

一茶は、1763(宝暦13)年、柏原宿の貧農の長男として生まれました。3歳のとき母がなくし、8歳で迎えた義母と折り合いが悪く、15歳の春、江戸に奉公に出ました。
奉公先を次々と替えたそうですが、20歳頃から、俳句の道をめざすようになりました。
そして生涯に約20000の俳句を残しました。

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一茶の終焉の土蔵・・・

一茶は江戸の14年暮して29歳で、柏原に戻り、「寛政三年紀行」を書きますが、翌年30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れます。39歳の時に父の看病で柏原にかえりますが、1か月ほど父を看取ります。父は、弟と田畑・家屋敷を半分ずつ分けるよう遺言を残していたそうです。
しかし継母と弟は一茶に財産を譲ることを拒否します。一茶は江戸に戻り、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入り、俳句の修行を続け、房総の知人・門人の俳句の指導で生計をたてました。貧しい暮らしだったようですが、徐々に一茶の評価は上がっていきました。

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  是がまあ 終(つひ)の住(す)み処(か)か 雪五尺  一茶

五尺は無いですね。2尺がいい所でしょうか・・・

50歳の冬、一茶は意を決して故郷、柏原に永住するために帰りました。借家を借り交渉を重ね、明専寺住職が仲裁により、翌年ようやく和解しました。一茶の遺産相続権を争いは12年間の長きに渡りました。

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一茶が最晩年をすごした土蔵、「国史跡小林一茶旧宅」の内部です。

そうして手に入れた家でしたが、文政10年 (1827)6月1日、一茶65歳のとき柏原宿の大火があり、宿場の大半を失いました。一茶は母屋を失い、焼け残りの土蔵に移り住みました。

外から見る茅葺・土壁の家は風情がありますが、中に入るとその粗末なことに心を痛めます。
土蔵は間口3間半(6.2m)、奥行2間2尺(4.2m)の平屋です。土蔵に入ると入口のそばに囲炉裏がありますが、窓のない暗い土間はいかにも寒そうです。
仕切りの無い、奥の部屋は六畳ほどで、すのこの上に、の御座を敷ただけ、災害の後の仮住まいとしても質素です。後は囲炉裏の上に、今で言うロフトのような四畳ほど道具置き場がりました。他には何もありません。
この年の11月19日に、一茶はこの土蔵で65歳の生涯をとじました。ここでの生活の厳しさが寿命を縮めたのでは無かったかと・・・

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土蔵の裏には俳諧寺一茶位牌堂・・・
一茶の子孫に当たる人が、今もここで位牌を守っているそうです。

継母との弟は一茶の財産問題は、継母との弟にとっては貧しい生活の中で、農業もしないで。江戸から急に戻ってきて、財産を半分寄こせといっても簡単には応じられませんよね。
雪国の蔵氏は吉備医師ものがあったことと思います。

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一茶は52歳のとき、28歳のきくと結婚、4人の子供を作りますが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで失います。その後、再婚しますが、半年で離婚します。3番目の妻やをとの間に娘やたが生れました時は、そのとき一茶はもうこの世の人ではありませんでした。一茶は子供時代から生涯を通じ家庭的には不遇だったようです。

しかし、この地で、俳句指導や句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし活躍しました。

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一茶の弟・弥兵衛の屋敷

一茶の土蔵近くにあります。
ただ江戸時代のものでなく大火のあとに建てた弟屋敷を、平成12年に復元したものだそうです。

間口4間半(8.1m)、奥行4間(7.3m)の2階造りの小さな町家ですが、一茶の土蔵と較べると立派に見えます。

0
この家は、旅籠や、参勤交代の宿として使われたそうです。
一茶の時代を伝える建物の復元といえます。

[ 投稿者:オコジョ at 08:19 | 北国街道 | コメント(4) ]

この記事へのコメント
無題
こんばんは。

一茶終焉の土蔵!
初めて見ました。
これは感激。まだ残っていることにも感激。
こんな厳しい環境では、長生きをするのは無理だったでしょうね。
奥さんもお子さんも、よほど頑健な人じゃないと、若死にしてしまうんじゃないでしょうか。

藤野屋旅館
私も、オコジョさんの奥様に賛成(笑)
中を見せてもらえるなら嬉しいけど、泊まるのはどうもねぇ。

それにしても、こんな厳しい土地でも、人は逞しく生活してるんですね。
と書いて来て、私北海道だったわ、と思い出しました。
厳しかったし、信号も縦なのかもしれない。
投稿者: 万見仙千代 at 2016-02-23 20:38:15
万見仙千代さんへ
おはようございます。一茶は58歳で脳卒中の発作を起こし半身不随になり63歳には言語障害となっていますが、64歳で3度目の結婚、子をつくっています。ただ、この子の誕生前に亡くなっていますが精力的な?人だったようです。

仮住まいではあったのですが、この土蔵での生活は5か月ばかり・・・
でも寂しい最後でしたね。

藤野屋旅館、昔の宿屋民宿はこんな感じのところがあって懐かしく・・・
山小屋二も泊まっていますので。私は抵抗が少ないようです。
でも、たまに泊りに行くのだから、綺麗な部屋で美味しい食事をというも判ります。

粉雪で雪軽く密着しにくい場所は横のままのこともあるそうなので、北海道はどうなのでしょうか・・・
北海道も信号が縦の場所もたくさんありそうですね。
投稿者: オコジョ at 2016-02-24 09:38:01
無題
藤野屋旅館、歴史を感じるお宿ですね。
鍵も無いとは(笑)
私ももし泊まるのなら、綺麗なお宿が良いかな(笑)

一茶の名句、「我と来て遊べや親のない雀」は、とても好きです。
3歳の時、母親を亡くしてるのですか?初めて知りました。
継母との葛藤、お子様の死など、生涯ご苦労されたのですね。


信号は北国では縦型ですね。でも、善光寺は横型なんですね。雪が少ないということでしょうか。

一茶の故郷、柏原を訪ねてみたいものです。。
投稿者: ハーモニー at 2016-02-24 18:48:19
ハーモニーさんへ
現代はこういう宿は嫌われますね。
昔は出張で何人かで行くと同じ部屋に泊まって一緒に酒を飲んだものでしたが・・・
今の若い人は、嫌がりますね。そういう時代なのでしょうね。
白川郷の合掌造りなどのような建物なら別ですが・・・

短い17文字の裏側いろいろな世界があるのでしょうね。
でも、最後は読み手の思いで理解すべきものです。
でも、一茶の句は愛すべきものが多いですね。

長野は雪は降りますがわりと少なめです。
一里一尺という言葉があります。
一里北に行くと1尺雪が多くなる・・・
長野は一茶の里より5里近く南ですから、雪はよく降りますが、積もる量は少ないですね。

この辺りは野尻湖や戸隠もありますので、そうしたところをつないで訪れるといいと思います。
投稿者: オコジョ at 2016-02-24 22:01:27

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