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浅間山 (11月26日 小諸市平原 三ツ子塚より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


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2015年04月03日
海野氏菩提寺興善寺 真田一族ゆかりの寺  東御市
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海野宿から温泉へ・・・
このところ運動不足ということで歩いていくことにしました。4キロほどです。
海野宿から昨日の橋で、しなの鉄道を渡るとこんな石仏たちがありました。


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左はこの辺りに多い愛の神の双体道祖神・・・
宝暦三癸酉年(1753)とありました。江戸時代中ごろの物ですね。双体道祖神としては古いものといえます。信州の安曇野屋松本地方は双体道祖神が多いことで知られていますが、古いもので正徳5年(1715)です。1700年代の物は少ないです。

古いものらしく、女神と男神はきちんと手を合わせて拝んでいました。

右は『馬』とだけ・・・
他では見たことがありませんが、馬頭観音なのだろうと思います。

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海野宿の外れの大石に「海野氏菩提寺興善寺 是より北へ1粁」とあります。私は訪れているのですが、妻は行ったことがないと言うので、ほんの少し寄り道してみました。

なかなか素敵な雰囲気があります。目を引くのはこの石垣・・・
お城の石垣かと思わせますね。

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堂々とした豪壮な山門・・・
この寺の格式を感じさせます。
この山門は平成三年に二百四十年ぶりに再建されたものだそうです。
高さ十五m、巾五間半、奥行三間。禅宗様式で二層の立派な楼門です。

瑞泉山興善寺は曹洞宗の寺院です。そして、海野宿あたりを平安・鎌倉・戦国時代と600余年、治めた海野氏の菩提寺です。

海野氏についてはいろいろな説があるのですが、その一つは清和天皇の第4皇子貞保(さだやす)親王が信濃国海野庄に移り、子孫が醍醐天皇より滋野姓を頂いき、後に海野とあります。しかし、貞保親王が海野庄にいたという確かな証拠はありません。昔のことですからね。
別な歴史学者は、ここの国牧の管理者である大伴氏の末流ではないかと・・・
こちらの説のほうが、現在は可能性が高いようです。

歴史的に見ると「保元物語」に、源義朝の配下に「宇野太郎(海野太郎)」が登場します。平家物語には木曾義仲の侍大将として海野幸親・幸広親子が、共に戦死し田ことが書かれています。その後、海野幸親の三男は幸氏は鎌倉の御家人となり、「吾妻鏡」に弓の名手として度々登場しているようです。中世に上田地方を中心に勢力を持っていたことがわかります。

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本堂

しかし、戦国時代には村上氏と勢力争いをしますが、徐々に衰退の道をたどります。

海野氏は永正10年(1513) の海野平の戦いで武田信虎・諏訪頼重・村上義清と争います。
その戦いの武運長久と領地の安泰を祈願して、29代海野小太郎幸義(幸善)がこの寺を開基、自身の名を寺名にして幸善寺と命名しました。
しかしその戦いで、海野小太郎幸義は戦死、海野氏の嫡流は途絶えます。幸善寺にかけた願いはかなえられませんでした。

貞享3年(1696)すべて建築物を火災で失いますが、20年後に本堂等を再建し名前を、幸善寺を現在の興善寺と改めます。しかし明治4年(1871)再度の火災に見舞われ、本堂はその後、明治20年の再建です。

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左は興善寺を開基した海野小太郎幸義(幸善) の霊廟です。

右は境内にある東御市文化財の「廃海善寺石塔基礎」・・・。
柱の右にある四角い石がそうです。鎌倉時代の文保二年(1318)の年号が陰刻してあります。
多孔質安山岩高さ28㎝・底面46㎝、でも何の変哲もないと言ってしまえばされまでですが・・・
昭和21年に海善寺跡の畑から出土したそうです。
海善寺はここ興善寺の隣の地域の海善寺にあった寺で、ここと同じく、海野氏が鎌倉時代に創建した寺です。武田信玄も海善寺で武運を祈っています。
その後真田昌幸が上田城を築城のときに、鬼門除として海禅寺と改称して上田に移りました。海禅寺は今でも上田に存在します。

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さて温泉を目指します。

来年のNHK大河ドラマは真田幸村(信繁)が主人公の「真田丸」です。
その真田家と名家海野一族について・・・

海野宿のある東御市本海野は、海野の庄と呼ばれた海野一族の拠点でした。
後に、ここを治めた真田幸村で有名な真田一族は海野氏流と称してこの地を大切にして、真田昌幸は上田城築城のした時には海野の庄から海善寺を端攻めとする寺社や町を上田城下に移して、町を作っています。

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烏帽子岳・・・
この山の西側(写真の左側)が真田・・・
真田一族発祥の地です。

真田家は戦国時代に海野小太郎棟綱の子の弾正忠幸隆が真田庄の松尾城に住み真田を名乗
ったといわれますが、系譜がみんな違っていて、別説もあります。海野一族の分家である真田頼昌と海野棟綱(むねつな)の娘の間の子という説・・・
だいたい系図というは古いほうはあてにならないようです。だいたい天皇家から分かれてきます。そんな家の格式などたいしたことはないと私は思うのですが・・・
その人がどう生きたかということが本当は大切で、祖先などは関係ないまでは、もっとも、私はたいした生き方をしてきませんでしたが・・・

興善寺の海野小太郎幸義も海野小太郎棟綱の子、そうだとすれば確かに海野一族なのですが・・・
多分、昔から真田一族がいたのですが、その名が高まり、この地方を治めるようになり、住民からの支持を得るために、海野一族を名乗るのは効果的だったのかも・・・
そして、真実は歴史のかなたへ消してしまったようです。

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社宮司神社がありました。諏訪地方にはこの関係の神社が多いそうです。
名前は御社宮神、御社宮司、社宮司、狭口神、左口、三社口神、左久神、御三宮神、座護神、射軍神、三社宮神、尺神、曲口、社雲神、社軍司、護神、左軍神、左口神、作神、おしゃも神、お杓子神、おしゃくしさん、おしゃもじさま等、多彩ですが・・・、
ただ、神社によって祀られている神は祭神はサルタヒコ、アメノウズメ、保食神、お産神、産土神、役除神、諏訪明神御子神などと一定していないようです。元は素朴な一つの神を祀ったのでしょうが、よく知っている神に変えていったのかもしれません。
御神体は石棒・石皿・石臼・男根石・立石状自然石などの素朴なものが多く素朴な神なのかもしれません。

諏訪地方に多いのは、諏訪の神に追われた土俗の神かも・・・

岩村田宿近くの中山道脇の空き地に、曲口神社と刻まれた石碑があります。
正式には下曲口(しもしゃぐち)神社というそうです。江戸側から中山道を来ると岩村田宿の前に上曲口神社があるそうです。どちらも、神社といっても、鳥居や社殿はもちろん祠なく、昔からこの石碑ひとつだそうです。

縄文信仰の古い神社という説もあるようです。地元では古くはミシャグッツアァといったそうです。なんとなく縄文の響きですよね。曲口はここから岩村田の測量を始めたので「尺をいれた口」、「差し金(曲がり尺)をいれた」から曲口(しゃくぐち⇒しゃぐち)と言う説もあるそうです。つまり、この神社の詳しいことはよくわからないということのようです。

ここの神は誰なのでしょうね。


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社宮司神社近くの空き地に無縫塔・・・
住職の墓ですね。ここに寺があったということですね。

社宮司神社はこの寺の境内社だったのかもしれません。

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空き地には双体道祖神もありました・・・

摩耗が激しく江戸時代の神様のようです。

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祢津街道・・・

海野一族はもともと滋野一族が海野・祢津・望月の3つに分かれたと言われます。(異説もありますが)、真田一族は地理的なものや活躍した内容から見ると祢津一族の流れになるのではという説もあります。
この道も古い道のようです。

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こういうお地蔵様・・・
なんとなく気になるのです。

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上信越道をくぐります。
温泉まではあと500mくらいです。

温泉まで4キロといいましたが、奥様は疲れ気味・・・
運動不足かな・・・

4キロは間違いないのですが、海野宿は標高490mくらい今回の温泉の湯楽里館は720mくらい、230m登りますので少しハードです。

今回とコースは違いますが、一度湯楽里館から歩いて帰ったことがありました。下りですから楽だったので、その印象があったようです。

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湯楽里館 到着・・・

この建物は「レストランOH!LA!HO」・・・
ここは地元の食材を中心にした展望の良いレストランです。
ここで食事にしました。

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といっても、ランチですから、軽めです。
ピザ・パスタのランチ・・・

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丁度ジビエ料理ありましたので一品追加・・・

「鹿ロース肉のオーブン焼き フォンド・ボーとニンニククリームの2色ソースで」を注文しました。癖もなく美味しかったです。

この建物は地ビール“OH!LA!HO BEER”の製造工場を兼ねています。
出来立ての生ビールが飲めます。
車の運転ができないということは、こういう時は遠慮なく飲めます。

頼んだのは琥珀色のアンバーエール・・・

ゆっくりと温泉を楽しんで、帰りは歩かずにタクシーで戻りました。

[ 投稿者:オコジョ at 08:58 | 東御市・立科町 | コメント(6) ]

この記事へのコメント
無題
こんばんは。
湯楽里館、行ってみたいんですよ。
だけどワンコを置いて行くには、ちょっと遠いんですよね。
オラホビール、飲んでみたいです。
それにしても、沢山召し上がりましたね!(笑)
どれも美味しそうです。
投稿者: 万見仙千代 at 2015-04-03 20:57:14
万見仙千代さんへ
こんばんは。
ここはお風呂もいいのですが、このレストランがいいのです。
湯楽里館の中でも食べられますが、そちらはほかの巳帰り温泉のレストランとあまり変わりません。
パスタのランチとピザのランチを一人前ずつ・・・
サラダとスープ付ですから多そうに見えますが・・・

機会があったら是非おいでください。
すずちゃんも一緒できるといいのでしょうが・・・
投稿者: オコジョ at 2015-04-03 21:21:18
無題
突然失礼します。埼玉のATSと申します。

湯楽里館、何回か年老いた母と行ったことあります。

今日、数年ぶりに一人で行きました。母の一周忌を兼ねての再訪でした。

ところで、湯楽里館の下の道に水篤縣神社がありますね。
道沿いの埋もれた鳥居が気になって、初めて本殿近くまで歩いて行きました。
何か妖しい雰囲気でした。
いったい謂れはどんななのか? 不思議です。

失礼しました。
失礼しました。


投稿者: ATS at 2017-03-18 19:48:17
ATSさんへ
ご訪問ありがとうございます。
湯楽里館は良いところですね。
毎年のように行っています。

水篤縣神社に行かれたのですね。
暗い林の中の朱塗りの屋根の社・・・
社がありますから、この辺りの氏神だった可能性があるのですが、長野県神社庁にはこの名はなく由来は私にはわかりません。

名前からして、水に関係があるのかと、このもっと奥に足澤水分神社などという神社もありますので・・・

東御市の市役所あたりの地名は縣(あがた)です。縣は大和政権関係の神社の可能性もあります。信濃国分寺も近いですから、でもこれは想像の域を出ません。
水篤縣は小字なのかもしれません。
回答になっていなくて申し訳ありません。
投稿者: オコジョ at 2017-03-18 21:01:29
上記神社の名前ですが
初めまして、突然のコメント失礼します。
普段は首都圏に住んでいますが、親の実家が栗林にあります
。本日お盆の墓参りのため近くを歩いたところ、鳥居をみかけました。
よく見てみると、篤ではなく篶の字でした。水篶縣神社、みすずあがた と読むかも知れませんね
投稿者: さとし at 2017-08-12 12:38:50
さとし様へ
ご訪問とコメントありがとうございます。
そして情報ありがとうございました。

篶の字なら水篶縣神社なら、「みすずあがた」か「みすずがた」となりますね。

マップルの地図には「水篤縣神社」となっていますが、地名の間違いは多いですね。佐久市の方で、マップルに「山の上神社」となっている神社を訪ねてみたことがあります。鳥居や社殿に額はなかったのですが、修理の棟札を見たら山神社(やまのかみしゃ)となっていました。地図を作るとき土地の人に「この神社の名前は?」と「やまのかみ」・・・
「そうか山の上神社というのか」・・・

信濃の枕詞の「みすずかる」は「水篶刈る」と書きますから間違いないようですね。
ここは似た字を当てはめてしまったようです。

松本に美須々という地名がありますね。

お盆はこちらでお過ごしでしょうか・・・
ゆっくりとできるといいですね。
投稿者: オコジョ at 2017-08-12 15:54:12

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