
田中本家博物館をもう少し続けます。
「夏の庭」という中庭です。夏椿が素晴らしいそうです。

ここには前はカルガモがいたのですが、この日は見当たりません。
お出かけでしょうか。
それとも、人が多すぎて、引っ越したのでしょうか。

中庭から見た客殿「清琴閣」です。

前庭に戻りました。紅白の梅が美しいから「春の庭」というそうです。
片隅に
「春雨や 田中栄える 種おろし」という句碑があります。
須坂藩の6代目藩主 堀直寛が田中家初代新八に贈った句だそうです。
藩主がお世辞?を言うような家だったということですね。

これほどの豪邸はこのあたりでは見かけません。
須坂の街の最大の見所であること間違いないようです。

田中本家の駐車場に「古寺を巡る石畳の道」という案内板がありました。
たどってみることにしました。こんな道から始まります。

この道は人呼んで「須坂の小京都」とか、5つのお寺が集まっています。
まずは浄土真宗本願寺派の普願寺(ふがんじ)の山門です。

見事な石畳と桜並木ですね。
桜のころは見事でしょうね。
塀の礎石はぼたもち積み(丸石積み)ですね。須坂はこの石垣が多いです。
石畳と塀との間の小川も素敵でした。
有名かどうかは別として私好みでした。

普願寺の本堂です。
寛保2年(1742)に着工、5年後の延享4年(1747)に完成しています。
大工棟梁は越後国三島郡本与板村の丸山武兵衛だそうです。与板村は今は長岡市ですね。私の会社の工場が、長岡にあり、何度も転勤で行った町、懐かしさがあります。
そういえば天地人の直江兼続は与板城の城主でしたね。
当時からこうした工事をする人は地元に限らなかったようです。

それにしても大きな本堂でした。信濃の浄土真宗の本堂の中で特に優れたものとして須坂市指定有形文化財となっています。
普願寺の隣は田中本家です。そして田中本家は普願寺の檀家です。田中本家の財力がこうした立派な本堂を生み出したのかも知れません。
そうした普願寺とは切っても切れない縁があるようです。

鐘楼は嘉永4年(1851)の建物で、亀原和田四郎の作品だそうです。
亀原和田四郎は隣の高山村の人です。地元ですね。
でも、このあたりには素敵な彫刻を残している職人です。
この鐘楼も須坂市指定有形文化財に指定されています。

ここは寺の周囲に石垣のうえに回廊があり、立派な太鼓楼がありました。城に似ているから城郭伽藍といわれることもあるそうです。
浄土真宗系の寺には、このように太鼓楼を持つ寺があるそうです。たた、東海、北陸、近畿地区に多いとか・・・

浄土真本願寺派 元徳寺です。
このあと
浄土真宗本願寺派 善行寺
浄土真宗本願寺派 善長寺

この山門は円光寺です。
ここも浄土真宗本願寺派ですこ実の寺町のお寺はすべて浄土真宗本願寺派・・
このあたりは浄土真宗の信仰が盛んだったようです。
ここ明治初期の小山小学校の前身の「止善学校」だったことがあるそうです。
明治4年学制頒布で各地に学校ができました。
しかし、とはいっても建物を直ぐ作れなくて、地域の寺を借りて学校としたところが多いようです。この境内でも、ここで学んだ子供たちが遊んだのでしょうか。

円光寺の裏側の大笹街道に面して円光寺八角太鼓楼(はっかくたいころう)があります。して車道に出たところに八角太鼓堂があります。
説明文を読んで見ます。
「太鼓楼は明治27年建立、越後の棟梁 山岡武兵衛と大工勝山某の作。
見た目には正八角形に見えるが、実は不等辺三角形という。
屋根をささえる軒裏の木組み、彫刻が刻み込まれた八面の窓、欄干の
しつらえなど手のこんだ総ケヤキ造りとなっている。
現在、太鼓は下ろしてあるが、かつては法要の時に太鼓を打鳴らして
寺参りの信徒への合図にした」これだけ書くとほかに説明は要りませんね。

円光寺太鼓楼は須坂市指定有形文化財です。
大笹街道から見ています。
何か、日本らしいような、違うような・・・
昔の街道を行く人のめにはどう移ったのでしょうか。
このあたりから、昔の須坂の街に入ります。
旅人たちは須坂のまたについたとホッとしたのかも知れません。