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浅間山 (9月30日  軽井沢 矢ヶ崎公園より)
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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
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2009年03月17日
まゆの里 上塩尻(上田市)  北国街道沿いの素敵な集落
0蚕屋つくり
しなの鉄道西上田駅で降りて国道としなの鉄道の間の道を上田方面に歩いていくと道は突き当たってしまうのですが、そのあたりは素敵な家が並んでいます。立派な門や、塀の古い趣のある家の小路がすてきでした。

このあたりの地名は上塩尻ですか。そして、ここは上塩尻の元宿で、昔は千曲川の中州で、上塩尻の居住地だったそうです。
2番屋跡
このあたりは番屋跡です。番屋は町内警備にあたった自身番の詰所があったようです。
昔からの、堂々とした家は、懐かしさというより、圧倒的な歴史を感じさせます。

3
この御宅は立派ですね。気抜き屋根(越屋根)がある養蚕をした「蚕室造り」です。
上田市上塩尻は幕末から明治時代にかけて、蚕種製造の藤本蚕種株式会社を中心にした国内最大の蚕種の産地として栄えたところでした。蚕種というのは、蚕を飼育して、蚕の卵を販売する産業で、蚕の卵を「種」といったことからこう呼ばれました。

4
長野県に海がないのですが、なぜか塩尻という地名が塩尻市のほかに上田市と栄村にあります。塩尻市については、日本海から塩売りが、塩を売り歩いてくるとこの辺で塩が売切れるとか、日本海側と太平洋側の塩がこのあたりで一緒になるつまり塩の道の終点だからといわれます。でも、これは俗説のようです。塩の道は江戸時代に整備されたもので、塩尻の名前はもっとずっと古いものです。アイヌ語説や伊勢物語の「塩尻」など諸説があるようですが、通説は無いようです。

5
ここ上田の塩尻は、虚空蔵山の末端が岩鼻の岩壁となって千曲川にせりだしています。そのため、絞り込まれた土地として、絞り地 (シボリジ)から変化したというのが通説です。
宮城県の松島近くの塩竃市も、製塩の「塩釜」ではなくて、シボリガハマ(絞りが浜)だそうです。

6
国道18号線です。
昔の家並みと較べると、なにか無味乾燥な感じを受けてしまいます。
国道18号線をわたると、昔の北国街道沿いの上塩尻の大村になります。

7
この小路に並ぶ蔵もすてきでした。大きな家で旧家が並んでいるようです。

このあたりはこのような「〇〇小路」」と名前のある小路が七つあり、七小路(ななこうじ)と呼ばれています。

8
上塩尻には造り酒屋や上田紬の工房もあります。上田紬の工房も見学も可能ですが、今日は他にも目的があり、残念ながら割愛です。

気抜きのある小屋根があり、この家も養蚕農家でしたね。
蚕は気温の管理が大切で、温度が下がると火を焚いて暖房しました。その煙抜きが気抜きです。大きな建物に見えますが2階部分は蚕棚が並び、一階にも桑を保存したりするスペースも必要でした。人が住み良いのは二の次で、蚕を「お子さま」と大切にしました。

9
養蚕の神を祭る「座摩神社」の参道入口に「相撲年寄信濃石品吉の碑」がありました。明治21年に上塩尻有志の建立です。

塩尻村の座摩神社では昔は八十八夜の祭典に、力士の姿で子どもや青年が村をねり歩き神社の土俵で奉納相撲が行なわていました。奉納相撲を取り仕切ったのが相撲年寄で、近隣の力士が集めたそうです。
天保13年(1842)に吉田追風門人相撲年寄、三代目浦風林右衛門直政、四本柱の土俵を免許を受けたという記録が残っています。小県・上田地域で四本柱の土俵が免許されたのは、上田の大星神社とここ座摩神社だけでした。四本柱は土俵四隅に建てる四本柱で、辻相撲は全国で行われていたのですが、四本柱の土俵の免許状を受けるというのは格式高いものだったようです。奉納相撲は、明治になって盛り上がり、大正期に隆盛期を迎えますが、太平洋戦争で衰退し1980年を最後に途絶えたままだそうです。

11

北国街道から石段を登った座摩神社の鳥居の脇に碑の正面に大きく「芭蕉翁」と書かれた安永6年(1777)の芭蕉句碑があります。と読める。句は右のやや後ろに次の句が刻まれています。

  雪ちるや 穗屋の薄の刈り殘し

この句は長野市の刈萱堂西光寺にある信濃で一番古い(寛保3年 1743)芭蕉の句碑とにも刻まれている他、信州だけでも幾つもの句碑があります。
「穂屋」とは諏訪の諏訪大社の御射山祭に作られる、青萱・薄で葺いた神事用の仮屋のことです。穂屋のために刈ったススキの原にいま雪がふるという情景です。

さすが、芭蕉らしい素敵な句で、信州の厳しいけれどおちついた冬を感じさせます。一茶には無い抒情は自然の美しさをうたったら芭蕉に叶うものは無いようです。

12
この句の前書きには「信濃路を過ぐるに」と信州で作ったようになっているのですが、この句が作られた元禄3年1690)に芭蕉は信濃を旅していません。では2年前の貞亨5年(1688)の『更科紀行』の折りの思い出かというと、このときは雪の季節ではなく秋・・・
この句は、芭蕉の心に思い浮かんだ風景という事でしょう。

昔の歌人は都を離れたこともないのに、遠くの土地を詠んでいますので、とやかく言うことでは、無いですね。

文学とはそういうものなのかもしれません。

13
上塩尻のはずれ、北国街道は上田宿に向かいます。

この以下はかなり、痛みが激しいようですね。
先日の小諸、森山の塩川家でも、書きましたが、古い家を残すと口でいうことは簡単ですが、実際には大変なことです。屋根の修理、壁の塗り替えなどの修繕費も最近の家と違い大きな費用が発生します。外観をそのままに、家の中を改築すれば、新築するよりも高くなることもあります。住んでいる人は金持ちとは限りません。こうした、保存を行政も含めて考えていかないとこうした家は急速に姿を消して行きそうです。
そして、大切なものだから住み難くても我慢しろといった住む人を無視したやり方でもいけないのだと思います。それをどうするか、大きな課題だと思います。
古い建物を資料館などにして保存している場合もありますが、人の住まない家は生活観がなく感動が薄いです。
[ 投稿者:オコジョ at 07:46 | 千曲市・坂城 | コメント(10) | トラックバック(0) ]

この記事へのコメント
こんにちは
歴史の面影の残る町並みですね☆
蚕の卵>>幼虫になった大きさのものが繭を作るのですか?
繭の中に卵があるのですか?
生態をぜんぜん知りません・・。
この質問は変かもですね(^_^;)
投稿者: アメジスト at 2009-03-17 13:10:57
上塩尻の元宿は
国道18号線を車で走っていると
見ることの出来ない風景ですね。
上塩尻が幕末から明治時代にかけ、
国内最大の蚕種の産地だった
ことを初めて知りました。
投稿者: 良さん at 2009-03-17 18:29:28
アメジストさんへ
なかなか素敵な町でしょう。地元でも知られていない町並みです。

知らないということは誰でも山ほどありますね。私も時々、変な質問をして、笑われます。
「ニワトリの卵」といいますが、「ヒヨコの卵」とはいいませんね。
「蚕の卵」といっていますが、本当は間違いかもしれません。蛾の卵といういうほうが正確かもしれません。しかし、農家にとっては蛾よりも、蚕が大切でした。
蚕の無一生は卵がかえり幼虫になります。脱皮を繰り返し、最後は幼虫が糸を出し、自分を包んで中でサナギになります。やがて蛾になった成虫は繭を口からの液で柔らかくしてそこをほから広げて、カイコ蛾となって、外の世界へ出てきます。そして求愛をします。春を震わせてするそうです。しかし、カイコ蛾は胴体が重くて、空を飛べません。
絹糸をとる場合はサナギのうちに行います。交尾が終ると、産卵します。
成虫になって蛾は、オスの場合8日前後、メスの場合は3日前後で死ぬそうです。
卵から還って50日くらいの短い命です。親も知らない卵に命を引き継ぎます。
投稿者: オコジョ at 2009-03-17 18:53:12
良さんへ
18号線から一寸入れば良いのですか・・・
だから残ったともいえますね。
この時も一見の家が新築中・・・
だんだん、消えていく風景かもしれません。
女工哀史で知られる諏訪地区が長野県の代表的な養蚕地だと思われているのですが、上田、小諸地区の養蚕関係は見逃せないものがあります。
ただ、養蚕の衰えとともに発展は止まり、産業の後退が最近では目立ちますね。
投稿者: オコジョ at 2009-03-17 18:53:57
こんばんわ
蚕の一生を解説していただいてありがとうございます☆
初めて知りました。
テレビでも繭のことは説明があっても卵のことまでは説明がありませんから^^
蚕もすばらしい役に立つ一生があるのですね☆
蚕の蛾は空を飛べないのですか!
人の役に立つための一生なんですね。
これから絹織物を見たときはしみじみするかもしれません(*^_^*)
投稿者: アメジスト at 2009-03-17 19:43:09
もう一度、アメジストさんへ
生きること・・・考えさせられます。
ここには、動物好きの人も沢山来るので、書きにくいのですが・・・
一つ書き忘れました野生のカイコ蛾は空を飛べるそうです、
人に変われているうちに飛ぶ必要がなくなってしまった。
今の飼馬は交尾ができません。
種畜牧場は効率がいいように日人工授精・・・
猫を飼うのに去勢・・・
人にそんな権利があるのか・・・
これは動物の権利剥奪ではないのか。
人は罪深い生き物なのかもしれません。
投稿者: オコジョ at 2009-03-17 20:15:31
塩尻
塩尻市の塩尻しか知りませんでした。長野県には他にもこの地名があるのですね。

アイヌ語説・・・興味があります。
岩塩が採れたとか、そういうことはないのでしょうか?
(日本の地層からして、そういうことはまずないでしょうが)

ところで、養蚕ですが群馬県が有名ですよね。もちろん長野でも行われていたのでしょうけれど。
八高線~横浜線は群馬の絹を横浜港へ運ぶための鉄道だと聞きました。
それ以前に八王子には「絹の道」が残っています。
もしや長野から碓氷峠を越えて、絹はやってきた・・・。
と、ここまで書いて思い出しました。女工哀史、ああ野麦峠・・・松本市ですか。

女工さんが絹をつくっていたわけですよね。
投稿者: がっちょーん at 2009-03-18 20:37:00
がっちょーんさんへ
塩尻は愛知県の一宮にもあるそうです。

アイヌ語でシポは、大和言葉の「しほ」とほとんど同じよういみとか、「シリ」は
クナシリ、アバシリのシリで「土地」で、つまり「塩の土地」でも、
がっちょーんさんの指摘のとおり岩塩が採れません。
仮説の一つに過ぎません。

八王子機械製糸所は有名ですね。
八王子の繭は埼玉県と山梨県から供給されたようです。
上田の繭は、上田周辺特に小諸に供給されたと思います。
もっとも、糸になったものも鉄道で運ばれたので
八高線経由だったかもしれません。
群馬県には官営の富岡製糸場、そして桐生織、伊勢崎銘仙も有名ですね。
秩父八高線と横浜線は群馬の絹を横浜港へ運ぶための鉄道だと聞きました。
女工哀史、ああ野麦峠・・・
この舞台は岡谷などの諏訪地方ですね。
小諸にも岐阜や富山からたくさんの女工さんが来ていました。
このことは⇒ http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000228429.html
       http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000228712.html
       http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000228857.html
投稿者: オコジョ at 2009-03-18 21:43:43
 このような屋根のいえがあったかどうかもさだかではありませんが、 確かに子供のとき 蚕を飼っていたのです。と、いっても菓子箱に入るくらいです。蚕食と言いますが このくらいでも すさまじい食べ方で 桑取りに がんばったものです。 繭を作る ありさまを あかず眺めたように思います。
投稿者: 小紋 at 2009-03-19 06:41:07
小紋さんへ
たくさんの蚕が桑を食べる音、凄かったですね。
手に乗せて遊びました。
蚕の成長を見るのは楽しみですね。
今は桑畑も減りました。
投稿者: オコジョ at 2009-03-19 10:15:32

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