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浅間山(2-13 小諸市 小姓より)

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ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、いずれも、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習いの、にわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあろうかと思います。誤りに気がつきましたらご指摘いただけると感謝です。内容を記事に反映させたいと思います。
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2009年02月15日
伴野氏館 佐久市野沢
1
ぴんころ地蔵のすぐそばに城山公園があります。
ここは、鎌倉時代からの地頭、伴野氏の館で、後に規模を大きくして、室町時代から戦国時代初期に本丸として、二の丸、三の丸、出丸などがありました。
伴野城または、野沢城ともよばれました。ここはその本丸部分にあたります。

奥の高台は大伴神社となっていますが、ここは物見櫓がありました。神社の手前は平成14年の確認調査土橋があり南側の入口でした。そして土塁が堀の内側に築かれていたはずです。
2
主郭周囲の水堀は、場所によってはかなり狭くなっているところもありますが城の周囲をぐるっと取り囲み清らかな水が流れています。
また、少しはなれたところにも水路があり、二の丸、三の丸の堀の名残かもしれません。

3
大伴神社です。このあたりは昔は「伴野庄」といわれました。佐久市、望月にも式内社の大伴神社があります。こちらは、大伴氏を祖とするといわれる望月氏の関係ですが、「伴野庄」の「伴」は大伴氏からと考える学者もいるようです。

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大伴神社の屋根と彫刻、なかなかすてきでした。

伴野氏は鎌倉時代初期、甲斐源氏の加賀美遠光とその子小笠原長清が信濃守となり、佐久地方の伴野・大井両荘を支配しました。小笠原長清の六男、時長は伴野荘をまかされ、このを構えて伴野氏を名乗りました。

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大伴神社脇の双体道祖神です。

伴野氏は、弘安八年(1285年)鎌倉幕府への反乱に(霜月の乱)巻き込まれ、伴野氏は所領を嫡流は途絶えますが、一族の末裔、伴野長房が南北朝争いの時に足利尊氏に功績を認められ、伴野氏は再興します。この城も次第に拡張したようです。

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西側の虎口(入口)です。

やがて、もとの同族だった、隣りの大井氏との抗争がはじまり、この平城は戦いに不向きと文明年間(1469〜87)に、詰めの城として前山城を築き、本拠を前山城へと移しました。
やがて、武田軍の侵攻により、伴野氏は武田と手を組みますが、天文17年(1548)上田原の合戦で武田晴信が村上義清に敗れると、武田に反旗を翻し、村上方に寝返ります。しかし、勢力を立て直したたげだ軍により、秋には前山城は落城、伴野氏は武田配下となります。しかし天正10年(1582)武田滅亡後、伴野氏は北条氏につきますが、徳川軍により、前山城は落城、城主伴野信守は討死して、伴野氏は歴史から姿を消します。

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西側の虎口を出ると、こんな感じです。
古民家の土塀と土塁が素敵な風景が残っていました。昔を偲ばせる雰囲気でした。
この道は当時は堀だったことと思います。

伴野氏館は江戸時代になると、公の官庫・陣屋・藩出張所などに使用しました。明治維新後は神社と官公地となり、外郭は失われたものの、昔の面影を残して残りました。

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本丸内は公園化して原型を失っているようです。館の周囲は全て土塁に囲まれていました。いまは、南と東の一部が失われていますが、残りはもとのままといわれます。

内側から見るとただの丘ですね。

11
東側入り口です。こうして土塁を割ってみると高さ3メートルくらいで、幅もたっぷりで立派です。

ここは桜の名所で、秋には桜やケヤキの紅葉がみごとです。
[ 投稿者:オコジョ at 07:02 | 佐久市 | コメント(10) | トラックバック(0) ]
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この記事へのコメント
無題
オコジョさん おはようございます。

春らしく明るくなりましたね・・・。

もう少ししてポカポカ陽気が続くようになったら気持ちよい散歩ができそうですね・・・。
投稿者: ひげ at 2009-02-15 08:37:37
ひげさんへ
こんばんは
今日も暖かでした。
でも夕方から冷えてきたようです。
そちらもいい天気のようですね。

そちらはくうちゃん で賑やかなようですね。
投稿者: オコジョ at 2009-02-15 17:30:02
城山公園には
ケヤキの大木が何本もあり
歴史を感じますね。
オコジョさんのお蔭で伴野氏の
歴史を学ぶことが出来ました。
ありがとうございました。
投稿者: 良さん at 2009-02-15 18:09:02
春の陽気です。
どこも掃除が行き届いてきれいですね。
住民の皆さんが歴史的建造物を守っておられるのがよく分かります。
投稿者: 朝顔 at 2009-02-15 18:18:48
良さんへ
城山公園は 町中の憩いの場ですね。
ケヤキの大木は秋の紅葉の時は見事ですね。
懸命に生き延びようとしたのですが、消えていった
豪族は多いのでしょうね。
投稿者: オコジョ at 2009-02-15 19:04:14
朝顔さんへ
こちらも温かだったのですが、夜になって冷えてきたようです。
明日は冬に後戻りのようです、
歴史的な土地ですが、観光地ではなく、地域の公園の要素が強い公園です。
ここの清掃はどうしているか、わからないのですが、
こちらは地域で定期的に清掃しているところが多いですね。
投稿者: オコジョ at 2009-02-15 19:05:56
古城めぐり
古城をめぐるのは、オコジョさんのお写真を拝見しているせいでしょうか。真夏などよりも、この冬の季節が似合うような気もします。

八王子にも、北条氏の関係の城跡がちょこちょこあります。
私もめぐってみようかと・・・。春の草花を探しにいく途中に。

古城・・・とは全く雰囲気が違うのですが、私は高校生のとき、仲間と奈良盆地の古墳めぐりをしました。
真夏でした。暑い季節の古墳めぐり・・・それはそれで印象に残ります。
投稿者: がっちょーん at 2009-02-15 20:38:01
がっちょーんさんへ
ここは整備されているのでいいのですが、山城で夏草が
茂ったりすると侘しいですね。
山城とか古墳というのは地味なんですね。
山城から石垣があれば上等で、建物があったという広場だけ、
古墳も石室があれはいいのですが、こんもりとした丸い丘・・・
でも、そこの歴史を知っておとづれると想像の脹らむところです。
投稿者: オコジョ at 2009-02-15 21:06:17
虎口を脱する
 土塁は 敵から守るために 必死で積み上げたものでしょうね。元寇土塁 博多に残っています。堀をつくり 石や土をつんで備えた昔の人は なにをたべていたのでしょうか。虎口が入り口って 初めて知りました。
投稿者: 小紋 at 2009-02-16 06:50:37
小紋さんへ
虎口は「小口」とも書きます。敵に攻めにくいように狭い入口とトいうことなのでしょう。
虎口を脱するは「こぐち」でなくて「ここう」とよみますね。戦い時などの危険な場所のことですね。
人が入るの虎口とは「ここう」はやはり敵の来る危険な場所ということでしょう。
投稿者: オコジョ at 2009-02-16 07:40:22

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