
ぴんころ地蔵のすぐそばに城山公園があります。
ここは、鎌倉時代からの地頭、伴野氏の館で、後に規模を大きくして、室町時代から戦国時代初期に本丸として、二の丸、三の丸、出丸などがありました。
伴野城または、野沢城ともよばれました。ここはその本丸部分にあたります。
奥の高台は大伴神社となっていますが、ここは物見櫓がありました。神社の手前は平成14年の確認調査土橋があり南側の入口でした。そして土塁が堀の内側に築かれていたはずです。

主郭周囲の水堀は、場所によってはかなり狭くなっているところもありますが城の周囲をぐるっと取り囲み清らかな水が流れています。
また、少しはなれたところにも水路があり、二の丸、三の丸の堀の名残かもしれません。

大伴神社です。このあたりは昔は「伴野庄」といわれました。佐久市、望月にも式内社の大伴神社があります。こちらは、大伴氏を祖とするといわれる望月氏の関係ですが、「伴野庄」の「伴」は大伴氏からと考える学者もいるようです。

大伴神社の屋根と彫刻、なかなかすてきでした。
伴野氏は鎌倉時代初期、甲斐源氏の加賀美遠光とその子小笠原長清が信濃守となり、佐久地方の伴野・大井両荘を支配しました。小笠原長清の六男、時長は伴野荘をまかされ、このを構えて伴野氏を名乗りました。

大伴神社脇の双体道祖神です。
伴野氏は、弘安八年(1285年)鎌倉幕府への反乱に(霜月の乱)巻き込まれ、伴野氏は所領を嫡流は途絶えますが、一族の末裔、伴野長房が南北朝争いの時に足利尊氏に功績を認められ、伴野氏は再興します。この城も次第に拡張したようです。

西側の虎口(入口)です。
やがて、もとの同族だった、隣りの大井氏との抗争がはじまり、この平城は戦いに不向きと文明年間(1469〜87)に、詰めの城として前山城を築き、本拠を前山城へと移しました。
やがて、武田軍の侵攻により、伴野氏は武田と手を組みますが、天文17年(1548)上田原の合戦で武田晴信が村上義清に敗れると、武田に反旗を翻し、村上方に寝返ります。しかし、勢力を立て直したたげだ軍により、秋には前山城は落城、伴野氏は武田配下となります。しかし天正10年(1582)武田滅亡後、伴野氏は北条氏につきますが、徳川軍により、前山城は落城、城主伴野信守は討死して、伴野氏は歴史から姿を消します。

西側の虎口を出ると、こんな感じです。
古民家の土塀と土塁が素敵な風景が残っていました。昔を偲ばせる雰囲気でした。
この道は当時は堀だったことと思います。
伴野氏館は江戸時代になると、公の官庫・陣屋・藩出張所などに使用しました。明治維新後は神社と官公地となり、外郭は失われたものの、昔の面影を残して残りました。

本丸内は公園化して原型を失っているようです。館の周囲は全て土塁に囲まれていました。いまは、南と東の一部が失われていますが、残りはもとのままといわれます。
内側から見るとただの丘ですね。

東側入り口です。こうして土塁を割ってみると高さ3メートルくらいで、幅もたっぷりで立派です。
ここは桜の名所で、秋には桜やケヤキの紅葉がみごとです。