掲示板お問い合わせランダムジャンプ

浅間山 (9月30日  軽井沢 矢ヶ崎公園より)
P2260751
ここでは、生き物たちや、自然、歴史など紹介していますが、、専門家ではなく、未熟な愛好家に過ぎません。一応は調べて、掲載していますが、六十の手習い・・・
もう70過ぎていますが、年寄のにわか勉強の結果に過ぎません。間違いがあるかと思います。誤りに気がつきましたら、ご指摘いただけると嬉しく、おおいに感謝です。その内容を記事に反映させたいと思います。
また、ご意見、ご感想などをコメントをいただけると嬉しく思います。


営利目的や記事に関係のないコメント、英文のコメントは、予告なく独断で削除させていただきます。

2009年01月27日
佐久 志賀の里にて 4 志賀城(上)
0
何の変哲もない里山です。
地元では三峰山と呼んでいます。
この山の上には志賀城がありました。大きな歴史的には大きな意味合いを持ってはいないのですが、ここは戦国時代には壮烈な戦がありました。
1
三峰山の麓の城源山 雲興寺(うんこうじ)です。背後の山が志賀城跡です。
明応8年(1499)顕宗全高大和尚が開創し、後にここに志賀城主の、笠原新三郎清繁が本格的な寺として再建したといわれています。

2
なかなか味わいのある山門です。

志賀城主築城時期ははっきりしませんが、志賀城が記録に現れるのは戦国時代になってからです。

3
る。
曹洞宗の禅寺ですが、落ちついた風格を感じさせます。
志賀城へはこのお寺が登り口になります。

4
立派な魚板ですね。
木魚の原型、叩いてみたくなります。

武田信玄の佐久進出に最後まで抵抗したのは内山城の大井貞清と志賀城の笠原清繁でした。しかし天文15年(1546年)には内山城は陥落、佐久で最後に残ったのが、志賀城でした。

5
境内からの山門と鐘楼です。
なかなか味わいのある雰囲気があります。

ここは佐久の最後の砦であるとともに、内山城と共に峠を越えて上州に至る交通の要所でもありました。川中島の戦いは有名ですが、武田も上杉も、本当の目的は上州からかんとうに出ることでした。

6
志賀城に登るのは雲興寺の右脇の墓地への道を行きます。
寺の裏手からの雲興寺です。

雪が風光明媚なお寺を引き立てていました。

7
お寺の裏手の墓地にある笠原清繁の墓です。

笠原氏は、諏訪氏の一族であったといわれていますが、歴史的な確証はありません。
この時代の地方の小さな豪族の出身はほとんど不明といってもいいのかもしれません。

8
墓地を抜けると、こんな道になります。
平凡な里山の道です。

しかし、関東管領・上杉憲政は武田のような強力な勢力が、攻めてくるのは、好むところではありません。笠原清繁の酔え姓に二万とも言われる大軍を送り志賀城を攻めているの武田の背後から戦いを挑みます。後の中山道の小田井宿あたりが戦場でした。これが小田井原合戦です。

10
良く、このバランスで落ちないというような石がありました。

この時の勢力は記録によって大きく違うのですが、少な目のほうが本当の数に近いと思われますので、少なめな数にします。
志賀城は兵が300、家族親類を含めて約500がたてこもったといわれます。対する武田軍は約5,000、しかし、険峻な岩に囲まれた城はなかなか落ちません。

11
志賀城の大手は雲興寺あたりといわれます。
この道も笠原氏や武田の軍が戦った道です。

碓氷峠を越えて援軍に駆けつけた上杉の援軍は3,000(多い話しでは2万)、これに対抗して、武田は4,000で小田井原むかい討ちます。早朝に不意を衝かれ、上杉軍は大敗、武田軍の圧勝に終わります。上杉軍の戦死者は大将級の首級15、総数2,000といわれます。(大きい数字の史料は3,000)

20
凄惨な話になっていくので、筆が進みません。話しの続きはまた明日・・・

山道にあったウスタビガの繭です。
美しい緑色で目立つ繭ですが、この時期は抜け殻で、中は空です。
中にサナギがいるときは、葉と同じ保護色なのです。
[ 投稿者:オコジョ at 07:28 | 佐久市 | コメント(10) | トラックバック(0) ]

この記事へのコメント
雲興寺
大きな立派な魚板ですね。
雪も残っていて寒そうです。
ウスタビガの繭、きれいな緑色ですね。
そこだけ春のような・・・
投稿者: えむり at 2009-01-27 07:51:20
えむりさんへ
寒い日でした。
厳しい歴史を思い起こすような・・・

冬の山道ではウスタビガの緑の繭は、鮮やかに目に入ります。
この幼虫たちは卵で冬を越しています。やがて春になるとこの美しい繭を作ります。
そこだけ春のような・・・
投稿者: オコジョ at 2009-01-27 08:34:46
戦い
 必ず通る道なんでしょうが 歴史上の戦いはむごいです。どこの国でも。でも いまだにつづけている・・・・大屋根の雪のように静謐な 穏やかな生き方のぞみたいですが。
投稿者: 小紋 at 2009-01-27 17:30:14
小紋さんへ
小説などでは、勝てば英雄・・・
その影に、無名戦士の死があります。
そして、両親や妻子・・・

ガザの映像を見るたびに、勝利とはなんなのかと・・・

しづかに降り積もった雪、
やがて静かに消えていきます。
そんな平和な営みでありたいですね。
投稿者: オコジョ at 2009-01-27 17:47:25
雲興寺には
行ったことがありますが
志賀城址には行ったことがありません。
東信地区にはアチコチに色々な城が
築城されていたことに驚いています。
投稿者: 良さん at 2009-01-27 18:14:16
楚々としたお寺さん
曹洞宗の禅寺、小さいながら趣がありますね。
雑2,000とは、可哀想な表現です。
家臣とか家来とか言って欲しいですね。
最近寒いですので風邪には気をつけて下さい。

投稿者: 朝顔 at 2009-01-27 19:12:22
良さんへ
雲興寺は私は初めてでした。
なかなか佐久は小さな豪族が協定を結んだ共同体みたいなものでした。村上の傘下ではあっても、協定だけで、家臣ではなかった。
そして、それぞれが小さな城をつくりました。
生きるために必死だったのでしょうね。
投稿者: オコジョ at 2009-01-27 19:59:56
朝顔さんへ
史料の丸写しです。コピペが、話題になりましたが、配慮が足りませんね。
訂正しました。

全体的には、今年は暖かです。
それを肌で感じるのは、今年はまだ足にアカギレができない・・・
人の感じるものも、馬鹿にしてはいけません。
投稿者: オコジョ at 2009-01-27 20:06:51
しかし・・・
そうですか。武田も上杉も、関東に出たかった・・・。
そうなれば、佐久は要衝ですね。戦もおきますね。

(--; でも、武田は何故、小仏峠経由で関東に出なかったのでしょうかね。
激戦では、その土地の農民(そして足軽?)が一番苦労したでしょうに。
投稿者: がっちょーん at 2009-01-27 21:24:41
がっちょーんさんへ
この時代の関東は北は関東管領の上杉ですが、南は北条ですね。
小仏峠経由は手強い北条で簡単には出られません。そこで、力の無い上州の上杉を相手にしようと・・・
それには佐久となります。
投稿者: オコジョ at 2009-01-28 08:51:16

この記事へのトラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://shinshu.fm/MHz/90.97/a08398/0000269093.trackback

この記事の固定URL
http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000269093.html

記事へのコメント
 
簡単演算認証: 5 x 8 + 5 =
計算の答えを半角英数字で入力して下さい。
名前: [必須]
URL/Email:
タイトル:
コメント:
※記事・コメントなどの削除要請はこちら