長久保宿は中山道の日本橋から28番目の宿場として慶長7年(1602)にはじまっています。

こういう風景は好きなんです。
私の父の実家は農家で、囲炉裏がありました。もっともこんなきれいなものでなく、もっと荒削りで、まきを直接燃やし、鍋をかけるようなものでした。
この囲炉裏は中山道の長久保宿の濱屋という旅籠の囲炉裏です。
もっとも、ここは旅籠の人たちが使うもので客用ではありません。

長久保宿は長窪宿ともいいます。
中山道となる前の戦国時代には、武田信玄の信濃攻略の道である、大門街道沿いにあります。大門街道は上田から善光寺への善光寺道でした。ここは分れ道、つまり追分に当たりました。
江戸から来て中山道が左に曲がります。右が善光寺です。
「中山道長久保宿 左ぜんこうじ」と道標がありました。
善光寺参りの人々は、感慨深く江戸に向かう人々と別れを惜しんだのでしょうか。

現在ではどの宿場でも当時の面影を残す建物は少なくなっています。
ここも、宿場の雰囲気は薄れつつあります。
この釜鳴屋ははっきりした年代は不明ですが、江戸初期といわれ、現存する町屋としては長野県で最も古いそうです。
釜鳴屋は寛永の頃より昭和初期まで酒造業を営み、江戸時代には宿場の役職を務めた旧家です。長和町指定文化財されていますが、現在も現役で使われていて公開はされていません。
今は、瓦葺に変わっていますが、当時は、板葺きの屋根に石を載せていたようです。
信州では、風で飛ばされないように、わりと最近まで、板葺きの屋根に石を載せている家が多くありました。
地区に伝わる「長久保甚句」には次のように歌われています。
長久保よいとこ いつ来て見ても
嬶天下に屋根の石
長久保良いとこ 板屋根造り
変わら(瓦)ないから 来ておくれ(長久保甚句)

この建物は母屋の屋根の端に妻壁を突出し、屋根のある「本うだつ(卯建)」があります。
「うだつ」は本来防火壁でしたが後世になると財力を誇示する為の装飾的意味合いが強くなりました。貧乏では当然うだつは作れず、そういう人たちを「うだつが上がらない」と言うようになりました。

長久保宿は、笠取峠に向かう急勾配のある宿です。
江戸時代の案内に「宿あしし」、「わびしき宿」などと記されているそうです。
しかし旅籠は四十三軒で、実際は、下諏訪、追分に次ぐ繁栄ぶりだったという。
しかし、笠取峠と和田峠の難所を控えて、旅人は遊ぶような精神的な余裕がなかったのかもしれません。
和田の峠が 海なら良かろ
可愛主さんと 船かせぎ
青葉がくれに 浅間が見ゆる
笠取り越えゆく 馬子の唄(長久保甚句)

すぐに江戸時代を通じて本陣だった石合家となります。
江戸時代初目に、ここに宿駅が設置されたとき、真田氏の配下でここの代官の石合家が本陣努め、石合家と小林家が半月ずつの交代で問屋場を務めました。
本陣時代の建物としては御殿と表門が残っています。

この家は現在も使われていて、見学は出来ません。
御殿の建てられたのは寛永年間(1624〜44)17世紀後半で、中山道の本陣で最も古いものです。
嘉永三(1850)年の絵図では上段之間、客室、茶之間、台所など22室のほかに、問屋場、代官詰所、高札場が記されています。今でも、上段之間、二之間、三之間、入側等が残っているそうです。
ここは、皇女和宮が関東下向の際の休憩所でもありました。

長久保宿は、笠取峠への『竪町』と和田峠へ向かう『横町』がL字型になってた町並みになっています。
この宿場は幕府の正式の名は長窪村にあったため長窪宿が正式です。
しかし、宿場が栄え賑わうようになると、人気が沈むという「窪」の字は敬遠され、久しく保つ「久保」の字を充て通称として長久保が使われました。
江戸末期には名前の変更を代官所にも願い出ますが認められず、明治時代になって長久保となりました。

ここは明治初期の旅籠として建てたのですが、中山道が廃れて開業されませんでした。
しかし、そのために痛みも少なく幕末の宿の形が好く保存されたものとなっています。
現在は宿場の歴史、民俗資料の展示を兼ねた休憩所歴史資料館「一服処 濱屋」となっています。
山間部の旅籠に多い、出梁造りが特徴的で総二階の大きな建物となっています。

ここは、無料開放されて、セルフサービスですが、お茶を飲むことも出来ます。
長久保宿の歴史や生活文化を知る資料が展示されて興味深いものがあります。

こういう頑丈な梁を見ますと、今の家がいかに貧弱かをつくづく感じます。
建物は一階は荷車や牛馬が通り抜けられる広い通り土間になっています。
街道で荷物を運んだ馬方などの荷車や牛馬を裏にしまうためでした。
資料館として、復元された竈や,桶や樽,田畑や山仕事の道具などが展示してあります。
一番上の写真の囲炉裏もここのものです。

荷車
そんな展示品のひとつの荷車です。