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2006年07月23日
調性
ふと、「調」というものについて考えた。
例によって、車の中でラジオを聴きながらだが……。
ようするに、いろいろな「調」を生み出されているのはいったい何だ、ということだ。
仮に、ハ長調の曲をニ長調で演奏するとする。
現在普通に使われている音階だと、全ての音は均一に分けられているはずだから、相対的には何の問題もないと思われる。
しかし、「〜調」は「…の感じだ」なる評論(?)も耳にするし、絶対音感を持っている人なら
、(聞き慣れた曲であればあるほど)違和感は大きいであろう。
そして、もし、そういう感覚が本当は存在しないのだとすると、作曲家が「調」を意識する意味もないことになる。
そうだとすれば、現実に、そして実際に、各調によって異なる感情が人間の(もしかすると人間以外の生物にも)内に生じさせるのだとすると、人間の感覚には、それぞの波長・振動数に対する、独特の反応が備わっているのではなかろうか。
ここにも、「波動」というものの「機能」を考えるヒントがあるのかもしれないね。
[ 投稿者:chun at 00:44 | 覚書 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2006年07月16日
経験(その2)
この公園へ来て、暫く休息することにしているが、今では、この若木を眺めるのが楽しみの一つになっている。もうこんなに成長したのに、毎日見ている目にはその成長が少しも見えない。
しかしそれは絶えず大きくなっているのだ。私が生きている間に前にあったマロニエのように大きくなるかどうか判らないが、いつかは必ずそうなるであろう。私はこの目に見えない、しかし不断の成長に深く感動した。それはもちろん、フランスでも、パリでもないが、私はこの頃むしろそういうものに牽かれるのである。それは、そういうパリでも何でもないものが、実はパリというものの本当の基礎になっているからである。いわゆるパリと呼ばれ、ある憧れの対象となるもの、それはそういうパリではないもの、ちょうどマロニエの巨木の目には見えないが不断に行われて罷まない成長に比較することの出来る、営みの結果なのである。人間は他人のなしとげた結果から出発することは出来ない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかしその時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成長に牽かれて、そのままうけ取るということではない。そういうことは出来もしないし、出来たようにみえたら必ず虚偽である。数量的見地から純粋に外面的にものを抽象し、分析し、綜合する自然科学ではもちろん事情がちがう。しかしそこでも、頭からすぐ他人の業績の上に築き続けることはできないであろう。たとえ最小限ではあっても、他人が辿った跡をたどりなおす必要があるであろう。
(森有正「旅の空の下で 変貌」)



子供の頃、自宅から祖母の家に行く道の途中に階段があった。私は、何を思ったのか、多分忍者の修行のまねごとでもしていたのかもしれないが、その階段の上から飛び降りようと決めた。しかし、自分の身長よりかなり上にあったその階段の上から飛び降りるのは無謀のことのように思われたのか、あるいはそうすることそれ自体に何らかの価値を見いだしたのか、私は、毎日1段ずつ飛び降りる段を上げていくという計画を立てて、実行した。不思議なことに、ついに1番上から飛び降りられた時の感激は、よく覚えていない。

幼い頃からピアノをやっていた。まあ、真面目に練習する生徒ではなかったのだが、それでも中学生の頃には、どんなに難しいと思える曲も、少しずつ繰り返し練習を積むことにより、それなりに弾けるようになるということが実感できるようになった。その経験が今の自分を形成する大きな部分の1つ(?)になっているような気がする。

森有正氏の「経験」を考える時、大学のキャンパスで聴いた、チャペルからもれてくる、彼が弾くパイプオルガンのバッハが思い浮かぶ。不思議なことにその「音」を思い起こすことはできないのだが。彼の「経験」が、彼の「バッハ」あるいは「バッハを弾く行為」と密接にレゾナンスしているということは、彼の著作の何かで読んだものなのか、その光景に必ず共に登場する大学の先達から聞いたものなのかは、はっきりとはしない。
[ 投稿者:chun at 14:18 | 覚書 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

経験(その1)
バッハの管弦楽組曲を聴きながら……。

純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有(も)っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。
 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲(あざけ)らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已(や)むを得ぬことであろう。
(西田幾多郎「善の研究」)

[ 投稿者:chun at 01:26 | 覚書 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2006年07月11日
熱力学の第一法則 (前前記事の補足)
気体が外圧P に抗して(圧力P のもとに) ΔV 膨張すれば (ΔV>0)、気体は外界に W = PΔV の仕事をする。
気体が外圧P を受けて(圧力P のもとに) -ΔV 収縮すれば (ΔV<0)、気体は外界から W' = -PΔV の仕事をされる。

(仕事が体積変化による場合)
系の内部エネルギーの増加 ΔU は、系が吸収した熱量Q と、系が外からされた仕事 -PΔV (ΔV<0) との和、又は、外にした仕事 PΔV (ΔV>0) との差 に等しい。
即ち、ΔU = JQ - PΔV

系が、熱量Q を吸収して、内部エネルギーが ΔU 増え(温度が上がり)、圧力P のもとに ΔV 膨張すれば、JQ = ΔU + PΔV
ゆえに、系の吸収した熱量Q は、系の内部エネルギーの増加ΔU と、系が外部にする仕事 PΔV とに変わる。


(参考:渡辺久夫著「親切な物理IB・Ⅱ」)
[ 投稿者:chun at 10:38 | 覚書 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

永久機関 (前記事の補足)
第一種永久機関:熱力学第一法則に反して、エネルギーの供給を受けることなく、仕事をし続ける機関をいう。
        エネルギー保存の法則より、そのような機関は存在し得ない。

第二種永久機関:熱力学第二法則に反して、他に変化を残すことなく、永久に仕事をし続ける機関をいう。
        第二法則により、そのような機関は存在し得ない。

(参考:渡辺久夫著「親切な物理IB・Ⅱ」)
[ 投稿者:chun at 10:36 | 覚書 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

熱力学の第二法則
仕事が熱に変わる現象は不可逆である(マクロ)。即ち、他に変化を残さずに、仕事は全部熱に変えることはできるが、熱は全部は仕事に変えることはできない。(トムソンの原理)

熱が高温部から低温部へ移る現象は不可逆である。即ち、熱はひとりでに高温部から低温部へは移るが、ひとりでには移れない。(移るときには、外界に変化が残る) (クラウジウスの原理)

熱は高温物体から低温物体へ移るのでなければ、仕事に変えることはできない。(Maxwell)

摩擦により熱を発生する現象は不可逆である。(Plank)

第二種の永久機関は不可能である。(Ostwald)

宇宙において仕事に利用できるエネルギーは次第に減少している。(Kelvin)

以上により、
或る部分、或いは物体の集まりに着目して系とし、外界と分けて見る。
系の内部に変化があれば、必ず不可逆変化を伴う。
系はひとりでには(外界と関係がなければ、孤立しておれば)、より確率の大きい方へ、即ち、より乱雑な方へ、即ち、よりエントロピーが増す方向へ変化する。

(参考:渡辺久夫著「親切な物理IB・Ⅱ」)


「時間の矢」に関する考察はこれからだな。
[ 投稿者:chun at 10:34 | 覚書 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2006年07月10日
魔法数
2n自乗は「魔法数」と呼ばれるらしい。
但し、今のところ n=7 まで(?)のようだが。
[ 投稿者:chun at 14:11 | 覚書 | コメント(0) | トラックバック(0) ]