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東信ジャーナル[BLOG版] 本館
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2010年05月13日
【真田随想録(上)其の10】   棟綱の消息
 先の文で、海野棟綱の家老・深井棟広が、高野山の宿坊蓮華定院あてに
「山内殿様(注・関東管領上杉憲政のこと)へ本意の儀頼み奉られ候の間、急度還住いたさるべきの由に存ずる計りに候」
 と書き送って、
棟綱が小県への帰還を、強く念願していたことをのべた。しかし、上杉軍の佐久侵攻は、棟綱の思いどおりに運ばずに終わった。そして、棟綱のその後の消息は途絶える。これについて、『真田三代録』(猪坂直一著)に、
「幸隆はやがて武田家に仕えて華々しい活躍をすることになるが、棟綱は全く史上からも伝説からも消えている。思うに、彼はすでに老年であったから西上野の亡命地で海野家再興、信濃還住の悲願も空しく病没したのではあるまいか」
 と書かれてあり、その記述が筆者の感慨をさそった。 
 棟綱は、いずこの地でその生涯を終えたのか、この篇で、その消息を推理してみたい。
 わずかに残る手掛かりは、名胡桃城である。名胡桃城跡は、群馬県月夜野町下津にある。利根川に突き出た台地の上に築かれた城で、後年、豊臣秀吉が、小田原の北条氏政を攻める発端となった、名胡桃城事件で有名な城である。この事件については、後に詳細に述べるが、事件の発端について、頼山陽が、『日本外史』に次のように書いているので紹介しておこう。
「十月、真田昌幸来たり告げて曰く、『沼田に那胡桃城あり。臣が墳墓の地たり。北条氏の将の沼田を守る者、遂にこれを取らんと欲す。臣曰く、殿下、命じて沼田を致さしむ。未だ那胡桃を致すを聞かず、と。彼聴かず。遂にこれを攻め取る。敢えて告ぐ。』と。秀吉大いに怒り、遂に奏して氏政を討たんと請う」
 真田昌幸が、
「沼田に那胡桃城あって、私の祖先の墳墓の地です」
 と、言っていることが、筆者の注目をひいた。墳墓の地というからには、名胡桃で祖先のだれが亡くなったのか、疑問の生ずるところである。吾妻郡なら、海野の支族の広がったところであるから、「祖先の墳墓の地」いう言葉の何等かの手掛かりも考えられるが、利根郡となると、探りようのない、彼方の霧の中の話になる。
 そこで、筆者の推理は、
「名胡桃付近は、棟綱の病没地ではないか」 ということに落ち着く。独断を承知しながら、以下の物語を書くことにした。
 天文十年(一五四一)の夏が過ぎて、榛名の山麓にも涼しい風が吹き、秋の気配が漂ってきた。海野棟綱の病状も回復の兆しが見えてきて、たまには床の上に起き上がれるようになった。棟綱の病気は、現代風にいえば、軽い脳梗塞であったろう。右手、右足が不自由となったが、幸い他に障害はなかった。
「早よう手足の痺れがとれて、出歩きたいものよ」
 棟綱は寂しげに、真田幸隆に向かって、何度となく言うのだった。
「祖父よ、気長に養生することが大事と、箕輪の殿もおっしゃっておられる。しばらくは、このままお世話になりましょう」
「それはありがたいことじゃが…」
 言葉の終わりは、涙声になり、棟綱の目に光るものがあった。
 箕輪城の周囲に、秋の色彩が本格的になりはじめた頃のある日、本丸の庭で、幸隆は、沼田城主の沼田景康とばったり行き会った。景康は、懐かしげに話しかけてきた。佐久侵攻の軍旅以来の再会である。景康は、箕輪帰還後は、所領沼田に帰り、今日はひさしぶりの箕輪城登城であるという。二人は、東屋の縁に腰を下ろし、一別以来の話に花を咲かせた。
 その後、秋もさらに深まり、北にそびえる高い山々が白い化粧をして、里にも冬が訪れようとしていた。
 沼田城の本丸御殿に、城主の景康と、幸隆が、向かい合っていた。城の西側の段丘下に、鈍い色を光らせて、利根川の流れが望まれた。北の空には、上越国境の厳しい白い山並みが姿をのぞかせていた。御殿の回廊から眺める沼田周辺の展望は、幸隆の目を楽しませた。
「お言葉に甘えて、祖父棟綱と共に訪れました。なにぶんよろしうお願いいたしまする」
 幸隆は、深々と頭を下げた。
「いや、なにほどのこともできませぬが、わが領内には、病に効く出湯が多ければ、棟綱殿の療養にもよかろうと思いお誘いしたまで、ゆっくりと逗留なされるがよかろう」
 と言って、景康は、にこやかに幸隆を見つめた。
 二か月前、箕輪城で言葉を交わしたおり、棟綱の病状に話が及んだ。景康から、利根の地には、水上、猿ケ京、法師、湯宿、老神などの´薬効あらたかな出湯があるので、棟綱を連れて湯治にこないかと誘われた。長野業政も湯治を心から勧めてくれた。景康は、業政の養女の婿である。幸隆は、勧めにしたがって、祖父をかごに乗せ、二日かかって箕輪から沼田に到着した。
「ここから西北、利根川の対岸に名胡桃城という城がござる。そこの城主名胡桃下野守の居館の離れが空いているというので、そこを使われるよう手配しておきました。そこから法師、湯宿と湯治に歩かれてはいかがか」
 景康は、すでに宿を決め、棟綱を待っていてくれたのである。その行き届いた心使いに、棟綱も幸隆も心から感激した。
 その夜、棟綱、幸隆の二人は、沼田城の客殿で一泊した。後年この城は、幸隆の三男真田昌幸の支配下となり、幾多の星霜を経ながら、真田家は、沼田に善政をひくことになる。しかし、この時の二人は、そのような将来があるとは、夢にも思わなかった。
[ 投稿者:真田随想録 at 10:59 | 真田随想録episode上(1~10) ]

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