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東信ジャーナル[BLOG版] 本館
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2010年05月13日
【真田随想録(上)其の7】   箕輪城の軍議
 時代小説家の池波正太郎の小説に、『剣の天地』という題のものがある。新陰流創始者で、上州大胡の城主上泉伊勢守を主人公にした、剣聖の物語である。その中で、上州の黄斑(虎)と呼ばれた箕輪城主長野信濃守業政が、伊勢守の盟友として登場する。
 小説の中にえがかれた人間像であるが、
信義にあつい、剛毅な人物として、筆者の心を動かした。文中に、「黄斑の死」という一章があって、信義にあつい資性を、池波正太郎は、こんな言葉で表現している。
「わしは、長い間、身命をかえりみることなく、四辺の敵と戦いつづけてまいった。それは、ひとえに、関東管領家の御為であった。このことを忘れてはならぬ。関東管領上杉家の再興こそ、関東一帯が平穏になることを信じてうたごうな。」
 小説の中の人物像といってしまえばそれまでであるが、海野棟綱一行が、海野家の再興をはかるため、業政を頼っていった歴史的な事実、また、「業政は、知勇を兼ね備えた名将のほまれ高い城主であり、その善政は今も語りつがれている」(箕郷町教育委員会作成パンフレット『箕輪城』から)などを考えあわせると、頼りがいのある、立派な武将であったことがうかがい知れる。
 さて、棟綱・真田幸隆が業政に、初めてのあいさつをかわした翌日、本丸主殿の広間において、佐久地方に軍を進めるための作戦会議が開かれた。広間には、業政の重臣らがならび、上座に上杉家の重臣と、棟綱・幸隆も招かれて、同席した。
「甲斐の武田に異変がおき、信虎は駿河に追放され、長男晴信が武田の家督を継ぐという内紛があった。これを機会に、佐久に侵攻し、われらが勢力を回復せよと、上杉の殿から命令された。また、ここにおられる信州小県、海野城の海野棟綱殿の故郷還住の頼みもあるので、早速にも信濃に出兵したい。そのための軍議である」
 と、業政は、手短にことの次第をのべた。佐久侵攻の軍議は、続いて鷹留城(群馬県榛名町)城主長野業通の出陣計画の説明に移り、数時間にわたる軍議がつづけられた。その結果、明後日、三千騎の軍勢を組んで、佐久に出兵することになった。
「こたびの出陣は、上杉家にとって、家運ばんかいの好機である。諸将のいっそうの奮起をのぞみたい」
 軍議は、業政の督励の言葉でしめくくられた。
「業政殿の傘下の諸将たちのむだのない軍議はさすがだのう」
 客殿に帰って、棟綱は、幸隆に感嘆の声をもらした。要所要所をきしっとしめながら、結論にみちびいていく業政の手腕に、戦の采配そのものを感じ、幸隆もそのとおりだと思った。
 夕日が落ちて、涼しさが城のまわりにただよってきた。幸隆は、ふらりと客殿をでた。御前曲輪から本丸へ、深い堀切をわたって、二の丸に出た。それぞれの郭で雑兵が忙しそうに立ち働いていた。出陣の命令が下されて、それぞれの部署が、必要な物資の調達や、荷造りにかかっている。
 二の丸の東の端に立って、赤城の山を眺めていると、幸隆の肩を叩く者があり、振り向くと二人の武将であった。
「真田幸隆殿とお見受けする。それがしは、沼田城の沼田景康、また、これなるは安中城主安中忠成でござる。以後お心易うおつきあいのほどを願いまする。
 と、丁寧なあいさつがあった。
「ありがたいお言葉、よろしくお願いいたしまする」
 幸隆も深々と頭を下げた。
 あいさつの後、幸隆のために城の中を案内することになって、二人は先にたった。この出会いが、その後の棟綱と幸隆の人生に、それぞれのエピソードをつくるのだが、それは後の話にゆずる。
『真田随想録六、意外な情報』で、かって箕輪城を尋ねたときの印象を書いた。今度この篇を書くに当たって、再度城を尋ねてみて、前回の印象記が、いかに浅薄であったかが分かった。前回は、搦手口から二の丸に入り、本丸、御前曲輪だけをみて、これが箕輪城の全部と思いこんでしまったが、実はこれらは、城のほんの一部に過ぎなかった。
『箕輪城物語』(箕郷町教育委員会発行)によれば、「城跡の広さは、東西八百メートル、南北一、一〇〇メートルに及び、総面積は十七万八千八百余平方メートル、本邦の山城として大規模のもののうちに数えられる」とある。いかに壮大な城跡であるかが分かる。今回、筆者は、大手虎蹈門口から入り、鍛治曲輪、三の丸を経て、中央コースにいたり、コースなりに二の丸、本丸、御前曲輪、さらに、裏側のからまつに覆われた深いから堀の中の道を一巡して、三の丸に戻るという順で、城の面影をしのんだ。
 城跡への入口は、大手虎蹈門、搦手口のほか大手尾根口、観音様口、椿名口とあって、それぞれ中央コースに集まっている。長野氏在住時代をへて、井伊直政のときに大改修が行われて、現在の城になったと伝えられるから、業政のときの城の規模は、箕輪城物語にもあるように、さらに大きいものであったであろう。
 景康、忠成、幸隆が城内を一巡するころ、夕闇が落ちてきた。各郭では、かがり火が焚かれ、人の動き、話し声で喧騒をきわめていた。幸隆は、二の丸で二人とわかれ、御前曲輪へ帰った。幸隆は、城内を一巡してきたことを、棟綱につげた。そのときの幸隆の気持ちは、沈着な性格に似ず異常に高ぶっていた。この規模の大きい、守りにかたい城の印象の彼方に、故郷の、小さい山城、松尾城の面影が心をよぎった。
[ 投稿者:真田随想録 at 10:54 | 真田随想録episode上(1~10) ]

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