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東信ジャーナル[BLOG版] 本館
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2010年05月13日
【真田随想録(上)其の3】   再起への逃亡
 上田の市街地を抜けて、国道十八号線を東京方面に向かうと、やがて神川を渡る。橋際に蒼久保という信号機があり、T字路になっていて、角は両サイドとも段丘に続く崖である。崖は、高い樹木に覆われているが、その林の中に、海野幸義戦死の遺跡が残っている。
 海野幸義は、
海野棟綱の長男である。天文十年(一五四一)に行われた小県・海野平の合戦で、壮絶な戦死を遂げ、甥の真田幸隆は、九死に一生を得て、上野の地に再起を図るべく逃亡する。以下その経緯を再現してみよう。 千曲川と依田川の合流点を見下ろす尾野山城の望楼からは、神川の左岸に広がる海野平が、一望に俯瞰できる。その望楼の脇に床机を据えて、三人の武将が軍議を開いていた。甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重、坂城の村上義清の三人である。
 さっきまで降り続いていた雨が止んで、西の空に青空が少し広がり、夕陽が顔をのぞかせた。三人の顔は、赤く染まり、沈鬱気である。
「この戦いも今日で十日近い。海野もなかなか頑強なものよ」
 年老いた武田信虎が口を切った。
「降り続く雨の中の合戦はしんどい。そろそろ決着をつけねばなるまい。のう頼重殿」
 のぞき込むような村上義清の視線を受けて
「そろそろ総攻撃の頃合、西と南と東の三方から一気に雪崩れ込むとしたらいかがであろうか、ご両所」
 という頼重の言葉に、信虎と義清はうなずいた。
 明後日の五月二十五日、一斉攻撃ということが決まって、軍議は幕となった。再び空は閉ざされ、細かい雨が落ちてきた。甲斐、諏訪、坂城の三派連合軍は、武田は佐久地方を、諏訪は依田窪を、村上は小県の千曲川右岸地帯を切り取るために、東信濃の雄・海野一族を攻略しようと、結束したのかも知れない。その理由は、つまびらかではない。高白斎記(武田信虎、信玄に使えた家臣の駒井高白斎の筆録)には、「天文十年、五月小二十五日、海野平破、村上義清、諏訪頼重両将出陣」とのみ記されている。また、『諏訪神使御頭之日記』には
「この年の五月十三日、頼重、武田信虎へ合力のため海野へ出張す。同じく村上殿三大将同心にて尾山(尾野山)攻め落とされ候」(上田小県誌)
 と記され、「合力」あるいは、「同心」という程度の表現しか残されていない。海野を攻める利が、三者とも自己の領地拡大という利に繋がっていたためであろうか?。
 三派連合の頭目的立場にあった甲斐の武田は、武田家十八世の武田信虎の時代である。武田家は、源頼信が甲斐の国守として赴任し、四代目の新羅三郎義光が、武田家第一世となったと伝えられる。その後幾多の消長をへて、永正五年(一五〇八)第十六世武田信昌の時、時の守護代跡部一族と戦い、武田家の勢力を回復する。信昌の子、信縄、信恵は、壮絶な家督争いをするが、信縄の死後信虎が家督を継ぎ、守護となり、長い辛苦の末、甲斐を平定する。そして、天文九年(一五四〇)初めて、信虎は信濃に進出、佐久・海の口城を占領した。この時から、「北方志向」という甲斐の国是が固まったという。
 他方、諏訪の諏訪頼重は、諏訪神社上社の大祝(神官)という諏訪惣領家としての家系を持ち、諏訪郡一帯を支配してきた名族でもあった。信濃一宮の大祝としての支配、縁戚関係も小県・佐久地方には多い。また、諏訪から和田峠をこえると、そこは小県の地・依田窪である。さらに北に進めば上田平に出ることができるし、また、東に向かえば佐久平に通ずる。まさに依田窪は要衝の地である。
 村上義清の家系と野望については、すでに述べた。こうしてみてくると、武田、諏訪、村上が、まさに「合力」して、海野一族を攻めようとした理由が分からないでもない。
 天文十年五月二十五日の早朝である。低く垂れこめた雨雲は、周囲の山々を閉ざし、激しい雨を落としていた。尾野山の砦にはおびただしい旗幟が風になびき、出陣の響みが聞き取れ、三派連合軍の旺盛な戦意が読み取れた。
「幸隆よ、いよいよ敵の総攻撃の時が来たようだ。この戦は、残念ながら負けじゃ。昨日も言ったように、父を連れて上野に逃れ、海野家の再起を図ってくれ。きっとじゃぞ」
 神川べりに立った海野幸義は、必死の形相で、幸隆に言い渡した。幸隆は言葉を返そうとしたが、それはできなかった。海野家再興という言葉に、幸隆の心は揺れ動いていた。そして、今や逃亡決断の最後の時であった。(伯父の意思は果たさねばならぬ)
それは、逃亡という空しい行く手にのみある願いである。幸隆は、逃亡を決意した。
 この日決戦のさなか、幸隆は、祖父海野棟綱を連れて、逃亡に成功する。そのことを、『真田御武功記』ではこんなふうに記している。
『真田弾正忠幸隆、雜説に左京大夫戦死の時、既に討死と思ひ究めたる処に、神女来たりて、鉾を逆さまに持ち「宜しく此の鉾を以って敵陣を破り、此処を遁れ出て時を待つべし。末は目出度からん。妾は白鳥明神の御使也」とて鉾をば弾正に渡して行方知れず成り給う。異端疑うべからずとて、一門郎従其の他与力同心、真丸に引きまとって、殊に大勢囲みたる方の真中へ突きて蒐り給ひば、敵勢ひらき靡き、敢へて付き慕い来らざれば、足を乱さず静かに立ち退き給うなりと』
 幸義の神川河畔の戦における壮絶な死と、幸隆の上野への逃亡は、海野家の係累真田家の再興に繋がり、そのことを通じて、海野一族の在りし日の光芒を世に残す結果となった。

[ 投稿者:真田随想録 at 10:45 | 真田随想録episode上(1~10) ]

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