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東信ジャーナル[BLOG版] 本館
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2010年05月13日
【真田随想録(上)其の2】   北の脅威
 平成八年十一月十四日、上信越自動車道小諸・更埴ジャンクション間が開通した。千曲川沿いの東部町、上田市、坂城町、戸倉町、上山田町は、この高速道の開通によって、首都圏と短時間で結ばれ、陸の孤島とも言われた状況から解放されることになった。沿線住民が歓喜したことはいうまでもない。
 この開通は、
筆者の心を別の感慨に誘った。上信越道は、上田菅平インターを過ぎると、太郎山の直下を貫通し、坂城インターに至る。上田菅平インターは、戸石城の直前に位置し、また、坂城インターは葛尾城の間近である。両インター間は、乗用車で六、七分であろうか。その昔、坂城・葛尾城の城主村上義清が、東信濃の制覇をねらって、戸石に城を築き、ここに将兵を送り込んだ時、千曲川を遡り、太郎山の南麓を迂回して戸石城に至る所要時間は、徒歩で五、六時間は要したであろう。タイムトンネルを潜り抜けて、今の世に村上義清が現れたとしたら、坂城から所要時間の上で近くなった戸石城への行程の変わりように、どんな思いを抱くだろうか。
 それはさておき、話を戦国時代の昔に戻そう。
 東太郎山の尾根は、神川に沿って南へ次第に低まりながら、伊勢山の背後戸石で、急坂となって平地に落ち込む。その戸石の松林の中で、上田盆地から佐久平地方一帯を凝視しながら、村上義清は、部下の楽岩寺雅方、依田新左衛門、布下仁兵衛政朝に向かって、こんな言葉をかけていた。時は天文初期。
「小県一円から海野一族を駆逐し、わが手に覇権を握るには、ここは絶好の戦略拠点になるだろう。かってここには、海野の砦でがあったと聞く。楽岩寺よ、おまえたちは、ここに難攻不落の城を築け」
 村上義清の口調は極めて強かった。
 村上家は、義清の祖父政清の時代から、版図を広げるため、小県全域を勢力下にと、野望を抱いていた。文正二年(一四六七)には、政清はすでに、海野氏を攻め、これを破り、塩田地方を手中に収めていた。以来、その子顕国、孫義清は何とかして、東在地方(小県の千曲川右岸の地、今の東部町、真田町を指していう)を領土にしたいと、虎視眈々と狙っていた。その地に勢力を張る海野一族は、政清に破れたとはいえ、なお、その力は侮り難かった。村上義清は、塩田の地からの侵略では、限界があると考えていた。海野城を指呼の間に望む戸石の地こそ、戦略上最高の場所と考えたのは無理もない。そのうえ、兵站線も和平高原越えに洗馬地方に出、根小屋砦を経由すれば、最短距離となり、危険性も少ない。
「おまえたちが城を築く間、わしは、神川を渡って、ここから脚下に望む、原の郷や下郷に進出することにしよう」
 言い終わって村上義清は、口元に笑みを浮かべ、得意気に三人の幕僚の顔を見回した。 ここで、坂城・村上家の歴史について少し語っておこう。
 村上一族もまた、海野一族に劣らぬ名家との評伝がある。その評伝には次のように書かれている。
「その先は村上天皇の孫・参議憲定が源姓を賜り、鎮守府将軍源頼信の二男頼清を養うて嗣としたのに始まるという。頼清は陸奥守となって東国に下り頼信と共に東夷の征伐に従ったが、その孫の一人宗清が信濃国更級郡村上郷に住んで初めて村上家を称した。(中略)元中年間の村上義国が千曲川の対岸の坂木(現埴科郡坂城町)に城を築いてこれに移った」
 系譜の真偽は別として、信濃守護小笠原長秀を、国人衆が破った戦いである大塔合戦(一四〇〇年)では、村上満信が国人衆の指導的な役割を果たし、以後、大いに勢力を振るい、北信濃一帯を制覇したところを見ると、当時、村上家がいかに強力な名門土豪であったかが、うかがい知れる。
 東信濃の海野家と、北信濃の村上家の二大勢力は、共に名門の誇りを競い合いながら、長い間攻防を繰り返してきた。そして、村上家の勢力は、村上義清の代にいたって、頂点に達したものと思われる。
 それは同時に、海野家の勢力の衰退につながっていった。真田家にも当然累が及んだ。
「隆正よ、戸石の山では、今日も炊煙が高く上がっているな。村上の将兵が城を築いているような気配だ。村上もいよいよわれらが一族に向かって、徹底した攻撃を仕掛ける準備に入ったのだろうか?」
 真田幸隆は、真田城から南西へ、直線で二キロメートルとない戸石の山頂に向けて、不安気な視線を這わしていた。真田家の家臣であり、幸隆の良き友でもある、河原隆正もまた、食い入るような視線を投げている。
「村上の勢力を食い止める術はないものか」
 幸隆の声は、力なく虚空に流れた。
 砥石に城が築かれ、村上の戦略拠点が整備されれば、神川左岸にも村上の勢力が強まり、真田と海野の連絡が遮断されて、真田は孤立する。そのときのわが家の命運は?、と考えると、幸隆は気が気ではない。
 かって、山家郷の小豪族として、手を取り合ってきた曲尾や横尾の諸氏も、村上の北からの進出によって、史上から姿を消した。わが家もその轍を踏まないという保証はない。
「殿、村上ごときに負けてはなりませぬぞ」
 長い沈黙の末、隆正の晴天のへきれきのような声が、鋭く幸隆の心に突き刺さった。幸隆の心から鱗が取れた。懸命に隆正の言葉を反芻した。負けるものか、という幸隆の本来の剛毅な精神がよみがえった。
 後に、真田幸隆は、戸石城の調略に死力を尽くし、ついに、村上義清を小県から敗走させ、北からの勢力を一掃した。幸隆の長年の辛苦を支え、本領回復を果す契機となった、河原隆正の松籟の中の戒の声であった。
[ 投稿者:真田随想録 at 10:42 | 真田随想録episode上(1~10) ]

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