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東信ジャーナル[BLOG版] 本館
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2010年05月13日
【真田随想録(上)其の1】  二つの家系
 天文初年初秋のある日、海野城の主殿の客間に、二人の人物が対座していた。
 一人は、東信濃随一の名家と称される海野家の当主海野棟綱。一人は棟綱の外孫の真田幸隆である。幸隆は、初々しい青年の相貌を輝かせて、老いた棟綱に、海野の家系について、質問していた。
「今までのお話で、清和天皇の皇子貞保親王が信濃に下り、その子善淵王が滋野氏を称し、さらに、滋野氏から海野家が分かれた家系ということは分かりましたが、貞保親王が何故都から信濃に下ったのか、その辺のことを聞きとうござる」

 幸隆の心に、幼少の頃、父頼昌から寝物語に聞いた貞保親王の話が、おぼろげに記憶に残っている。
「それは以下のようなことよ」
 と、棟綱は身を乗り出して語った。その話を、真田一族の伝記である『滋野通記』の中から意訳して語ってみよう。
「ある書に書かれているが、貞保親王は、琵琶が上手で、その名声は世に高かった。ある時、親王が琵琶を弾いていたところ、妙なる音に誘われて、燕が飛んで来て、御殿の上を舞い遊んだ。運悪く、燕がたまたま糞を落とし、親王の顔をけがされた。そのため親王は御目を患うことになり、治療を尽くされたが、痛みは取れなかった。一方、信州深井の何某が都にいて、同国加沢温泉の効能を申しあげた。そこで、親王は信濃へ下られ、温泉に浴されたところ、御痛みが治った。けれども片方の目は見えなくなったので、都へは帰ることなく、そのまま、海野の里に御所を造られ住まわれた。この時、深井何某が娘を宮仕に参らせところ、程なく御子が生まれ、善淵王と名付けられた。醍醐天皇の時に、初めて滋野姓を賜わって、大納言に任じられ、正三位に叙せられて、信州の大守となった」
 棟綱は、いかに立派な系譜を持つ家系であるかを、言葉を尽くして幸隆に語った。最後には、家系図を記した巻き物を広げて、説明した。巻き物は、家系を引き立てるように、豪華な装丁が施されており、幸隆の目を奪った。
 幸隆は、母方の家系が連綿として続き、衰退することなく今日にいたっていることを聞いて、うらやましく思うとともに、家を興し、家を守り、後世に立派な家系を伝えていくことは、大事なことと思った。
 棟綱が得々として語ったように、海野家の祖先が、清和天皇系の出であるかどうかの真偽は、詳らかではないが、歴史上の早い時期から、滋野氏が東信濃一帯に大きな勢力を持った武家であり、それが後に海野、祢津、望月に分かれ、そのうち、特に海野家は、滋野三家の盟主として、栄えていったことが、いろいろな筆録に残されている。海野家がこの地方の名家であったことは疑いを挟む余地はない。そして、海野の支族が、当時の国を越えて、西上野一帯にまで広まっていったことを見ても、その隆盛の一端がうかがえる。
(わが真田家はどういう祖先を持つ家系なのだろうか?)
 棟綱の話を聞きながら、幸隆は疑問を持っと同時に、山峡の里・真田に住む、小さな土豪に過ぎない真田家が、海野家のような輝かしい家系を持つとは考えられないが、海野に縁を結ぶ家であるからには、それなりの家系を持ち、真田の里を支配し続けてきた家であることは、間違いないと思った。
 それからしばらくの期間、幸隆は、わが家の家系について、倉に保存されている資料を丹念に調べてみたが、古い時代のことを示す資料は見当たらず、はっきりしたことは分からなかった。ただ、最近のこととして、大塔合戦(一四〇〇年)や結城合戦(一四三八)のおり、真田の祖先が武将として出陣し、武功を立てたことは、資料の中の筆録に残されていたことから、わずかに家系の一端を知ることはできた。
 幸隆が住む真田は、山家郷と称する村里の一角にある。狭まった谷の奥には、霊峰四阿山が裾野を引いているのが望まれ、その山を源流に、清冽な流れの神川が、山家郷を潤している。山家郷というみやびな古名に表象されるような雰囲気が、この郷を包んでいる。
「幸隆殿の祖先が、この地に根を下ろし、土豪として今に至ったのは、こんな風に想定されますよ」
 山家郷の土産神である山家神社の神官で、郷土の歴史に詳しい老人がある時、幸隆の疑問に答えてくれた。
「聖武天皇の時代、信濃の国府が上田に置かれた時、国牧の牧監として住みついたのが、真田氏の祖であり、その後、国府が松本に移り、国牧は、私牧に変わっても、牧場経営を続けながら、土豪として存続してきたのではないでしょうか。それはそれとして、私のように、歴史を調べていると、隆盛な家も必ず衰退や滅亡があるという、人の世の栄枯盛衰の厳しさを痛感します。家を興し、また滅亡、衰退しないために、どうすればいいか、それに気付くことが大事、幸隆殿も家系や祖先のことなど尋ねるのは、二の次にしなされ」
 老神官の話は、幸隆の胸を打つものがあった。わが家は、勢威のある土豪ではない。それに盟主の海野家も昔日の隆盛は影を潜め、村上義清の勢力に押されがちである。騒然としてきた世の中を考えると、老神官の言うように、旧き名声におぼれ、家系の誇りのうちに過ごすだけでは、滅亡は明白だと思った。
(わしは、わしなりに世を動かすことのできる真田家を作りあげねばならぬ)
 ぼつ然と、幸隆の心に激しい気概がわきあがってきた。
 この気概を原点として、真田家中興の祖と言われる幸隆は、艱難と辛苦の末、戦国時代有数の家系を作りあげた。一つの家系は歴史の中に消え、一つの家系は、高名を残した
[ 投稿者:真田随想録 at 10:41 | 真田随想録episode上(1~10) ]

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