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東信ジャーナル[BLOG版] 本館
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2009年02月13日
【真田随想録(上)其の28】 瀬沢合戦記
 最近、長野県文化財保護協会会長の黒坂周平氏の書かれた『信濃に相争った戦国英傑合戦記』という文を読んだ。この文の中で、氏は「信濃の国は生産力が豊かであった」と、古書に記載された信濃の水田の面積を挙げ、指摘していた。おもしろい指摘だと思った。一方、作家の坂本徳一氏は、武田信玄の佐久侵攻戦に触れた紀行文の中で、「佐久の美田が甲斐の領土であったならば(甲斐に)餓死するものは一人もいないと、信玄は夢を膨らましていた」と佐久侵攻の理由を説明していた。筆者は、この異なる二つの文は、甲斐の国是であった「北方志向」を余すところなく表現していると思った。信濃の生産力豊富な美田の広がりが、武田の信濃経略の原点となったという視点に、筆者は目を開かれた。
 そこで、そうした視点をふまえ、侵攻された側の悲話も含め、天文十一年(一五四二)の信玄の信濃経略を追ってみたい。この時点、真田幸隆は、上野にあって、故地還住を願い、奔走していた失意の時代であった。
 さて、信玄の信濃経略は、瀬沢合戦を前哨戦とする。この戦いは、信玄の攻撃的な精神を刺激した一戦でもあった。勘助の語りとして続けたい。
 天文十一年(一五四二)三月のことである。信濃の戦国武将小笠原長時(松本)、村上義清(坂城)、諏訪頼重(諏訪)、木曽義康(木曽)の四将は、連合して、甲斐攻略のための旗を挙げた。父信虎を駿府に追い、新しい甲斐の国主となった信玄の、信濃攻略の危険な、若い芽を摘み取ろうとする意図が、四将にあったのであろう。これを信玄が、甲信国境の瀬沢(長野県富士見町)に迎え撃った合戦が、瀬沢合戦である。この合戦の模様は、『甲陽軍鑑』の品第二十二「甲信堺せざは以下合戦の事」に記されている。
 それによれば、信濃連合軍の来攻を聞いた武田家の宿老たちは
「一、駿河の今川義元に援軍を頼むこと。二、海尻城(長野県小海町)在番の将士を引き上げて兵力の増強を図ること。三、武川口(山梨県武川村)と若神子口(同須玉町)の二陣に分かれ、国境において待機の上合戦すること」
 という作戦を提案した。
 これに対して、信玄は、

「一、義元に加勢を願うことは、その配下になることになる。自分の将来を考えると、それは口借しいことである。また、駿府にいる父(追いやった信虎)のさげすみを受けることも無念である。二、小国の小兵力を持って、大国・大兵力に立ち向かうことが肝要であり、やり方によって勝利を得るのが、弓矢の作法である。三、我々は地元での戦いであるし、敵は烏合の衆、相談も纏まりにくいであろうから、合戦がやりやすい。したがって勝利は間違いない」
 と答えたという。剛毅・沈着な若き闘将信玄の一面がうかがえる話である。
 さて、信玄は以上の考えを、宿将に示した上で、敵の各所領へ間者を放ち、「信玄は館の堀を広げて敵の侵攻に備えている」という流言を流すと共に、情勢を探り、慎重に作戦を練った。
 一方、小笠原以下の信濃四将の軍は、瀬沢に三日間、軍を休めたのち、甲府に侵攻しようと軍議をまとめていた。
 これを察知した信玄は、
「即座に侍大将、足軽大将を、めしよせられ時刻をうつさず、われいちましに、打立候へ」(甲陽軍鑑)
 と全軍に下知している。「われいちましに、打立候へ」とは、「時を移さず、われがちに出陣せよ」と言うことである。
 躑躅ケ崎の館に集まった諸将に向かって
「信濃の諸将は、わしを亡き者にし、甲斐の国を乗っとろうと、攻め入ってまいった。ここで負けるようなことがあれば、甲斐は信濃勢に蹂躙され、領民は塗炭の苦しみをなめることになる。この戦いに、わしは決死の覚悟で臨む。皆もわしに続いて出陣せよ」
 信玄の大音声が響き渡り、喚声が上がった。その声が、館の庭に焚かれた篝火を、揺らすほどの閧の声に変わった。
「今、ただちに出陣する理由は…」
 と信玄は、言葉を続けた。それを甲陽軍鑑(口語訳)は、次のように記している。
「その理由は、敵方が一日休息したうえで、若神子口(佐久方面)、武川口(諏訪方面)などに分かれて攻め込んでくるならば、こちらも兵力を分けねばならなくなる。となれば、八千の兵力を二つに分けては危険な合戦となるであろう。信州は大国ゆえ、敵の兵力は味方の二倍としても一万六千となる。味方一人に敵二人の戦いならば、こちらは地元での戦いであるから、経験は豊富である。諏訪頼重と村上義清をさえ切り崩したならば、木曽、小笠原の両大将は、われを忘れて鎧の背を見せ、にげ散るであろう」
 敵の動きを見て、機敏な行動にで、機先を制した信玄の作戦は、見事というほかはない。合戦は、信玄の考えたとおりの勝利の結果に繋がった。虚をつかれた信濃勢の周章狼狽ぶりが目に写るようである。
 さて、この合戦は、天文十一年三月九日の午前八時に始まり、午後二時に終わった。
「信濃勢を討ち取ること千六百二十一名、その頸帳を記し、勝どきを上げられた。味方にも負傷者・死傷者が多数あり、飯富兵部、甘利備前も負傷した。信州瀬沢合戦とはこれである。信玄公が二十二歳の御時であった」と、『甲陽軍鑑』は戦果と損害を記して、「品二十二」を締め括っている。
 この後、諏訪、小笠原、村上、木曽の諸将は、信玄によって、攻略されていく運命をたどる。その運命は、信玄が信濃の生産力に目をつけ、信濃経略に意欲を燃やした結果であって、瀬沢合戦の報復などという小事でなかったことは間違いない。 

[ 投稿者:真田随想録 at 11:14 | 真田随想録episode上(21~30) ]

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