掲示板お問い合わせランダムジャンプ



この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。 新しい記事を書くことで広告を消すことができます。

東信ジャーナル[BLOG版] 本館
真田随想録以外の記事は本館をご覧ください。
http://shinshu.fm/MHz/22.56/

2009年03月10日
【真田随想録(上)其の60】 戸石城攻略
 「五月大、朔日戊子廿六日節、砥石ノ城真田乗取」という記事が、『高白斎記』に載っている。詳述すれば、天文二十年(一五五一)五月二十六日、坂城・葛尾城主村上義清の東信濃における前進基地戸石城(上田市神科地籍)を、武田信玄の信州先方衆・真田幸隆が、攻略したということである。至極淡々とした記載である。


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:07 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の59】  苦渋の中の戦果
 「幸隆は、うい奴じゃのう」
 一通の書簡を手に、武田信玄は、山本勘助に語りかけた。躑躅ケ崎の館の書院の窓から、すでに冠雪した赤石山脈(南アルプス)の山並みが望まれた。初冬も近い十月中旬のことである。


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:05 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の58】 戸石崩れ(四)
 「ここ二、三日の武田の動きは、何か慌ただしいものがあるように思われるが、そちはそう思わぬか」
 戸石城の望楼から、虚空蔵山の武田信玄の本陣をにらんでいた村上義清が、幕僚の布下仁兵衛雅朝(小諸・堀之内城主)に声を掛けた。天文十九年(一五五〇)九月二十八日の深更である。本陣が据えられた辺りは、赤々とかがり火が焚かれ、陣幕の回りには、見張りの兵の人影も見える。
「軍議でも開いているやに見て取れますが、何をたくらんでいるのでありましょうや」
 仁兵衛は答えを返した。


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:04 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の57】 戸石崩れ(三)
 「なんと、これは幸隆殿、今ごろ何事でありますかな」
 天文十九年(一五五〇)九月二十七日の深夜のことである。真田の里・旗見原の長谷寺の庫裏の戸をたたく者があった。住職の晃運が戸を開けると、武装姿の真田幸隆の姿がそこにあった。寺尾城落城の日の夜である。
「釈迦如来のおん前に座したい。一人にしてはくれまいか」
 そういって、幸隆は本堂に通った。憔悴しきった顔つきであった。
「よしなに…」


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:03 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の56】 戸石崩れ(二)
 「其方年来の忠信祝着に候、然れば本意の上に於ては、諏訪方参百貫並びに横田遺跡上條都合千貫の所これを進め候 恐々謹言
 天文十九庚戌七月二日  晴信(花押)
真田弾正忠殿(真田家文書)」この文書は、天文十九年(一五五〇)七月戸石城攻めの直前に、武田信玄が真田幸隆に与えたものである。これまでの忠節をほめ、本意・すなわち戸石城が手に入ったら、ほうびとして諏訪形と横田遺跡上條の土地を与えるという約束の書状(宛行状という)である。両地籍とも上田市の三好町かいわいといわれている。


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:02 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の55】 戸石崩れ(一)
 天文十九年(一五五〇)の春を迎えると、武田信玄の信濃経略の動きはさらに活発になった。その時、信濃最強の敵は、坂城・葛尾城主の村上義清である。二年前の天文十七年、上田原において義清と戦い、信玄は苦杯をなめた。信玄初の敗戦である。
 そして雌伏二年、塩尻峠の合戦で小笠原軍を破って、長時を筑摩に封じ込め、佐久に転戦して、反旗を翻した諸将を下し、再び佐久を平定した。こうして、勢力を盛り返した信玄は、四月筑摩に侵入、ついに、七月十五日長時の居城・林城を攻め落とし、長時を義清の下へと追いやった。


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:01 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の54】 松尾城の謀計
 真田幸隆は、岩尾城々代であった天文十五年(一五四六)、謀略をもって村上義清の将兵五百人余を、岩尾城におびき寄せ、一人残さず討ち取ったという。真田氏一族の伝記・『滋野通記』に登載されている話である。このことを筆者は、第三十六篇・岩尾城異聞で書いた。実は、この話には、岩尾城とするほか、松尾城、烏帽子形城とする以下の説があるので紹介しておこう。『一徳斎殿御事蹟稿』の記事である。
「〇大日方直貞考 真田弾正忠幸隆公、村上義清人数三百人(或ハ五百人ト云ウ)計策ヲ以ッテ討チ取リ給フ城、三アリ。名、謹ミテ考フ。
一、松尾城ニテ謀計(タバカ)ルト云フ説
『真武内伝』ニ曰ク、村上軍士ヲ密ニ真田居城ヘ引キ入レ(信州烏帽子形城、或ハ同国松尾城トモ云フ)本塁・三ノ塁ヨリ卒(ニハカ)ニ矢炮ヲ飛バシ、刀鎗ヲ揮ヒ、五百ノ遑(テイ)兵、一騎モ漏ラサズ討チ捕ル。而シテ城兵少シモ死傷ノ者ナク、是レ、幸隆ノ奇謀ニ依ル也。『滋野世記』ニ曰ク、松尾城ニテ討取ル。
一、烏帽子形城〔真武内伝〕ト云フ説
 此ノ一書ノ外、見聞ナシ。烏帽子形城、松尾本丸ヨリ辰ニ当リテ一里余山奥ナリ。原村・矢沢村ヨリ東ノ山ヘ入ル事一里、禰津村ヨリ北ニアタル也。此ノ城ニ幸隆公居城シ玉フ事、見聞ナシ。昌幸公御代、百姓杉原四郎大将ニテ籠ルト云フ説アレドモ、是モ此ノ城ノ事ナルニヤ決シ難シ。此ノ山深キ不便利ノ地ニ、何ゾ幸隆公住ミ玉フベキ、猶図シテ後考ニマツ。
一、岩尾城村上人数引キ入レ、討チ取ルト云フ説
 (略・第三十六篇「岩尾城異聞」参照)
 さて、松尾城説は、「戸石合戦記」として、『一徳斎殿御事蹟稿』の中之巻に詳しく記されているので、その模様を再現してみよう。


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 10:59 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の53】 要害戸石城
 昨年の秋(平成九年十一月九日)筆者は、戸石・米山城に登った。登ることになったきっかけは、戸石・米山城にまつわる話を、二十分程度山の上の城跡で話してくれないかと、神科商工振興会から依頼されたからである。同振興会は、上田市神科地区の商工業振興のため、商工業者が会員となって、組織されていて、活動が活発な振興会である。

続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 10:57 | 真田随想録episode上(51~60) ]

【真田随想録(上)其の52】 孤影の果て
 「戸石城を攻める前に、やっておかねばならぬことがある。それは、府中(松本市)林城の小笠原長時を壊滅することじゃ」
 躑躅ケ崎の館の広間に、武田信玄の大きな声が響いた。居並ぶのは、信玄の弟・典厩信繁をはじめとする重臣たちである。
「長時は、二年前の塩尻峠の合戦において、わが軍に大敗し、林城にこもったままである。

続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 10:55 | 真田随想録episode上(51~60) ]