掲示板お問い合わせランダムジャンプ



この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。 新しい記事を書くことで広告を消すことができます。

東信ジャーナル[BLOG版] 本館
真田随想録以外の記事は本館をご覧ください。
http://shinshu.fm/MHz/22.56/

2009年02月26日
【真田随想録(上)其の50】 外交戦略
 「ご子息のお小姓入りお祝い申し上げる。利発なお子とお聞きしておりますが、これからの成長がお楽しみのことでしょう」
 と笑みを浮かべて、山本勘助は、傍らにいる真田幸隆に言葉をかけた。躑躅ケ崎の館の控えの間に、二人は向かい合って座っていた。
「山深き真田の育ち、ふつつかな子でありますが、何とぞしかるべくお導き願いたい」
 幸隆は、勘助に向かって深々と頭を下げた。


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:36 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の49】 旅立ち
「えい、えい」
 裂帛の気合いが、木の間を通して聞こえてくる。矢沢城(上田市殿城)の二の丸の木立ちの中、木刀を手に相対しているのは、矢沢綱頼と甥の真田信綱である。この試合を木陰からじっと見守る、もう一人の目があった。信綱の父真田幸隆である。
「信綱もやるのう」


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:34 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の48】 望月家恭順
 天文十七年(一五四八)七月十九日、武田信玄が、信濃・筑摩の雄、小笠原長時を塩尻峠に破った合戦は、再び信玄の信濃制覇の意欲を燃え上がらせた。
「長時は、しばらくの間、われらに歯向かうことはできぬであろう。その間に、矛先を佐久に向けることにする」


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:33 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の47】 両面作戦
「幸隆よ、村上軍を佐久に釘付けする手はないものかな」
 と武田信玄は、真田幸隆に尋ねた。躑躅ケ崎の信玄の居間である。信玄の傍らには、山本勘助が控えている。幸隆が甲府に呼び出さられた日の夜であった。
「殿は、…」


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:32 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の46】 神罰
「お北さま…」
 といって、信玄の近侍・駒井高白斎は声を落とした。心配気な顔つきである。傍らには今井相模守も控えている。甲府・躑躅ケ崎の館の一室である。高白斎に向かい合っているのは、武田信玄の生母大井夫人である。
「実は、殿には上田原の合戦において、戦い利あらず、御自身疵を負われ、板垣信方殿他甘利、才間、初鹿野の諸将は戦死されたました。しかし、殿は負けず嫌いの御気性からか、上田原にとどまったまま、ご帰還なさる御様子がありませぬ。臣下一同憂慮しておりますれば、お北さまから、一日も早くご帰還召されるよう、お勧めいただけませぬか」
 言い終わって、高白斎は、頭を低くたれた。
「信玄殿が戦に破れたと…」
 

続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:31 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の45】 上田原合戦(三)
 天文十七年(一五四八)二月十四日、いよいよ武田・村上両軍の間に戦闘が切って落とされた。旧暦二月十四日といえばいまの三月中旬である。上田盆地でもようやく早春の気配が感じられた。しかし、この日は太郎山に逆霧がかかり、風が肌を刺すように冷たかった。何時もなら東の空に、秀麗な姿を見せる烏帽子岳も、厚い雲に覆われていた。
 武田軍が倉升山に着陣して既に五日、村上軍も天白山を背後に軍営を展開した。両陣営には戦機がみなぎってきた。
「わが軍の陣立てを申しつける。先陣は、板垣信方である」


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:30 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の44】 上田原合戦(二)
 真田幸隆は、天文十六年の暮れから新しい年にかけて、そのまま甲府の宿所に滞在した。宿所は、城屋町通り東の屋敷である。隣は、甘利虎泰の家で、虎泰とは、これからの小県出兵について、しばしば話を交わすことがあった。虎泰によれば、武田信玄は今次の戦陣に臨むにあたって、平素の沈着、冷静さが、いささか欠けているといい、戦略に齟齬がなければいいがと、心配していた。
「そもそも、このたびの小県出兵は、太郎山東端の戸石城、浦野川沿いの小泉、室賀、浦野、当郷の各城、塩田平を抑える塩田城の村上義清の前線基地をそのままにしておいて、上田原で敵の胸中深く入っての戦いは、無理があるように思えてなりませぬ」


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:28 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の43】 上田原合戦(一)
 平成二年四月二十一日夜、上田市管内で、大きな山火事が二件発生した。一件は、東太郎山の麓から中腹にかけて、山林百七十八ヘクタールを焼失し、一件は、倉升山一帯の山林三十一ヘクタールを焼いた。二地点は六キロ以上も離れており、延焼ではない。いずれの山火事も、この篇で書く「上田原合戦」に関係の深い場所である。最初の山火事は、村上義清の前進基地、戸石城の地続きの山を焼き、後の山火事は、この合戦に、信玄が本陣を据えたと伝えられる倉升山の松林を焼失した。両火災を目撃した時の、火勢の凄まじさを思い起こしながら、この余談を書いた。そして
(同じ日に起きた二件の山火事は、四百年余の時を超えて現れた、上田原合戦にまつわる両軍の、深い因縁に基ずくものであろうか)
 という突飛な思いが脳裏を過ぎった。
 それはさておき、四百五十年前の天文十七年(一五四八)初春、武田信玄は、信濃経略の第二段階に入るべく戦闘意欲を燃やし、上田原の合戦の戦端を開こうと考えていた。以下その経緯を追ってみたい。
 天文十六年(一五四七)の暮れも押し迫ったある日、信玄から真田幸隆に、直ちに出府するようにとの連絡があった。
(新年の祝賀の日も近いはず、にもかかわらずの出府は、何か急用でも生じたのであろうか)


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:27 | 真田随想録episode上(41~50) ]

【真田随想録(上)其の42】 二つの史実
 激しい風雨が一晩中続いた。翌日の朝は、それが嘘のように晴れた。天文十六年(一五四七)秋、某日である。松尾城(真田町角間)の館の一室で、真田昌幸は、呱々の声を上げた。戦国期の名将の誕生にふさわしい朝であった。
『長国寺殿御事蹟稿』(真田昌幸伝)に


続きを読む ...
 
[ 投稿者:真田随想録 at 11:26 | 真田随想録episode上(41~50) ]