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東信ジャーナル[BLOG版] 本館
真田随想録以外の記事は本館をご覧ください。
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2009年02月13日
【真田随想録(上)其の30】 初対面
 真田幸隆と山本勘助の甲府への旅に戻る。 平沢から弟の常田隆永が加わり、一行は四人となった。平沢から韮崎に向かう道すがら、信玄時代になってからの信濃侵攻について、勘助の話は続いた。若神子(山梨県須玉町)が近づいて
「信玄公は、去年(天文十一年)の夏、迅速な攻撃で諏訪頼重を滅ぼし、諏訪に信濃経略の前進基地を確保したのでしてな」


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:19 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の29】 頼重哀歌
 信玄の初期の信濃経略について、山本勘助の話を続ける。
 天文十一年(一五四二)六月のある日、甲斐の躑躅ケ崎の館は、蝉しぐれに包まれて、暑い一日が過ぎようとしていた。武田信玄の居室に、弟の武田信繁、家老の板垣信方、飯富兵部、甘利備前ら重臣の顔が揃い、密議が重ねられていた。
「そちたちの願いによって、父信虎を駿府に隠居させ、わしが甲斐国守の座に着いて早一年になる。今春三月には、突如として諏訪頼重を筆頭に信州勢の侵攻があった。幸い瀬沢に迎え撃ってこれを撃退し、ことなきを得たことは承知のとおりである。この侵攻は、わしの力を将来危険とみて、今のうちに除こうとする魂胆であることは明らかである。そこで、早急に信州に撃って出て、信州勢の力をそがねばならぬ。そちたちの考えを聞きたい」 信玄は、家老たちの顔をねめまわした。


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:17 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の28】 瀬沢合戦記
 最近、長野県文化財保護協会会長の黒坂周平氏の書かれた『信濃に相争った戦国英傑合戦記』という文を読んだ。この文の中で、氏は「信濃の国は生産力が豊かであった」と、古書に記載された信濃の水田の面積を挙げ、指摘していた。おもしろい指摘だと思った。一方、作家の坂本徳一氏は、武田信玄の佐久侵攻戦に触れた紀行文の中で、「佐久の美田が甲斐の領土であったならば(甲斐に)餓死するものは一人もいないと、信玄は夢を膨らましていた」と佐久侵攻の理由を説明していた。筆者は、この異なる二つの文は、甲斐の国是であった「北方志向」を余すところなく表現していると思った。信濃の生産力豊富な美田の広がりが、武田の信濃経略の原点となったという視点に、筆者は目を開かれた。
 そこで、そうした視点をふまえ、侵攻された側の悲話も含め、天文十一年(一五四二)の信玄の信濃経略を追ってみたい。この時点、真田幸隆は、上野にあって、故地還住を願い、奔走していた失意の時代であった。
 さて、信玄の信濃経略は、瀬沢合戦を前哨戦とする。この戦いは、信玄の攻撃的な精神を刺激した一戦でもあった。勘助の語りとして続けたい。
 天文十一年(一五四二)三月のことである。信濃の戦国武将小笠原長時(松本)、村上義清(坂城)、諏訪頼重(諏訪)、木曽義康(木曽)の四将は、連合して、甲斐攻略のための旗を挙げた。父信虎を駿府に追い、新しい甲斐の国主となった信玄の、信濃攻略の危険な、若い芽を摘み取ろうとする意図が、四将にあったのであろう。これを信玄が、甲信国境の瀬沢(長野県富士見町)に迎え撃った合戦が、瀬沢合戦である。この合戦の模様は、『甲陽軍鑑』の品第二十二「甲信堺せざは以下合戦の事」に記されている。
 それによれば、信濃連合軍の来攻を聞いた武田家の宿老たちは
「一、駿河の今川義元に援軍を頼むこと。二、海尻城(長野県小海町)在番の将士を引き上げて兵力の増強を図ること。三、武川口(山梨県武川村)と若神子口(同須玉町)の二陣に分かれ、国境において待機の上合戦すること」
 という作戦を提案した。
 これに対して、信玄は、

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[ 投稿者:真田随想録 at 11:14 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の27】 祢津家悲報
 平沢峠(佐久甲州街道)で、平賀源心の胴塚に、山野の草花一輪を手向けた真田幸隆と、山本勘助は、峠を下り、平沢宿に入った。平沢宿は、飯盛山の南面にあって、宿場の西を流れる大門川の対岸は、甲斐の国である。したがって、ここで目にする山々は、すべて甲州の山ということになる。地勢上からいって、信州よりは、甲州の影響が随所に現れている。「この宿の人びとは、上津金村(山梨県須玉町)海岸寺の檀徒が多く、宿内にある道祖神は甲州色の強い石宮入りで、人びとの生活が甲州に深く関わっていることを示している」と、『信州の街道』(郷土出版社)の平沢宿の説明にもある。
 さて、一行は平沢宿で四日目の朝を迎えた。出立の旅支度を整えたところへ、意外な人物が現れた。幸隆の末弟隆永である。
「兄じゃ、おひさしゅうござる」


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:12 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の26】 信玄の初陣
 「海ノ口の城は、殿にとっては、初陣の華々しい手柄を飾った場所でござってな」
 といって、山本勘助は、左手の奥まった山を指さした。
「せっかくの機会でござれば、城跡を見られて、その話を土産話になされば、殿もさぞかし喜ばれるでありましょう」


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:11 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の25】 佐久の夕映え
 数日後、甲斐に向かって、佐久の街道を歩む三人の旅の僧の姿があった。真田幸隆、山本勘助、河原隆正である。
 東信濃の小県から甲州に向かうには、二つのルートがある。一つは八ヶ岳の東麓・佐久を抜けて甲州に至る、いわゆる佐久甲州街道、ほぼ今の国道一四一号線であり、一つは、小県の依田窪から大門峠を越えて、茅野に出、八ヶ岳の西麓を甲州に至る大門道、甲州街道、今の国道一五二、二〇号線を辿るルートである。この他に、武田信玄は、軍略上の必要から、「上の棒道」と「中の棒道」を、八ヶ岳の西の裾野に開設した。そのことは後に触れる。


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:09 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の24】 富岳遠望
 真田幸隆の家臣・河原隆正が安中の長源寺に旅だった夜、祢津元直の重臣が、密かに山の湯を訪れた。しばらく経って、幸隆と山本勘助が元直の部屋に招き入れられた。
「これなるは、わが家臣別府種臣と申す」


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:07 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の23】 武田仕官異聞
 真田幸隆は、天文十二年(一五四三)夏、武田家に仕官したことは、すでに述べた。仕官に当たって、箕輪城主長野信濃守業政が幸隆に示した態度について、興味深い伝説が残されているので紹介しておこう。
「武田家に仕官するに際して、幸隆が業政に、これを告白すると、業政は快く承知し、出発に当たって、路銀まで提供した」(真武内伝) この伝説に対して、猪坂直一氏は、『評傳眞田一家』では「業政の人物として或は眞説であるかも知れぬ」と書き、『真田三代録』では「(前略)…が、これも小説である。当時の大将は部下から他国他領へ走る者があれば、反逆者としてこれを追いかけて、討ち取るのが常識で、幸隆が客分であったにしても、こころよく送り出すなどということはあり得ない。


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:05 | 真田随想録episode上(21~30) ]

【真田随想録(上)其の22】 武田の使者
 湯尻川のせせらぎの音が、わずかにきこえる。山の湯の宿は、明るい月の下で更けていった。真田幸隆は、寝付けないまま、一昨年の夏の海野平の合戦以来、上州への逃亡、祖父海野棟綱の死、箕輪城から長源寺への遍歴の日々に思いをめぐらしていた。


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[ 投稿者:真田随想録 at 11:03 | 真田随想録episode上(21~30) ]