最近、長野県文化財保護協会会長の黒坂周平氏の書かれた『信濃に相争った戦国英傑合戦記』という文を読んだ。この文の中で、氏は「信濃の国は生産力が豊かであった」と、古書に記載された信濃の水田の面積を挙げ、指摘していた。おもしろい指摘だと思った。一方、作家の坂本徳一氏は、武田信玄の佐久侵攻戦に触れた紀行文の中で、「佐久の美田が甲斐の領土であったならば(甲斐に)餓死するものは一人もいないと、信玄は夢を膨らましていた」と佐久侵攻の理由を説明していた。筆者は、この異なる二つの文は、甲斐の国是であった「北方志向」を余すところなく表現していると思った。信濃の生産力豊富な美田の広がりが、武田の信濃経略の原点となったという視点に、筆者は目を開かれた。
そこで、そうした視点をふまえ、侵攻された側の悲話も含め、天文十一年(一五四二)の信玄の信濃経略を追ってみたい。この時点、真田幸隆は、上野にあって、故地還住を願い、奔走していた失意の時代であった。
さて、信玄の信濃経略は、瀬沢合戦を前哨戦とする。この戦いは、信玄の攻撃的な精神を刺激した一戦でもあった。勘助の語りとして続けたい。
天文十一年(一五四二)三月のことである。信濃の戦国武将小笠原長時(松本)、村上義清(坂城)、諏訪頼重(諏訪)、木曽義康(木曽)の四将は、連合して、甲斐攻略のための旗を挙げた。父信虎を駿府に追い、新しい甲斐の国主となった信玄の、信濃攻略の危険な、若い芽を摘み取ろうとする意図が、四将にあったのであろう。これを信玄が、甲信国境の瀬沢(長野県富士見町)に迎え撃った合戦が、瀬沢合戦である。この合戦の模様は、『甲陽軍鑑』の品第二十二「甲信堺せざは以下合戦の事」に記されている。
それによれば、信濃連合軍の来攻を聞いた武田家の宿老たちは
「一、駿河の今川義元に援軍を頼むこと。二、海尻城(長野県小海町)在番の将士を引き上げて兵力の増強を図ること。三、武川口(山梨県武川村)と若神子口(同須玉町)の二陣に分かれ、国境において待機の上合戦すること」
という作戦を提案した。
これに対して、信玄は、
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