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2011年05月24日
杉田久女・考(ノラ)

わたしが杉田久女を知ったのはお友だちのブログでした。

俳句を始めて間無しのころにノラの名前を知ったのです。

それ以来、わたしには忘れられない久女なのですけれど。



足袋つぐやノラともならず教師妻   杉田久女



この句、わたしには味わい深く思われてなりません。

俳句には名句・佳句だけでなく味わい深い句がある、

それで杉田久女・考として書いておきたいと思います。



人間の心は庇護者の懐で育てられるなかで成長していく。

ひとり歩きするためには人間は庇護者を絶対に必要とする。

それゆえに人間の子を養護施設では育てられないのです。



その人間の子と同じように俳句を捉える俳人は多いらしい。

そんな句は、保護者が付きっきりで説明をすることになる。

そんなものを名句とか佳句と呼んでいる人は現実に多い。



わたしは「俳句」はひとり歩きすると考えています。

つまり、生み出された時から、俳句はひとり立ちする。

未熟児で生れて名句・佳句に成長・変身するとは思えない。



社会の概念が変らないかぎり、駄句は駄句でしかない。

たとえば封建主義の社会は自由を悪と決めつけるでしょう。

それでノラを取巻く社会常識・概念は変ったのでしょうか。



こう考えてきて、結果的に久女のノラは高い評価を受けた。

ただし、久女のノラは正しい評価を受けていないようです。

誤った評価の下で高い評価を受けて、それに意味があるか。



私には、誤って高評価を受ける「雨ニモマケズ」が重なる。

確たる説明抜きに誉める権威は宮澤賢治を馬鹿にしている。

宮澤賢治を冒している同じ手法で久女を冒してはならない。



あなたは「雨ニモマケズ」を権威の土足で蹂躙させるか。

「雨ニモマケズ」を権威の下に置く感覚は誤りでしょう。

権威にひれ伏す姿勢は賢治の真の理解者と言えるだろうか?



権威が評価したから宮澤賢治が素晴しいのはありません。

どこの権威が評価したかでなくて、正しく評価してほしい。

すなわち正しい評価のうえに高い評価をするべきなのです。



日本語で「のら」というとき、野良が自然に想われます。

野良犬・定職がない・畑・野良仕事などの「のら」です。

久女のこの句も「野良」と訳してこそ、世間に通用する。



足袋つぐやノラともならず教師妻



夫は教師、妻は足袋の穴を補修している姿が浮びあがる、

今の境遇から這い上がりたい久女の気持が浮んで見える、

人は育った環境を基準にして現在の状態や世間を見ます、



久女は「野良」としないで「ノラ」としています。

久女は野良になれない、野良になってはならないのです。

そこに久女の育った家庭・環境・社会情勢が窺い見える。



自分は教師の妻で居続けてはならない筈なのに…、

なにもしなければ…このままでは落ちていくばかりかも、

そのような恐怖が久女の脳裏を駆けめぐっているのかも、



野良になってはいけない、野良の文字も使いたくない、

否、ひょっとしてもう野良に見られてやしないだろうか、

そのような恐怖感にさいなまれ続ける久女の心が見える、



そのように、

この句は生れた瞬間に一人前の人格を持って歩いている。

誰に補佐されることなく説明不要で声を発し続けている。

権威の説明なんかに頼らなくても、存在を主張している。



そのうえで想像をたくましくするのは自由です。

久女も人形の家を想像しながら詠んだのかもしれないし、

イプセンの人形の家にノラというヒロインが暮していて、

そのノラと重ね合せて想像してみるのは読者の勝手です、



だからといってこの句に人形の家は不可欠の要素でなく、

それどころか「野良」を想像しないでは俳句にならない。

しかも人形の家のヒロインが「ペコ」だとたちまち困る。



結局、プロ好みの小説や詩は多いかも知れないし、

素人の感性に訴えられなくても取れる賞はあるでしょう、

そんな賞は権威の箔付けが欲しい売文屋むきなのですね。



権威の箔付けを有り難がる団体に誉められて、嬉しいか?

宮澤賢治も杉田久女もそうではないと、私は思っている。

それゆえ賢治も久女も、わたしの視点で見ていきたい。



賢治を久女を詩人・俳人として、正しく評価したい。

詩人・俳人の端くれとでも自覚してる人なら当然ですね。


[ 投稿者:ノラ at 08:25 | 山小屋の詩 | コメント(3) | トラックバック(0) ]

2011年05月11日
杉田久女・考(菊枕)
     【菊枕】にみる久女の真実


菊枕は杉田久女を「ぬい」という主人公にした松本清張の短編です。
「青色文字」の文は菊枕からの引用です。



美校出であれば相当な芸術家になれると思った錯覚の

はなはだしさ彼女に似ず愚かである。

事実、彼は授業に熱心であった。中学校の先生ながら

絵の教師としては最良を志したのである。しかしこれ

はぬいの気に入るところではなかった。ぬいは圭助が

展覧会の出品一枚描こうとしないのを不満とした。



世間的な評価を己の判断の基準とする人は多いし、久女

もその例に漏れなかったようです。

久女の男性観の基準にあるものは父親の大きく見えた姿

でしょう。久女からみた父親は安心できる存在だったろ

うし、そんな父親をみて育った娘が夫に望むものはやは

り父親をモデルにした徳のごときものなのでしょう。

官僚であった父親は赴任する先々で周りに威圧感を与え

たと考えたら分りやすい。久女の父親がこうと言ったら

全ては整然として、その方向へ向って進む官僚の世界の

秩序がわたしの目には想像できる。

そのような父親はおそらく、同じ官僚の世界に娘の婿を

もとめることになるけれど、もしその縁がなかったなら、

それに代わる世界に娘の婿を探すことになるのでしょう。


そして久女は父の知己の息子との縁を結ぶに至ります。

親同士の関係は子供同士の関係にまで、つよく影を落と

すものと思われます。そう理解するとき、久女の父親と

その知己の関係が見えてくる気がする。それは夫・宇内

が久女に対してとった一連の行動・姿勢の遠因になって

顕れていて、夫は久女に対して遠慮がちにみえるのです。

そしてこの遠慮勝ちに見える夫の態度がまたまた久女の

気持ちを苛立たせることになったように思われるのです。

断固として久女を諌めたなら、夫の言葉に逆らいがたい

威厳があれば、久女の言い分の筋の通らぬを己で感じた

なら、誇り高い性格ゆえに久女は夫に随ったに違いない。

夫が理路整然と出来ず、断固として拒否もできず、徒に

のらりくらりして見え、その場逃れに終始するようなら、

久女は行き場のない絶望感に襲われて呼吸困難に陥る。


健康な人の常としてそのような不健康な空間から脱出を

試みるのは当然であり、暴れる者、泣く者、家出する者、

閉籠る者など、脱出の仕方は人さまざまなのです。

芸術に関心高かった久女の場合は閉塞状況から脱出する

路上に俳句を見つけて歩み始めたと言えるでしょう。



ぬいも彼を客に引きあわそうとはしなかった。彼も客に

合うことを好まない。

やむなく家の中で顔を合わす時は、ちょっと頭を下げる

程度であった。



決して穢されてならない芸術の世界・久女の聖域。そこ

に出入りを許されるのは芸術家の仲間だけでした。

好い加減な者に久女の世界が触れられることは考えられ

ず、それは家族・夫であっても断固拒否されるのです。

久女は好い加減な姿勢で芸術を扱うことなど考えられず、

それゆえ触れさせてはならず、近寄られるのも厭だった。

例えそうまで厳しく問わないまでも、芸術への裏切り者・

ユダとまでは言わないまでも…です。

それゆえ、夫に関しての久女の物言い・物腰に接した人

たちは只ただ、何かを感じるに違いないのです。

それは久女でなくても、あなたやわたしたち自身の立場

に当てはめて考えたら理解できるのではないでしょうか。

つまり決して居てならない者があなたのわたしの居場所

にいるのを見つけたときに、それにどう反応し・しぐさ

をし・表情をあなたはするでしょうか。

必ずや、内心は穏やかでいられない筈です。



初めて瀬川楓声が九州に来たのは、大正六年ごろであっ

たろうか。

『筑紫野』社同人あげて歓迎したが、楓声が福岡滞在中

の三日間、ぬいは毎日朝から晩まで傍に詰めていた。

句会とか吟行とかが毎日つづいていたのである。

この時、ぬいの楓声に対する態度は、他人から見ていさ

さか含嬌にすぎたという。



時代の風潮にそぐわなければ、人はとんでもない噂をな

がし、ながされるってことではないでしょうか。

現代の日本文化になじんでいる人がそんな久女にふれて、

久女の人格を特別変わり者だなどと思わないでしょう。


この文章に久女を貶めて観る人は、すなわち今の日本女

性をはしたないと罵っていることに通じてしまう。

しかも罵っていることに気づかず、久女を貶めて観てい

るなら、その人は文学に嗜みがないと理解できるのです。

このフレーズには、そういったことに鋭い洞察力をもっ

た松本清張の戯れ心が看て取れそうです。

現代の人を笑い遊ぶ清張の、これはエスプリかもしれない。

もっと言えば…菊枕は久女の悪口を書いてあると受けとめ

る人についてはどう理解できるでしょうか。

菊枕のどこに久女の悪口が書かれているのか、それがとん

と分らない私なのですけれど…。

無い袖は振れないように私の心にない考えは顕れようがあ

りません。それとは逆に、柳が幽霊に見えるように心の中

に隠し持った感覚・考えが清張の菊枕を縁として顕れた。

菊枕は久女の悪口なんかでなく、だから幽霊に怯えてはな

らないのだと思います。推理小説に長けた清張は、読者に

幽霊を見させる仕掛けを楽しんだに違いないのです。

その点、私は久女といっしょで、芸術に関するかぎり、

人を悪く誤解させる趣味・嗜好の持合わせはないのです。



ぬいは俳誌『コスモス』に投句しはじめた。『コスモス』

が天下に雲霞のごとき読者を持ち、その主催者宮萩栴堂が

当代随一の俳匠であることは、俳句に縁のない者でも知っ

ている。

楓声が栴堂門下の逸足だから『コスモス』への投句は彼が

すすめたのであろう。

ぬいの句は『コスモス』の婦人欄に出はじめた。

大正六年秋、栴堂選の雑詠に初めてぬいのものが一句載った。

ぬいはその句を短冊にかいて床懸けにし、神酒を供えて祝った。



すでに触れたように「他人から見ていささか含嬌にすぎ」て

いるのは現代女性一般のことであって、それをとやかく騒

ぐのはそういった向きにお任せするしかないけれど…、

そうではなく、久女は俳句を其れほどまでに大切に思って

接したと菊枕は述べているのです。

それほど俳句を大切にするぬいの次にとる行動は最高の舞

台で言霊を舞わすことになる。

最高の花舞台は『コスモス』であると信じて、ぬいは舞台

を思いっ切り励みます。

その立派に舞ったぬいの句に松本清張は神酒を供えて祝わ

せている。ぬいの句は言葉の切り貼り遊びでなく言霊です。

すくなくとも清張はそのように理解していたらしい。


さて、久女の俳句への想いは具体的になりました。松本

清張が久女にみた真実もすこしは理解できたつもりです。

それゆえ菊枕に関してこれ以上、述べる意味は感じない。

また清張どうように久女を良く理解した人として、薄学

のわたしの知るのは「花衣ぬぐやまつわる…」かなぁ☆〜



久女は最後に夫の手で鉄格子に閉じ込められます。

父が元気であれば、父の後ろ盾があれば、久女を可愛が

った父親が鉄格子に入れておいただろうか。

そう考えたら、実家に帰っては英気を養った高村智恵子

の姿と杉田久女の姿が重なって見えてきて涙が溢れます。

わたしには実家の支援を受けられなくなった智恵子は夫

のお荷物でしかなかったように思われてならなかった。


それにしても親の代からの繋がりの重さで、久女につれ

ない態度をとれない夫・宇内だったように思えます。

ただし、虚子に誌面で咎められるようになっては、非が

久女になくても、夫は妻・久女の体面をこれ以上傷つけ

ないため、家の体面を守るため、自分自身の体面を護る

ためにも、妻を拘束しなければならないと考えるに至っ

たのでしょうか。この点、とても残念でならなかった。


俳句界・句会・俳誌として他を考えられない久女ゆえに、

そこの権威に拘束されてのたうつことになったのであり、

また、杉田家を抜けられない久女であれば、そこの権力者

夫・宇内に拘束されるほかに途はなかったのです。



松本清張の「菊枕」を飛ばし読みしました。私の誤解を

なんでも教えていただければ嬉しく思います。







.
[ 投稿者:ノラ at 13:03 | 山小屋の詩 | コメント(2) | トラックバック(0) ]

2011年05月08日
杉田久女・考 (下)
(田辺聖子・著「花衣ぬぐやまつわる……」に想うこと)

(青色文字は田辺聖子氏の本の引用です)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




私はこの宿になんの予備知識もなかった。

全国の宿をよく知っている人が(その人も実際には泊ったことがないようである)あそこへいくなら、

この宿、と名をあげてくれたので予約したのだ。

名山とか名酒、名湯、などと同じように、命宿、というのもあるようで、私が今までいったそういう

ところは、宿の料理がよかったり、大浴場が粋を凝らしてあったり、宿のおかみさんなり、女中さん

なりの人あしらいが物なれていて洗練されていたりするのであった。

くどすぎず、口ずくなになりすぎず、宿の説明をしたり、たのしいPRをして客の弾みごころをいっ

そう、そそり立ててくれる、そういうゆきとどいた扱いをするのだが、この宿のおかみさんはセータ

ーにスカート、ハイソックスにつっかけ、という姿で、私が外へ出るのかと一瞬おどろいてまごまご

しているのを笑うように、<こっちです>と短くいうのである。


といって決してつっけんどんでも意地わるでもないのだが。




都会に住む身には「接客サービスは洗練されていて当然」で、

しかも21世紀の今だと、全国一律のサービスも常識に思える。

全国にチェーン展開するフランチャイズのノウハウは素晴しい、

全国どこで食べても、どこの店の応答にも些かの違いはない…。

だけど洗練されたサービス、真心って一体なんなんでしょうね、


ともあれ、一行は信州らしい一意の持成しを受けられたのです。

そのころは都会ずれしていない店舗も多かったかも知れません。

そのころ…田辺聖子氏が松本を訪ねられたのは1980年ごろか。

余りにも大阪らしい御一行さまに恐縮していたとも思えるけど、

それで久女が佳く理解されたのだから、結果オーライですよね。



杉田久女が、信州に関係ふかいとは思いもそめぬことだった。久女の父の赤堀廉蔵は、

松本市の出身だったのである。

関西人の常として私も信州に強い思い入れがある。その気候といい風物といい、肌と

心を洗われるような気がする。これは関西の、猥雑で如才ない、狎れ狎れしい雰囲気

で育ったものでないと、理解してもらえないかもしれない。古い歴史の血のよどんだ

関西の風土はなまあたたかい体臭にむれている。懶惰・放逸をそそのかす居心地よさ、

けちで欲深で破廉恥で、そのくせ陽気で闊達で俊敏で、親切なような薄情なような……。



けちで欲深で破廉恥で・・・親切なような薄情なような…

歯に衣着せたような逃げ腰の売文屋が多い現代において、こういう

田辺聖子氏の臆する所のない物言いの小気味良さ、しかも判りやすくて大好きです。

田辺聖子氏だから、宿屋の女将の好さが判り、久女の純真な内面も見えるのでしょう。

お上手には慣れてらっしゃる田辺聖子氏、大阪で揉まれてベンチャラは嫌いじゃあるまい…。

私は宮沢賢治に触れて、食べられる物はなんでも食べなければ生きられなかった事情も察します。

そもそも他人の食べ残しや黴の生えた餅も食べさせていただいて、生きている私です。

それゆえ田辺聖子氏のフレーズにも大いに共感しているのですけど…。笑

トップを目指す杉田久女の気持ちはよく理解するし、虚子が防衛本能を働かすのも分る。

他人を押しのけて甘い汁を吸いたいだろう人の気持ちも分るし、だから目もつむってる。

だけど結局、それでは自分が苦しむことになるのも宮沢賢治と同じように知っている。

杉田久女を受け留めてあげて自由に飛ばしてあげてたら、鬱病になることも無かった。

そうしてあげてたら、高村智恵子どうよう、杉田久女も鉄格子のなかで死ななかった。

デクノボウで生きて、詩を楽しみ、俳句を楽しみ、生きることを楽しんだら幸せだった。

人というものは欲望に振回されて苦悩の闇におちてしまい勝ちなのですね…。



そういう土地からくるとまさに信州は正反対の気がする。関西は山すらも稜線が丸み

をおび、おだやかに瞑目しているようだが、信州の山の稜線は鋭く険しい。空気も人

のハラワタも透明で、物がなしいほどまじめにみえる。


久女は絵心のあった人だけに、その作品にも視覚的な美しさがあるのだが、この文章

なども、そのまま、水彩画のようである。

まだ絵の具の水も乾いていないような、ぬれぬれとした画面、それもその絵はどこと

なし、田舎の優等女学生のものしたもの、……というようなおもむきがある。稚拙や

野暮というのでなしに、自然に対する素直な憧憬や畏怖が、無作為にあふれていると

いった感じである。久女の文章は、俳句にくらべると無技巧で素朴でゴツゴツしてい

るが、それが好もしき信州を語るとき、いっそう言葉の角々が立って擦過熱を帯びた

ように熱っぽい。


久女は頭のいい女だったし、プライドも高かった。物かなしいほどのまじめさで、す

べてに真摯だった。自分が正しいと思うことは率直に主張してはばからなかった。



凡人は芸術家になるよりも経営者になりたがるものかも知れません。

凡人になれない智恵子や久女の創作力はどちらも御主人の及ぶものではありません。

女性が独占欲の強い男に手綱を渡したとき、芸術の道を絶たれるのは悲しい現実です。



そしてそういう人を前にしたときの世間の混乱と当惑がどんなものかを、想像したこ

ともなかった。久女は誰にも追従しないし、とりまわしもしない。柔媚円滑、お愛想

をいう文化圏の人ではない。口と腹と別、ということは絶えてない。久女が尊敬する

といえば、全身全霊をあげて尊敬する、そういう人であったように思われる。悪気は

微塵もない。クダクダしい修飾語は省き、ただちに核心に入る会話をする。ある場合

はそれが、繁文縟礼に馴れた人に衝撃と違和感を与えたのではないか。


久女が笑うとどこか凱歌のようにひびき、口を引きむすぶとキッとしてみえ、語尾は

切って捨てるようにひびき、対する人をおびやかしたのではあるまいか。それが次第

に齟齬と誤解を生み、久女は正確に理解されることが少なくなった……そんな気がする。


そういう人は、何もしないでも世間から仕返しを受けてしまう。


漱石の「坊っちゃん」に出てくる中学生は、やや時代が古いけれども、少年の悪ふざ

けはいつの時代も同じようなものであろう。悪ふざけというより、ユーモアのかけら

もない、いじめである。漱石が田舎者の、野暮でそのくせ執拗陰険な悪戯に腹を立て

たように、久女もゆるせないのである。宇内のように取るに足らぬ些事だとわらえない。


いったい久女には、ちょっと被害者意識のつよい気味があるのだが、それはある種の

カンというか、自分の居場所を測定する自衛本能のようなものが欠けていたらしく思

われる。欠けているというか、装置が故障しているというか、すべて事実以上に増大

されて受けとられるところがある。そこが漱石と久女の差異であろう。漱石は現実を

突き離すことで自分を守り、久女は正面から四つに組んでまともに敵対してしまう。


この当時の家事の煩雑さを知らなくては久女の心労はわからない。朝起きると、かま

どの下を焚きつけて御飯を炊く。七輪に火をおこして鉄瓶をかけ湯をわかし、味噌汁

や惣菜をつくる。現代のように電気炊飯器、掃除機、洗濯機などないのだから、ハタ

キと箒掃除をする。着物の洗濯は解いて洗ってまた縫い直さねばならない。自転車も

車もあるわけはないので、買物にゆくのも長みちを歩く。時間とエネルギーの大半を

家庭経営に費やさなければならない。


無意識のうちに久女は父に頼っていたに違いない。久女は肉親離れのできていないと

ころがあって、夫よりも実家に心寄せが篤い風がみえる。



 ◎ 虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯



この句は、久女の才能を解放させる存在の必要性を感じさせる証明の一句に見えます。

田辺聖子氏の自由な振舞いを見るにつけても、懐の深い主人の必要を感じます。

久女の好きなようにさせる…手綱は縛る目的でなく、崖から落ちない目的なのです。

高名な芸術家・高村光雲の息子だから、智恵子の才能を解放させなかったのです。

言えることは、宇内氏に画才が無くて、それで久女の足を引張ったのではありません。

常識的な生きかたを求める夫・宇内だから、手綱を引き締めて動けなくしたのです。

宇内氏に画才が溢れても…妻は夫を陰で支えるべしと考える高村光太郎の例もある。

芸術に理解があるかどうかは別に、田辺聖子氏の輝くのを見たい夫に違いない。

芸術家を妻にする男性には、妻を籠に入れるのと、羽ばたかせるの二種類があります。

久女も智恵子も、芸術家の夫は自分を理解する筈という大きな間違いに気づかなかった。


 ◎ 虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯


すなわち、

この句の素晴しさを観ようとしない経営者を、師匠と仰いだのも間違いなのです。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



[ 投稿者:ノラ at 22:07 | 山小屋の詩 | コメント(2) | トラックバック(0) ]

杉田久女・考 (上)


この記事は別のブログに載せようと思っていて、

久女は松本の出だと気づいて、急きょ、変更しました。(#^.^#)


橋本多佳子の俳句の最初の師匠は杉田久女でありますから、

彼女を著した適当な資料を読みたいと思っておりましたところ、

今回、幸いにも田辺聖子氏の著書に目を通すことができました。

今回は摘まみ読みでしたけど、いずれじっくり読みたい本です。

著書は、氏が五年の歳月を費やして丹念に仕上げた嬉しい逸品。

それで私なりに同書に感じた部分を切抜きしてみました。



【書籍名】:「花衣ぬぐやまつわる……」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

(青色文字は田辺聖子氏の本の引用です)



習作時代に久女は、夫と娘を題材にして詠んでいる。大正六年から七年にかけて……。


 ◎ まろ寝して熱ある子かな秋の暮

 ◎ 六つなるは父の布団にねせてけり


その宇内自身も。この頃の久女の句にはやさしく詠まれている。


 ◎ うかぬ顔して帰り来ぬ秋の暮

 ◎ 昼食(ひる)たべに帰り来る夫日永かな

 ◎ 獺(うそ)にもとられず小鮎釣り来し夫をかし

 ◎ 葱植うる夫に移しぬ廁の灯



俳句を始めたころ、家族を温かい視線で捉える久女がいる。

ただし、夫を信じる久女は、自身、成長したい女性なのです。


こののち久女が夫を詠むことは少なくなり、あっても「夫をかし」にこめられたような緩みは流れていない。入れ替って出てくるのは、強烈なナルシシズムである。


話に聞き「ホトトギス」で想像するばかりだった虚子があらわれる。

虚子はこのとき四十四歳の男ざかり、晩年の温容とひとあじちがって、頬の線も引きしまり、眼が鋭いようである。

自分に可能性があるということを発見するのは、久女にとっては人生観が染めかえられるほどの快い衝撃である。



 ◎ 花衣ぬぐやまつわる紐いろ/\



積極的な女性に多くの男性は近代女性を感じるでしょう。

自由に飛びまわる小鳥を可愛く思って男は手にも入れたい。

手に入れられるなら、願いは何でもきいてあげようと思う。

それが世間の男というもので、宇内も虚子も例外ではない。



久女と違って夫・宇内は世間の歩みに合せたい男性でした。

釣った獲物に最低限の餌は与えても、河海に戻す訳がない。

生簀の中で久女の役割りを果たしてほしい夫・宇内でした。

ところが久女は強い力でリード紐の外に出ようとしました。



高濱虚子も世間の常識のなかで呼吸し、商う経営者でした。

俳句結社「ホトトギス」を順調に運営すべき経営者・虚子。

同時に俳句の師匠としても振る舞わなければならない虚子。

ここに虚子の二重人格に見える奇妙な言動が顕れた訳です。



結社の経営者と師匠が別々に存在していたのなら良かった。

虚子に代って経営するか、句会の師匠を勤め得る人物です。

しかしそれは俳句の性格から考えて、無理なことに見える。

師匠を超えられないダメ弟子を大勢抱えていても詰らない。



優秀な弟子は巣立っていく…師匠も弟子に負けてられない。

なにせ一人立ちするよう常々、弟子を導いてきた虚子です。

俳句は言霊のパワーの見せつけ合うみたいな芸術なのです。

子規に託されたホトトギスを守った虚子は有能なる経営者。


久女を残せばホトトギスはどうなるかと経営者は考えます。

私は経営者としての虚子を何よりも尊敬したいと思います。

それゆえ経営者としての私は、久女を切ることになります。

久女をとるときは、ホトトギスを誰かに譲らねばならない。


ただし私は経営に興味はありませんから、久女を取ります。

句会を開ける気の合う仲間がいてくれたら、私はそれで十分です。

切磋琢磨して後世に残る名句を詠めたら、私は幸せに思います。

現実は他の句会を潰して引抜きをはかる業界であり、真の俳人は少ない。


ともあれ、積極的な久女は進化する道を選びました。

家族を詠み、自分を詠み、師匠を詠み、同輩を詠んだ。

師匠・虚子の指導に忠実であろうと努めた久女でした。

師匠に忠実な久女は経営者・高濱にとって、都合が悪い。


積極的に作句活動する久女を受入れられない経営者・虚子。

前に進みたい人は信号待ちさえも苦痛に思われるものである。

のんべんだらりとお茶を濁す子弟関係よりも、真剣勝負を望む久女。

経営者・虚子は社会常識に合せ、世間に合せていれば、満足できた。


これは虚子が悪いとか久女が頑張りすぎたという事でなく、

生きかた、ライフ・スタイルの違いであり、両者は合わない。

お客さんに説教する商売人は倒産しますけど、

「あなたは頑張り過ぎだよ」と言えない経営者感覚は理解できる。


経営者が顧客と喧嘩するとき…徹底的につぶし合いになる。

潰さなきゃ店がつぶれます…倫理的に非は虚子に有ってもです。

久女は喧嘩してる積りは少しもなかったけれど、虚子には喧嘩。

久女は素直な弟子でしたけど、経営者・虚子の仇役でしかなかった。


久女が不幸だったのは、夫・宇内までもが虚子の側に付いた。

終いに鉄格子に閉じ込めたのは夫・宇内ですから可哀そうでした。

社会常識・封建主義・男社会…女の敵が何なのかを知らなかった久女。

敵を知らず、敵の罠に入っていって、『なんで〜?』の久女でしょうね。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

[ 投稿者:ノラ at 00:30 | 山小屋の詩 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2011年05月04日
風の又三郎
今、読んでる「風の又三郎」って、なんだろう!?




又三郎を主人公にした短編の童話みたいにも見える、

だけど、又三郎は村の子どもたちが成長する過程の一ページ、

はるか遠い、幼い日々の子どもたちの思い出、



故郷に吹く風は、ともに遊んだ三郎の色をしてたんだ、

だぶだぶのズボン、赤い髪や靴、物怖じしない口調も好きだ、

なにより、やさしかったよ〜、爽やかな風、三郎もね〜



成長する過程で、子どもたちはいっぱいの出逢いをする、

出逢いは色いろの顔をしていて、この風は三郎の顔になる、

風だけじゃない、子どもたちに全ての想い出は宝石なんだ、



通り過ぎた日々の記憶のなか、風が吹けば三郎を想いだし、

三郎を語るときは、故郷に吹く風を想いだす、

それはいつでも宮澤賢治には甘酸っぱい記憶の一ページ 、



雨にも雪にも日照りにも…それぞれの顔が思い浮かぶ、

元気、悪戯、でも、乱暴じゃない、やさしく、折り目正しい 三郎、

これは常日頃の又三郎に感じていた賢治の想い、願い、祈り、



そしてこれは童話かも知れないけど、散文詩、

宮澤賢治の心情世界を謳った、温かな散文詩なんだろう、

散文詩がやさしくて美しいとき、童話の顔をするのかも知れない…
[ 投稿者:ノラ at 22:25 | 宮澤賢治 | コメント(2) | トラックバック(0) ]

2011年04月29日
オツベルと象(4)
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価値観の転換を考えませんか?



人には誰でも大切にしているモノがあるらしい、

そしてその大切なモノの中身は、人それぞれに異なってる。



たいがいの人は何よりも命を大切に思うだろうし、

ある人たちは平和がいちばん大切と言うだろう、

ある人たちは気ままに暮せるのが一番良いと言うだろう、

晩酌のお酒を呑んでる時が幸せという方もいらっしゃる、

お金がいちばん大切と思ってる方もいらっしゃるだろう、

あるいは、そんなこと考えたことないと言うかも知れない。



オモシロイ事に、親友同士で好みが合うとも限らない、

いえいえ、友を大切に思う点で親友の好みはピッタンコ。

そんなの嘘だ…と根拠なく言うのは言葉を大切にしない人、

「人間を大切に思う」というタイプは宗教者に多いと思う、

もちろん人間を大切に思う根拠を言えない宗教者は怪しい。

ともあれ、どんな人にでも大切なモノはあるようです。



オツベルは誰よりもお金にこだわったのかも知れません、

お金を手に入れるために高価な最新式の器械を導入したし、

工場で16人もの百姓たちを使って働かせていたんだよ、

迷い込んできた白い象をオツベルは手に入れようとしたし、

手向かう者にはピストルをぶっ放してやっつける腹積もり、

象の群れと戦い、己の命を賭して、資産を増やそうとした。





それは野生の象と人間が生き残りを賭けた戦いみたいでも、

人間の言葉・心が通じる象…つまり人間に銃を向けたんだ、

お金のために人間に害悪をなすオツベルは、仲間だろうか?

人間を仲間としないオツベル…結局、オツベルは人間の敵、

お金を人間の命より重視するオツベルに人の心は通じない、

そんなオツベルの伴侶や家族や一味も、人間の心を見失う。



お金を稼ぐのは何のためでしょうか?

人間の命を見殺してまで稼ぐお金の意味ってなんでしょう?

稼ぎ・貯めたお金をオツベルは何につかう積りでしょうか?

その答えらしきものに…私は一つ思い当たります。

ピストルです…オツベルの身を護るピストルです。

人間を友としないオツベルが頼るモノ…信頼できそうな物★



お腹を空かせたジャンバルジャンはパンを盗んで捕まった、

明日の食事のためにと…生き残るための銀の食器を盗んだ、

ジャンバルジャンと同じで、オツベルも生き残りを図った、

今日は生き残れるかも知れないけど、明日はどうなるのか?

オツベルのお金は、もっと強い奴に奪われるかも分らない、

地震で、津波で、原発事故で、すべてを失うかも知れない。



困った時、困った人に政府や社会は何をしてくれるだろう?

誰も助けにならない、誰も信じられないなら、蓄えが安心?

それで、どれだけの蓄えでオツベルは安心できるのだろう?

一人で生き延びるために、どれだけ蓄えたら足りるだろう?

身を護る堅固な要塞に、銃に、食糧に、娯楽も欲しいだろ?

いつまでの? 少なくとも数年分、一生分、子孫の分まで?



だったら、千億円持ってても足りないに決まってるんだよ。

オツベルが一億人も居たら? そりゃ死んで貰うしかない。

弱肉強食の世界では、邪魔な人に死んでもらうことになる。

毎年三万人でもまだ不足。戦争で大掃除する必要も生じる。

焼け野原の復興…建設業界は又とないチャンスに違いない。

お金もうけは非情なようでも、人の死までがチャンスです。



これが福祉社会だと、貯金なんか無くても生きられるんだ。

収入をぜんぶ使い切っても、来月にはまた入ってくるんだ。

働けば収入になる、使ったお金はまた社会を循環して潤す。

みんなが働けば、社会に活気が出て、国全体が明るくなる。

助け合い、支え合い、相互扶助の社会なら皆が安心できる。

ある意味、宵越しのお金を持たなかった江戸っ子に似てる。



そうなると困ることがあるって言うか、困る人がいるんだ。

威張りたい人、見栄を張りたい人、権力を振るいたい人さ、

民衆が楽しく暮してたら、だれもペコペコしなくなるから、

ふんぞり返っている変な人たちは威張っていられなくなる、

見せびらかせたり、自慢したり、勿体ぶったりも出来ない、

不安な世の中にしなきゃ、邪悪は大きな顔で歩けないんだ。



ともあれ、

オツベルがお金に執着を持つ原因になったのは社会の歪み、

「お金がなければ首がないのと一緒」みたいな仕組の社会、

他人の懐の金を狙って、騙して、奪いとる算段をする社会、

この社会を明るく変えたくない悪い人たちがいるのは事実、

それでオツベルや、お金に執着する人たちが生れたのです、

お金に執着する人が幸せなら良い…だけど不幸な顔ばかり。



その不幸な人たちに憧れるなら、それは阿呆な人たちです。

輝く人に共通してること…社会や他者を目的に働いている。

幸せに輝きたくて、賢い人は他者の幸せを目的として働く。

人は輝いてこそ愉快で、楽しく・幸せに・充実して暮せる。

お金もうけに汲々するのでなく、誰かの幸せを願い生きる。

それは伴侶でも家族でも仲間でも…ボランティアでも良い。



結局、

お金や地位や体裁に囚われる限り、そこから脱出できない。

脱する一番の大道…働くことを大いに楽しむことでしょう。

自分の家族から決して、第二第三のオツベルを生まない事。

それが楽しい幸せな家庭を作り育む…平和な社会の第一歩。

「オツベルと象」を読んで、そんなことを思います。




(ここまでで「オツベルと象」を終ります)


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[ 投稿者:ノラ at 23:30 | 宮澤賢治 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

オツベルと象(3)
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もしか、あなたの幸せとオツベルの幸せは似ていますか?


 ♪
 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん

 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動がるれ
(梁塵秘抄)



子供というのは、

遊びをしようとしてこの世に生れてきたのであろうか、

 それとも戯れをしようとして生れてきたのであろうか、

無心に遊び戯れている子供たちの声を聞いていると、

 それだけでもう、私の体までもが反応していることだ。


 〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇


誰かの獲物を横取りしようと虎視眈々と隙をうかがう獣たち、

獣たちに狩りのツレはいても、獲物を譲りあう仲間はいない。

強い者から順繰りに腹いっぱいに食べるのが弱肉強食の社会。

秩序にみえて、実は、互いの隙を窺がい、懐を狙う敵対関係。



弱い者は全てを奪われ・失い、人間としても扱われなくなり、

部落が生まれ、奴隷が生まれ、農奴が生まれ、憎しみが残る。

弱い者はイケニエとされて、邪悪の法はイケニエを容認する。

強い者を保護し守ろうとする集団で、法は弱者をいたぶる。



奪い・騙しを悪と認めない集団内に争いが絶えることはなく、

そのような奪い合いの関係からは、平和が育つことはなくて、

日本では毎年3万人以上の弱者が自殺に追い込まれています。

そんなふうに獲物を奪い合う野獣の時代の混沌に社会は在る。



腹が減ったら大人だって、手当たり次第に食べたいだろうし、

奪い合いは詰らないと本能的に気づいたのは母かも知れない、

子のために獲物を持って帰る母の本能は譲り合いへと育った。

母に発言権がある母権社会は譲り合いの心が育ちやすいかも。



私自身は家族と分け合い・助け合って暮すなかに育ちました。

譲り合いの家庭の温もりを知っている数少ない現代人かも…。

その経験が、奪い合いに狂奔する人たちの愚かぶりを教える。

自分だけが得しようとして、結局、なんの幸せも得ていない。



甘い儲け話に飛びついた筈なのに、なぜ貧しいのでしょうか?

誰も知る人のない美味しい儲け話…ぜったい儲かる筈なのに?

奪い合いの社会からあなたに舞い込んだ貴重な儲け話でしょ?

欲深い人があなたに教えてくれた有難い儲け話★感謝・感謝★



珍しい御馳走を食べたい…あなたは、食べなきゃ承知しない、

他人より豪華に暮したい…あなたは、豪華でなきゃ許せない、

他人に羨ましがられたく…あなたは、他人の顔色をうかがう、

そして結局、いつだって…あなたは、不平・不満の中に住む。



幸せは儲け話にあるかも知れません、それが儲からなくても…

儲け話を聞いてるだけで贅沢な生活を想像して楽しいあなた…

それなら儲け話をみんなに教えてもちっとも損はしないんだ…

それなら儲け話でなくても構わない…楽しく時を過せばいい。



子供は本来、自分だけが楽しもうとして過してる訳ではない、

誰かを羨ましがらせよう・見せびらかそうと望んでもいない、

自然の子供は、みんなと共に楽しもうとしているものであり、

みんなとの触れ合いそのモノを楽しんでいるもののようです。



その純真な子供の心…子供の心を忘れているなら、不幸です。

幸せを財産で換えず、地位で換えず、卑しい心で換えられず。


 ♪
  遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん

  遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動がるれ




オツベルはお金で幸せを購えると思い違いしてたのですね★


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[ 投稿者:ノラ at 05:00 | 宮澤賢治 | コメント(2) | トラックバック(0) ]

2011年04月28日
オツベルと象(2)
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高価な琥珀のパイプをくわえてオツベルが工場を見回っている。

大勢の百姓を巧くつかって稼ぎまくっている頭のオツベルです。

百姓たちは一日中、真っ赤な顔をして稲こき機を踏んでいます。

オツベルに睨まれたら百姓たちは恐ろしくて縮こまってしまう。

おかげで小山のように積まれた稲束も、ドンドン扱けるのです。



そんな稲こき工場も、初めての人には珍しく見えるに違いない。

あなただって、あなたの子だって、キッと気になるに違いない。

パチパチ弾けて、片側にはモミの山、もう片側には稲わらの山。

その不思議なモノを見つけて私も幼いとき、見とれていたもの。

周りに敷いたムシロの上にも弾けたモミがぱらぱら飛んでくる。



林の中から現れた白い象も私と同じ気持ちで寄ってきたのです。

この白い象をあなたに置きかえて読んでみたら、解るでしょう。

あなたのお子さんに置き換えてみられても、よく解るでしょう。

作業しているオジサンやオバサンが笑いながら声をかけてくる。

オモシロイかい? 人の好い笑顔を浮べて楽しそうに言います。



「ウン!」うわの空で返事しながら、稲こき機を見詰めてた私。

象の気持ちも、あなたの気持ちも、みんなの気持ちも同じです。

「お譲ちゃん、あんまり近づいたらパチパチ弾けて、痛いよ!」

それでも気にしないで覗き込む私・あなた・あなたのお嬢さん。

「どこから来たの? とっても色白の、可愛い顔してる子だね」



そんな会話をしてもらって、飴玉か、牡丹餅をもらったりする。

オツベルはやさしくて、かわいい飾りをくれたりするんだよね。

草を編んだネックレスを作って首にかけてくれたり、やさしい。

おそるおそるだったお譲ちゃんも、次第に大胆になるものです。

工場の中まで入っていったり、まるで我が家のように歩いてる。



広い工場を歩きまわってたらお腹も空いてきてご飯も食べるよ。

暗くなって出口が見つからなくなって、帰り道も分らないけど、

オツベルおじちゃんはやさしいし、泊ることになるのだろうな、

白い象はキッと、そんな楽しい嬉しい気持ちで過したんだろう、

気がついたときにはもう、白い象は帰るに帰れなくなっていた。



女の子と違って白い象は力が強いから、食事を減らしたんだよ。

これが大人の女性の場合も逃げられないよう、食事を抜くかも、

酒吞童子に連れてこられた女性も似たようなものかも知れない、

炊事・洗濯・掃除など、一日中・働かせて、逃げられなくする。

恐怖と疲労と飢え、逃げる道順を知らなければ逃げようがない。



白い象の皮も脚も牙も何もかも高くで売る算段をしていたんだ。

象牙みたいに美しい歯並び、色白の乙女も高価な値がつくんだ。

そういえば、安寿と厨子王を買った人に、山椒大夫がいました。

今の日本に人さらいはいないとお思いの方はいるのでしょうか、

形を変えた人さらいはネットにも大勢ひそんでいると言われる。



騙して連込んだ女性を撮って恥める現代日本の人さらいたちね。

ずいぶん頑丈な檻に入れられたら…もう自由に歩きまわれない。

そうなるともう、象も女性も、オツベルの財産になってしまう、

オツベルのお金を稼ぐためには何でもしなきゃ、ならないんだ、

財産だからね、象も女性にも、人権なんて有ったものじゃない。



オツベルから逃げよう…なんて、白象はちっとも考えなかった。

そりゃ、力を失くした弱い白い象だもの、非力な女性だものね。

逃げようとして見つかったら、どんなに酷い目に遭わされるか、

死ぬ目に遭わされるか、ほんとに殺されてしまうかも知れない。

後は死ぬのを待って、生きることを諦めて泣いてた白い象なの。



自分の力だけでは絶対絶命の地獄からは逃げ出せない場所です。

「苦しいです」ってだけで折檻される白い象・被害者なんです。

サンタマリアが助けてくれるなんて事、ホントにあるだろうか?

宮澤賢治は白い象・被害者を助けてあげたくて、懸命に考えた、

「同じ人間として何とかしなきゃ!」って賢治は思ったのです、



その宮澤賢治に「十一日の月」が手紙を書きなさいと教えます。

「仲間へ手紙を書いたらいいや」と、月がわらって言いました。

そうなんだ、オツベルのあんまりな仕打ちを書いたら良いんだ。

白い象はオツベルに騙されて酷い目に遭ってるって書けば良い。

仲間なら、人間の仲間ならキッと、知らないふりはしない筈さ。



「オツベルときたら大したもんだ」と、誉めてた人も気づく筈、

オツベルの本性を知って、それじゃいけないって気づく筈だよ。

白い象は白い象じゃない、白無垢の純真なあなたの子どもだよ。

その子どもたちが互いに憎み合って傷つけ合って良いだろうか?

よその女の子をかどわかして酷い目に遭わせても良いだろうか?



あなたの大切な子が「しくしくしくしく泣いて」ても構わない?

自分だけは上手く立ち回れる、上手に生き残れると計算してる?

「どうして俺がこんな目に遭わなければならないんだあ」かも?

オツベルを見つける度に捕まえて、仕返しをして済ませますか?

オツベルを血祭りに上げて、皆でワイワイ騒いで済ませますか?

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[ 投稿者:ノラ at 01:55 | 宮澤賢治 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2011年04月27日
オツベルと象(1)
このお話を読むに当って、私はどう読むべきかと考えました。

童話作家はどのような感覚で童話を書いているのでしょうか。

昔から語り継がれる童話を分析した結果かもしれませんけど、

童話の読者は小学校六年生まで…それが業界の感覚に思える。



どうして白い象なの? どうして普通の象だと都合が悪いの?

六連発のピストルって? 単発式や二連式の散弾銃じゃない?

業界に倣って、私もこのようなことを考えてみましたけれど、

童話を書くテクニックにこだわるほどに、賢治を見失いそう!?



権威づけられることで「童話作家は輝けて良いこと」と思う。

そうすると「オツベルと象」は童話と呼べないシロモノなの?

ともあれ、調べられるだけは調べてみよう…そう思いました。

けど、既成の権威が童話と認めなければ自由に読むチャンス!



何も知らないくせに素人の傍若無人? 勝手気ままな物言い?

好き放題に書き連ねていますから、しっぺ返しは覚悟のうえ。

物書きが批判を怖れているようでは、それこそ恥かしいこと。

陰で言われても気にしない…それにしても面の皮の厚いこと。アセ


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白象が仏の使いとされていること…日本でも知られています。

白い象…突然変異かしら、何かの病気かしら、弱点はあるの?

お日様の光に弱いのかとも考えたけど、そうでもないらしい。

そうすると五週目にして、白い象の眼が赤くなったのですね。



散弾銃かしら…六連発の散弾銃は昭和の初期に有ったかしら?

ライフルにしても、陸軍の村田銃はお粗末な物だったらしい。

鞍馬天狗や高杉新作がピストルを持ってた話は知られていた?

それでピストルなら手に入ると考えついたのかも知れません。



人と象が語り合う仲なのよ ☆ お月様が象に語りかけるのよ!?

その流れで「オツベルと象」のお話は展開されていくのだわ!

そうすると後はもう、理屈をこねくり回すのは野暮でしょう。

結局、これは子ども向きの童話でなく、大人への教訓話です。



もちろん、読んだ子どもたちは健康な意識に目覚めてほしい。



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[ 投稿者:ノラ at 20:16 | 宮澤賢治 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2011年04月26日
家長制度(4)
今の時代、今の日本に「家長制度」なんかない…そう思われますか?

巧妙に姿を変えてたら、もっと恐ろしい害を社会にばら撒いている。

見せかけの民主主義の仮面の下では苦しむ多くの人々が喘いでいる。



なにもかも搾取するために編み出した手法は幾つもあるけれど、

そんなものの名称を探る意味は殆んどないと言っていいでしょう。

北朝鮮にしても国名に民主主義と付けているのは御存じでしょう。

要は中身がどうか…良い体制が実現できているかどうかなのです。

どんなに民主的手法の会社でも家長制度を採りいれている筈です。

日本の古代・上代の時代以前からの家長制度なのです。

もちろん、胡散臭い会社も家長制度を使って搾取している。

それなら家長制度を毛嫌いするよりも上手に採りいれるほうが良い

それには「一人立つ」しかない。



だれかの顔色を窺がう生き方でなく、堂々と主張して生きていく。

だれかのオコボレを貰って有難がるような、卑しい生き方をしないことです。

だれかの懐を狙って、だまして奪い取ろうと思わないことです。

正々堂々と、価値交換して欲しいものを手に入れたら良いのです。

商いとは騙すことでなく、相手の役に立つように動くことであり、

結局、相手が喜ぶことが商いですから、自分も堂々とできるのです。

働くことも誰かを騙すことでなく、誰かの役に立つことです。

誰かを楽にしてあげたり、幸せにしてあげるために働きます。

ニセモノの幸せを与えて、それで働いたことにはならない。



仕事の本質、働くことの意義、商いの心構え、それを知ることです。

心構えが歪んでいては、仕事にならず、結局、役立たずな訳です。

心構えが出来ていれば、どのような体制下でも良い仕事はできる。

それが人間性を無視した体制であれば、従うことはないでしょう。

人間性を無視した体制に尾っぽを振るなんて、恥ずかしいことです。

そう割切れば、この日本のどこに住んでも堂々と生きられる。

宮澤賢治の「家長制度」を読んだ私の、これが結論です。

宮澤賢治のファンでない私でもこれくらいの覚悟はしています。

ホンモノの賢治ファンなら、どんなに素晴らしい生き方を見せてくれるか…?

やはり私にも、ファンに期待したい気持はあります。ガンバレェ〜★



(この項、おわり)
[ 投稿者:ノラ at 22:20 | 宮澤賢治 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

家長制度(3)
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高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり



仁徳天皇は立ち昇る煙に、食事する民を想って安らぎました。

あらゆる物の見えかたは立ち位置でまったく異なりますよね。

青空に浮かぶ白い雲を富士山に登って見たら、眼下に流れる、

空を流れる白い雲ひとつにも、人の心はいろいろに感じます、



宮澤賢治の「家長制度」には宮澤賢治の見た世界が著れるし、

この女性に憐みを感じる人のヤルセナイ気持は私にも解るし、

息子たちの立場に共感する人たちが見てるものは私にも解る、

一家の主に共感する人たちが大勢いても勿論不思議ではない、



政治家・高級官僚は苦しむ民を想って何をすべきでしょうか?

家長制度の社会で私たちはどの位置に立てば良いでしょうか?

家長制度の社会でトップに立つ人々は何をすべきでしょうか?

トップのあなた・トップの私…何をしたら良いのでしょうか?



見方・捉え方によって人の心は幸不幸に別れ、正邪に別れる。

家長制度に従うときは、独裁主義思想に堕し、人を苦しめる。

家長制度を突詰めて捉えるときには、民主主義思想にもなる。

そう考えるとき強ち家長制度は邪悪と言えず、救いが見える。



そうすると、賢治の短編「家長制度」にも明るい光が見える。

あなたにはこの一家の主がどれだけ幸せに見えたでしょうか、

一家の家族に生れた息子がどれだけ幸せに見えたでしょうか、

虐げられる女性と己とを比べるしか知らなければ…不幸です。



真の幸せを知らない人はいつも他者と己を比べて…溜息吐く。

俺のほうが多いと知っては鼻高々で有頂天になり…得意がる。

俺のほうが貧しいと知ると意気消沈して悲嘆して…僻んでる。

いつも他者と比較して、相対的に比較して…それは貧しい心。



貧しい心は権力や財力を持ってしても癒されることなどなく、

敬われたい、得意がりたい、あげくに嫉妬をくり返す心にて、

充実することのない日々から決して逃れることは出来ないし、

そのように貧しい心の人の伴侶も家族も…それゆえ不幸です。



人を仲間と思わないゆえに、決して心を許し開くことはなく、

猜疑心を絶えず働かせて人生を楽しむゆとりが有る筈もない。

それゆえに従業員や息子までも抑えつけて意のままにしたい。

痛くない腹をさぐられたくなくて、息子たちも息をひそめる。



短編の登場者たちの動きは広汎性発達障害者のものでしょう。

それどころかその原因になっている主も健康体には見えない。

凡ての人を価値的に考えられない状況にまで追いこんでいく。

しかも冷静な筆者までもが「身も世もなく」追込まれている。



世界でも有数の富裕国といわれる国の…これが実態なのです。

国民の殆んどが精神を病んでお金を貯め込んでも、惨めです。

お金を持っていても使えない、使い方を知らない…お金持ち。

人間を見ないで、詰らない一生の果てに人間の敵として死ぬ。



私は宮澤賢治の「家長制度」にそんなことを考えさせられる。

これは家長制度が悪いから不幸になると言うのとは違います。

凡ての人が責任者の自覚に立てば、誰も制度に振回されない。

すなわち、制度を替えただけで社会が良くなるものではない。



こう解ってみると「すべての責任は私にある」となるのです…

しかもそれで生きているのが楽しくなりますから、素敵です。


[ 投稿者:ノラ at 14:56 | 宮澤賢治 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2011年04月25日
家長制度(2)
(意訳)

炉の油が燻ぶる向うがわ、この家の主の席が設けられている、

大黒柱を切り取ったかと思う逞しい膝がどっしり揃えられている。

夜の闇のなかを先程、この家の息子たちが音も立てず帰ってきた。

肩幅の広いガッチリした身体に蓑をつけた息子たち、

汗で寒天みたいに黒光りした四〜五匹のデッカイ馬を連れていた、

かれらは馬を厩に入れて何やらマジナイみたいにしていた、

それから気配を消して土間で飯を食べていたが、

厩の辺りの藁や草のなかに転がるように寝てしまった。



ウッカリ気に入らないことを言おうものなら、

たちまち息子の誰でも私を片手で表の闇に引きずり出せるだろう。

そのような巨体がいくつもモノも言わずに眠っている、

いや、たぶん眠っているのだ。



黒い油煙を上げる灯火の下、女性が一人、食べ物を用意している。

それはまるで鬼にさらわれて、洗濯でもさせられているよう、

女性はどうやら私のための食事をこしらえているようなのです、

それなら要らないとさっき断わったのですよ…。



とつぜん、ガタリと音が響いた。

重い陶器の皿か何かが滑って床に落ちたのだ。

主人は黙って立って、女性のほうへ歩いて行った。

それから三秒ばかり、しんと静まって、

主人はもとの席へ戻ってきてどしりと座った。

どうやら、女性はぶたれたようでした…。

音を立てないように撲ったのです…。

その証拠に土間の人の気配は消えて死人のように静まって、

主人の目玉は古びた金貨のようにして鈍く光っている、



それで私は辛くて悲しくて身の置き所もなくて堪らない。


原典 家長制度」です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


わたしは思うのです。


借金の形(かた)に取られたか、売られてきたか、

いずれにしても、この女性にはマトモに食べ物もあてがわれない、

食べ物をマトモに食べてさえいれば、皿を落とすこともない、

誰よりも朝は早く起きて、誰よりも夜は遅く寝ているに違いない、

そして朝早くから眠りに就けるまで一日中休みなく働いている、

誰よりも粗末な物を、誰よりも少なく食べて、一番よく働く女性、



このような様子を見て、ある人たちは言うでしょう。

この主人は人間じゃない、人間の皮をかぶった鬼だ、畜生だと、

憎い、憎い、憎いと呪うかもしれない、

やっつけろ、あいつらをやっつけろと叫ぶかもしれない、



また、ある人たちは言うでしょう。

弱い者は損だ、真面目に暮すのはバカバカしい、賢く生きようぜ、

お金は汚く稼いでキレイに使って楽しく生きたら好い、

人に使われるのは損、お金は儲けた人の勝ち、上手く稼ごう、



多くの世間の親たちは子供に言うでしょう。

「勉強しなけりゃ、この女の人みたいになるよ」って…。



そしてこれらの人たちは「自分の考えしかない」と思っている。

もしかして、あなたの考えもこれらに属していませんか?

多くの政治家も、多くの権威・権力も、同じような考えをしてる。


 あなたもやはり、似たお考えでしょうか?

 もっと良いお考えを、お持ちでしょうか? 

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[ 投稿者:ノラ at 23:52 | 宮澤賢治 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

家長制度(1)
宮澤賢治が「家長制度」を書いたのは20歳の時だったようです。

そしてそれから十年、30歳で「オツベルと象」を発表している。

さらにその翌年、賢治31歳のときには警察の聴取を受けている。

賢治の作品を読めば解るけれど、民主的思想が咎められたと思う。



4百字詰め原稿用紙2枚分の短編「家長制度」に私が感じたこと、

読んで直ぐに「オツベルと象」の筋立てにソックリだって思った。

「オツベルと象」は加害者と被害者が絡み合ってて解りにくいし、

「家長制度」も誰が加害者で、誰が被害者なんだか判然としない。



お人好しに向って懸命に「起きなさい」って呼掛ける作者がいる。

それで寝惚けていきり立つ人がいるし、眠ったままの人も多いの。

いきり立つようでは絶対に駄目で…それは寝惚けてるからだけど…

そうすると被害者までが加害者になり…バッカじゃないって思う。



そんなことも考えないで、いきり立つ人は大勢いらっしゃいます。

勿論「オツベルと象」も家長制度の仕掛け・仕組みを語っている。

それにしても「家長制度」ってそんなに悪い制度なのでしょうか。

やっぱり警察に引っぱられることをしてた賢治が悪いのじゃない?
[ 投稿者:ノラ at 16:37 | 宮澤賢治 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2011年04月24日
文学少女風に
  初めの信州モードに戻したいと思います

 それに宮澤賢治の故郷・岩手に近いし、

やはり文学少女ふうにしたいと思います。


 出来るだけ間を空けたくなくて…

  それでカテゴリーを増やしましたけど、

   書くことが無ければ、空けてたらいいって、

  そんなふうに考え直すことに致しました。


 それで文学カテにそぐわない記事は削除いたしました。
[ 投稿者:ノラ at 19:21 | 山小屋の詩 | コメント(2) | トラックバック(0) ]

2010年09月10日
定番は大根おろし (今日のテーマ)
イタダキマ〜ス ♫  (=^・^=)  <*)) >=<

サンマの美味しい季節ですね〜♪ 
濃いくち醤油でいただいても美味しいし、レモンを絞っても美味しい (^o^)丿

        >>゜))))彡
[ 投稿者:ノラ at 10:33 | 山小屋の詩 | コメント(2) | トラックバック(0) ]